芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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8 かすかなオレンジ

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 その日の夕方、彼との待ち合わせ場所は昼間に遭遇したばかりのショッピングモールだった。

「お、昼間と服が違う」

 会うなり、彼は言った。
 ツッコまれるだろうと覚悟はしていたものの、いざとなるとやっぱり恥ずかしくて、両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。

「昼間のあれは誰にも会わんやろうと踏んで選んだ楽チンな服で……すっぴんやったし……できたらあの姿は、記憶から消去していただけたら」

 手の中でもごもごと言うと、彼が笑う気配があった。

「俺は麻衣のすっぴんの方が見慣れちゅうし、高校の体操着姿も知っちゅうき何とも思わんけどな。で? こっちはデート仕様?」
「……お出かけ仕様です」
「そこ、敢えて言い直すがや。いいけどさ」

 可笑しそうに笑ってから、彼はゆっくりと歩き出す。
 アイスクリンみたいな生成りのシフォンの半袖ブラウスにコーラルカラーの膝丈のスカート、華奢なゴールドのネックレス、ウエッジソールのパンプス。たったこれだけの無難なコーディネートに辿りつくのに、弟と帰宅してからほとんどすべての時間をつぎ込んだなんて、言えるはずもない。
 ついでに言うと、化粧にも普段の三倍くらいの時間がかかった。
 でも実のところ、一番迷ったのは下着のチョイスだった。
 お祭りの翌日に彼からのメールを受け取ってから、悩みに悩んだ末に会うことにした。それを涼子に話したら反対されるのではと思ったけれど、反応は意外にも「そっか。楽しめるといいね」というあっさりとしたものだった。代わりに、昨晩短いメールが届いた。

〈明日はタンスの中で一番ダサくて誰にも見せられないような下着で行くように〉

 あの夜と同じようなことにならないように、と心配してくれているのだろう。ありがたい助言に従って服の下にはベージュの下着を身に着けている。上下バラバラで、パンツに至っては綿百パーセントのハイウエスト。綿パンツの出所は母だ。大昔に買った高価な下着を未使用のままタンスの肥やしにしていたらサイズが合わなくなったから、と贈られた。何となく捨てるのも忍びなくて取っておいたものの、おそらく一生穿かないだろうと思っていたので、出番ができてよかったのかもしれない。

「ここも、だいぶ変わったよな」

 パンツに思いを馳せていたら、彼が言った。
 彼と一緒にプリクラを撮ったり洋服を買いに来たりしていたころとはもう随分と違っている。テナントも、各店舗のレイアウトも。それに、私の入る店も。

「昔はどこに何の店があるか完全に把握しちょったのに。もう全然や」

 そう言って通路の両側に並ぶ店舗を見渡す。

「サーティーワンはあの頃と同じ場所にあるよ」
「そうなんや。後で食おうかな」
「痩せるためにプロテイン飲むって言ってなかった?」
「痛いところを突いてくるな」

 彼はそう言って笑いながらポケットに軽く手を入れて肩をすくめた。
 白いVネックシャツにチノパン。薄い黒の長そでカーディガンを羽織った姿は、アンダーシャツの彼とは全然違う。だけど細かな仕草に昔の彼を見つけて、嬉しいような、寂しいような、懐かしいような、不思議な気持ちになる。

「高校時代は体作りのために節制しよって全然食べんかったもんね」
「その横で麻衣は三段重ねのやつ食いよったよな」

 彼は遠い目をする。

「そんなひどいことしたっけ?」
「したがって。しかも一回じゃないで。拷問かと思った」
「わたしも一応体重とか気にしちょったはずなんやけどなぁ」
「麻衣は太らん体質やろ」
「まぁ、あの頃はね。今はそうもいかんけど」

 あまり太らない代わりに、身長も伸びなかった。
 実母は今の母ほど長身ではないにしろ平均身長くらいはあったようだから、私が小さいのは幼いころに栄養が不足していたせいだろうと医師から言われていた。

「麻衣はクッキーアンドクリームが好きやったよな」
「うん」
「チョコミントが嫌いで」
「今でも苦手。歯磨き粉の味がするもん」
「そういや大学時代にヨーロッパ行ったとき、歯磨き粉が入ったチョコ食ったよ」
「何それ」
「ミント味の白いフィリングが入ったチョコでさ。めっちゃ高級なやつやったらしいけど、歯磨き粉とチョコ食いゆう気ぃしかせんかった。それで、麻衣の言いよったことがちょっとわかった」
「やろう?」
「まぁ、俺はアイスのチョコミントは好きやけどね」

