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10 薔薇とダウニー
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「わかっちゅうっつーの。我慢しゆうっつーの」
涼子が私の隣に座り、チューリップグラスを乱暴に揺らしている。
今日は彼女の好みに合わせた小さなバーだ。すでに相当酔っていて、恒例のおっさん顔になっている。
もともと涼子は洋酒派だし、明日は土曜だから心置きなく飲めるというのもあるのだろう。でも、最大の原因は涼子が今日受けたキャリア面談だ。
異動シーズンを前に今後のキャリア目標について上司と語るという面談。涼子は今年の四月に異動したばかりだから、面談の趣旨は職場の環境や資格の取得状況についてのヒアリングのようなものだったらしい。
涼子はテキパキしていて仕事ができ、直属の上司との仲も良好だ。でも、先輩の一人とそりが合わなくて苦労している。年次は涼子よりも五つも上なのに、しっかり者の彼女におんぶにだっこで、仕事に支障が出るくらい頻繁に細かい質問を投げてくるらしい。そのくせ虫の居所が悪い時には涼子に八つ当たりし、ミスは涼子に押し付け、「私は一般職だから」の一言で逃げるという。上司もその状況はわかっているけど、毎度「我慢してくれ」の一点張りで、涼子の堪忍袋もそろそろ限界を迎えそうになっているらしい。キャリア面談の希望で「あの人がいないところで仕事がしたい」と言い放つくらいに。
もちろんそんな希望が通るはずもなく、「うまくやりたまえ。それも仕事のうちだから」という穏当なお返事をいただいて、絶賛ヤケ酒中なのだ。
「うん。涼子は本当によく頑張りゆうと思うよ」
「りょうこ」が「ろうこ」になってしまったあたり、私もだいぶ来ている。
「頑張ってますとも。無い愛想振りまいて。面談中やって満面の笑みやったがで?」
「涼子の満面の笑みって私でもほとんど見たこと無いもんね」
「やろ?」
クールビューティーな涼子に満面の笑みで「あの人がいないところで仕事がしたい」なんて言われたら、私なら震えるけど。
「で? 麻衣は?」
「私のキャリア面談は来週やき」
「違う。映画、行ったがやろ?」
「あー……うん」
彼との映画の約束が実現したのは、ずいぶんと涼しくなってからだった。仕事に加えて高校の部活のコーチをしている彼はとても忙しいらしく、映画の上映時間になかなか暇ができなかったのだ。
「どうやったん?」
「映画は面白かったよ。安定のクオリティーでハラハラドキドキ。予想のつかん展開に手に汗握って、クライマックスはちょっとキュン、みたいな」
「そんな煽り記事みたいな答えは期待してない」
「そっか」
まぁ、そうだよね。
「私は上村先輩との関係がどうなったんかを聞きゆうがやけど」
「うーん……特に何もないよ。あの後も何回か食事に行ったくらいで」
数回誘われて夕飯を食べたけど、高校時代の友人たちの近況を語り合ったり、部活の話をしたりと、あの日以降彼が好意を口にすることはなかった。
「ぶっちゃけ、好きなが?」
「あれ、既視感」
「それは既視感やのうて現実。私が前にも同じ質問をしただけ」
涼子はそう言って、ふーっと深く息を吐いた。
トントン、と爪がカウンターを叩く。
「涼子、吸ってもいいよ」
「麻衣、煙草の匂い嫌いやん」
「匂いが混じるきあんまり好きじゃなかったけど、今はもう平気やき」
「いや、やめとく」
「そう? 遠慮せんでいいのに」
涼子はヘビースモーカーではないけど、イライラしたときや仕事で煮詰まったときに煙草を吸う。
「煙草より今は麻衣の話」
「私の話って言うても、特に進展はないし」
「麻衣さぁ」
「ハイ」
「たしかこないだ『好きなわけじゃなくて好きやった』とか、乙女なこと言うてなかった?」
あ、これはマズイ。叱られる流れかもしれない。
「言うた……ような、気がします」
「やのに何でまた中途半端なことになっちゅうが?」
「ええと、これには深い理由があってね」