 上辺だけをなぞるような、平坦で穏やかな会話が続いていく。
 昔なじみの気楽さと、久しぶりの気まずさと、この間の出来事のせいで生まれた妙な緊張が、体の中をぐるぐるしている。
 それから二十分ほど歩きながら話した頃だっただろうか。

「ちゃんと話をするなら個室のレストランかなって、思ったがやけど」

 彼が言った。

「二人きりで顔つき合わすより、歩きながらの方が話しやすい気がして」
「そっか、だからここやったんやね」

 学校帰りにここに寄って、何をするでもなくただ歩きながら色んな話をした。
 友達のこと、勉強のこと、進路のこと。
 他愛もない話題ばかりだったと思うのに、不思議なほど話は尽きなかった。

「座ってゆっくり話す方がええやったら、レストランに入ってもかまんけど」
「ううん。ありがとう。こっちの方がいい。ブラブラ歩きながら話そう」

 ショッピングモールを歩き回っていれば目についたものが話題の種になる。だから沈黙で気まずい思いをせずに済むし、レストランのように周囲の目を気にする必要もなく、気が楽だ。
 雑貨屋さんの店頭に並んでいたウサギの置物がふと目につき、持ち上げて裏側についている値札を確認した。

「あの日のことやけど。ごめん、まじで」

 彼はそう言ったきり、息を止めているようだった。
 小さくて可愛いウサギは全然可愛くないお値段だったから、そっと元の場所に戻した。

「あれは、私が『いいよ』って言うたんやもん。謝るようなことじゃないよ。むしろ、黙って帰ってごめんね。びっくりしたやろ」

 彼の目を見ることができなかった。向き合って話をするんじゃなくてよかったと、心底思った。

「終わった」
「え?」
「目が覚めたとき、『終わった』って思った」
「何が?」
「俺の長い長い……未練が、かな」

 大きな手が、たぶん欲しくもない雑貨を持ち上げて弄ぶ。私はその大きな手を、じっと見つめていた。

「麻衣のこと、ずっと忘れれんかった」

 どくん、と体のどこかで脈が跳ねる。
 入交くんも同じようなことを言っていたけど、本人の口から聞くのは違う意味を持っていた。

「あの日『変わったよな』って言うたんは、たぶん俺がそう信じたかったからやと思う。俺の知っちゅう麻衣とは違う、俺が好きやった麻衣はもうおらんって、ずっと自分に言い聞かせよったき」

 そう言ってこっちを向いた彼の表情は真剣だった。

「大学に入ってから耳にした話はどれも、俺の中の麻衣の印象とは全くつながらんかった。だから、いつも半信半疑で聞きよった。本人に会うて『やっぱり変わったんや』って思えたら、ちゃんとケリをつけられる気がした。それで、口座の開設を口実に支店に行ったんや。そしたら麻衣が小さい体で重そうな水のボトル持ち上げゆうがやもんな。あの瞬間、チアのポンポンが大量に詰まった袋に埋もれながら一生懸命運びよった麻衣が重なった」
「……よう手伝ってくれよったよね」

 廊下で一人ふうふう言いながら荷物を運んでいたら、黙って近づいてきて、私の手から荷物を奪って歩き出すような、不器用な優しさだった。追いかけて「ありがとう」と言うと、照れたように笑っていた。

「全然変わってないな、と思った」

 彼は手に持った雑貨を光に透かすみたいに目の前に掲げて、くるくると回している。

「変わってない麻衣を見て、ほっとした。矛盾しちゅうやろ。それで、自分でもわからんなった。変わっててほしいんか、変わらんでほしいのか」

 彼が雑貨を棚に戻そうとして伸ばした手が、隣に置かれた小さな陶器に触れた。
 コロン、丸っこい形をした陶器は陳列棚のふちに向かって転がる。
 反射的に手が出た。
 同じように、彼の手も出た。
 床に落ちかけた陶器を私が掴んで、それを私の小さな手ごと、彼の大きな手が包み込む。

「あっ」
「おっ」

 慌てて手を引っ込めた。彼も、私も。
 彼と自分の慌て具合が何だかおかしくて、私は思わずクスクスと笑い出してしまった。

「……なんで笑うんや」

 どうして私が笑っているのか、きっとわかっている彼は、顔を背けながら言った。
 この間もっとすごいことをしたくせに、手が触れただけで焦るなんて不思議だ。
 私が答えずに笑っていると、彼は静かに続けた。

「吹っ切るために会いに行ったはずやのに、気づいたら強引に飯に誘っちょった。滑稽やったやろ。あんなに必死こいて」
「滑稽なんて、思わんかったよ」
「俺は思うたがって。ガキみたいやって。それが情けのうてさ。飯食いゆう間もずっと、麻衣の中に昔の面影を探そうとしゆう自分に無性に苛立って……未練が口から飛び出した。あんな、最低な言葉で」

 ――抱かせてくれるが?

 胸がしくしくと痛んだ。私はただ、黙って彼の言葉を聞いていた。

「平手打ち食らう覚悟で追いかけたら『いいよ』って言われて、びっくりした。それに、心のどこかで喜んじょった。そのくせ、麻衣がこれまでどんな奴と経験を重ねたんかとか、そういうことばっかり頭に浮かんで、勝手にまたイラついた」

 日なたに置いておいたオレンジだとか、かすかに混じったヘドロだとか。
 あの日の匂いの理由が、わかった気がした。

「ほんと悪かったと思うちゅう。俺の勝手な苛立ちぶつけて。まじで最低やった。信じられんかもしれんけど、麻衣を傷つけたかったわけじゃないがや」

 私は軽く首を振った。
 彼の顔はこっちを向いてはいなかったけど、私が首を横に振ったことは、たぶん気配で伝わっていただろう。

「私、傷ついてないよ」

 そう言ってから、少し黙って、言い直した。

「もう、傷ついてない」

 ちっとも傷つかなかったと言ったら、たぶん嘘になる。あの夜、自分の価値のようなものを思い知らされた気がして、たしかに私は粉々になった。
 だけど彼の話を聞いていたら、粉々になったかけらが一つ一つ、元の場所にはまっていった。

「ぐちゃぐちゃ色んなこと考えて、ようわからんなったんは私も同じ。やきもう『ごめん』はやめよう」
「麻衣」
「お互いに、再会の仕方をちょっと間違えたよね。だから、やり直ししよう。『久しぶり』」

 そう言って右手を差し出すと、彼はためらいがちに手を握った。大きくて暖かい手が、私の小さな手をまた包み込む。

「……久しぶりの再会で握手するって、あんまりないけどな」
「たしかに」

 二人で笑って、手を離す。そして深呼吸をすると、さっき救出した陶器からふわりと薔薇が香った。

「あ、ええ匂い」

 丸っこいハート型の小さな白い陶器には小さな穴が開いていて、中の空洞に薔薇のポプリが詰まっているらしい。

「そういうとこ、変わらんよな」

 私の手からポプリの陶器を受け取って棚に戻しながら、彼は静かに笑う。

「そういうとこって?」
「匂いに敏感なとこ」
「……そうやっけ?」
「高校入学当初、よく鼻ヒクヒクしよった。今よりさらに身長小さくて、丸っこい目して、いっつも小動物みたいに鼻動かしゆうき。可愛いなと思って見よった」
「……初耳」
「高校時代の俺はそんなことを口にする余裕はなかったきね」
「鼻が動くの、カ……」
「か?」
「カズくんの、癖やと思うちょったのに」

 カズくん、という呼びかけに一瞬目を丸くしてから、彼は昔と同じ顔で笑った。

「麻衣の仕草かわいいなぁと思ってずっと見よったき、たぶん伝染った」
「え?」
「好きな奴の癖って伝染るがやって。大学の教養科目で聞きかじった心理学」

 その言葉が何となく照れくさくて、私は何も言わずにゆっくりと歩き出した。歩幅の違う彼は、私よりもさらにゆったりとした動きで足を出す。
 休日の夕方だから、ショッピングモールには家族連れの姿がたくさん。子どもを肩車しているお父さんの姿や、ベビーカーの中でぐっすりと眠る赤ちゃんの姿、買ってもらったばかりらしいおもちゃを抱えてニコニコと歩く子どもの姿が、次々に目の前を過ぎていく。
 それを眺めていたら、パサリ、と肩に暖かいものが乗っかった。
 驚いて肩を見ると、さっきまで彼が着ていたはずの黒いカーディガンが両肩にかかっていた。

「寒いんやろ。いいよ、それ着ときや」

 私がなおも驚いた顔をしていると、彼は続けて言った。

「無意識? さっきから腕さすりよった。ここ冷房効いちゅうき」

 無意識だったけれど、カーディガンの暖かさが心地よかったから、たぶん少し寒いと感じていたのだろう。

「……ありがとう」
「どういたしまして」
「あの、でも、借りちゃって平気なが?」
「俺は体温高いき」
「そう……やったね」

 カーディガンに残る彼の体温のせいで、言葉がうまく出てこなかった。私には大きすぎるそのカーディガンに袖を通すのは気が引けて、肩に羽織ったまま前を寄せて手でつまんだ。

「俺のじゃやっぱり大きすぎるな」

 カーディガンに着られている状態の私を見て、彼は言う。「やっぱり」ということはきっと彼も私と同じことを思い出していたのだろう。高校時代にも、これと同じようなことがあった。

「……聞かんが?」

 カーディガンの前をつまんだまま人波の中を進みながら、尋ねた。

「何を?」
「高校時代のこととか」
「ああ……」
「それを聞きたくて連絡をくれたんかなって、思いよった」

 彼は首の後ろに手をやって、一度天井を見上げた。

「連絡したんは謝りたかったからだよ。もう麻衣は二度と俺の顔見たくないやろうと思うたき、連絡できんかった。でも入交の伝言を聞いて、謝るチャンスをもらえるかもしれんと思った」
「そっか」

 高校時代のことを聞かれたら何と答えようか、ずっと考えていた。
 答えが出ないまま、ここへ来た。
 だからそのことを聞きたいのではないとわかって安心したはずなのに、胸の中にもやもやとしたものが広がった。
 私は一体、何を期待していたのだろう。
 昔のことを話して、その先に。

「俺の何がいかんかったんか、とか。何で急に俺を避けるようになったんか、とか。聞きたいと思わんかったわけじゃないよ。高校時代からずっと知りたいと思いよった」
「……今は?」
「麻衣が話してくれるやったら聞くけど、聞き出したいとは思うてない」
「どうして?」
「もう昔のことやき」

 過去のこととして消化したということなのだろう。
 私は「過去」の一部、か。
 うっかり視界が滲み始めたのに気づいて、私はあわてて通りがかりの服屋さんにディスプレイされていた帽子を手に取った。それを目深にかぶり、鏡を覗き込む。
 背の高い彼の角度からは、帽子のツバで私の顔は見えないはずだから。
 角度を調整するふりをしながら目元をぬぐってくるりと振り返り、「似合う?」と彼を見上げたら、彼は真剣な表情で私を見下ろしていた。

「麻衣は何でも似合うけど、帽子の話はちょい置いといて」

 顔を隠すためにかぶった帽子は、彼の手にあっさりと奪われた。ばっちり目が合ってしまって、何か言わなければと思った。とっさに口から出たのは謝罪の言葉だった。

「あの、ごめんね、カズくん。あのときのこと。今さらやけど、いつか謝りたいと思いよったき」

 見上げながら、たぶんうまく笑えていた。
 ピンチのときこそ笑えと、昔チアのコーチに口癖のように言われていたから。

「それ、入交からの伝言でも聞いたし。もういいよ」

 彼はそう言ってしばらく私を見つめ、それから顔を背けて肩を震わせた。

「そんなこの世の終わりみたいな顔せんでも」
「えっ」

 背けた横顔の口元が緩んでいるところを見ると、どうやら笑われているらしい。

「何か勘違いしちゅうみたいだけど、昔のことやきいいって言うたのは、どうでもいいってことじゃないで。俺は昔のことよりも、今のことの方が気になっちゅうってこと」
「今……?」
「麻衣が今、俺のことをどう思っちゅうか、とかかな」
「え?」

 服屋さんの前で立ち止まったまま、向き合っていた。

「大学以降の麻衣のことはほとんど何も知らん。でも、こうやって話しゆうと、やっぱり俺は麻衣のことが好きやって思う」

 たぶん私はマシンガンで豆を食らったハトみたいな顔をしていたと思う。

 その瞬間、ふわりと、オレンジの香りが鼻をくすぐった。


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