「深くもなんともないでしょうが」
「ショウガ」
「なに?」
「いえ、何でもないです」
隣に座っているから、前下がりボブに邪魔されて涼子の顔はあんまり見えなかった。
変わりに細長い指を見ていた。
あれ、涼子、指輪なんかしてたっけ。
まぁ、指輪くらい、するか。
回らない頭でそんなことを考える。
いいなぁ。爪が長くてきれいだから、指輪も映える。
子どもみたいな私の手は、指輪をしても何かおもちゃみたいに見える。おまけに手が小さすぎて、サイズがなかなか合わない。
「つまりさぁ、結局麻衣は上村先輩のこと好きながやろ。まぁそりゃそうやよね。高校時代に好きで付き合いよって、お互い嫌いで別れたわけでもなくて、再会して史上最低なお誘いにホイホイ乗る程度には気持ちが残っちょったわけで」
「わぁ辛辣なおコトバ」
「で? それなら付き合うたらええやん。なんで『ありがとう』とか言うてしもうちゅうが。どこの小悪魔よ」
「あの、別に焦らそうと思ったわけじゃないがやけど」
涼子はグラスを上から掴むように持って揺らした。
琥珀色の液体が揺れる。
「麻衣さぁ、スイッチしてみぃや」
「スイッチ?」
「いや、スイッチっていうか、私に置き換えた方がわかりやすいかな。たとえば私に好きな人がおるとするよ。で、その人とはずっと前に付き合いよって、別れました。別れの理由はようわからんで、かなり一方的でした。だから別れてからも引きずってました」
「……うん」
「久しぶりに再会しました。半ばヤケクソで夜の誘いを掛けたら乗ってきました。やっぱり好きだと思ったので告りました。返事は『ありがとう』でした。どうよ」
「ああ……」
「麻衣なら、私に何て言う?」
「『そんな人、やめたら?』……かな」
「やろ」
涼子はグラスを持ち上げて口をつけ、舐めるように飲んだ。芳醇な香りが私のところまで漂ってくる。ブランデーのストレートだ。いい香りだとは思うけど、ストレートで飲むと喉がヒリつくし、私には少し強すぎる。だからさっきからおとなしくウイスキーのコーラ割りを飲んでいる。ひとつ年下のはずなのに、お酒のチョイスといい精神年齢といい、涼子は十個くらい上な気がする。
「麻衣は〈お友達提案受諾〉なんて言うたけど、そうやなくて本当は〈お友達以上を提案したのに受諾されなかったから妥協してお友達でもいいよもしくはお友達から始めましょう提案〉やったがやろ」
「そう……かも」
スツールの上で身を縮める。
「別にかまんよ? 恋愛なんて自分が幸せになるためにするがやき、自分の気持ちを優先するんが悪いって言いたいわけじゃないが。好きでもないのに相手のためを思って付き合うとか、わけワカメやし」
「ええと、すいません涼子さん、なんですかそれ」
「わけワカメ」
涼子の手がふにゃふにゃと動かされ、それがワカメを意味しているのだとわかった。
そして、もう一つわかった。
今の涼子は、めちゃくちゃ酔っている。
間違いなくこれまで見た中で最大の酔っぱらい具合だ。
涼子は大きなため息をついた。おそらく相当酒臭いため息だったと思うけど、同じく酔っぱらっている私にはよくわからなかった。ただ、すこし怯えた。
「私が言いたいんは、好きじゃないんやったら解放してあげよってこと」
「好きじゃないわけじゃないよ」
言った後で「ジャナイ」の回数が合っていたか不安になった。たぶん合っていたような気がする。あたまがふわふわする。
「ほら、好きながやろ?」
「う」
「それやのに、麻衣にとっても相手にとってもキツい状態にしとく意味、ある? 好きです、付き合います、ハッピー。これまでの麻衣はそうやったやろ。それで最大の障害やった匂いもないなったわけやろ? むしろ、何を迷う必要があるわけ」
涼子の言っていることは、ものすごく正しい。それなのにどうして私は「ありがとう」しか言えなかったのだろう。
目の前のグラスについた水滴に、間接照明の光が映りこむ。
キラキラ、キラキラ。
お酒の力で潤んだ視界のせいで、光がぼやけてユラユラする。
「相手の……気持ちがわからんき」
「好きやって言われたんやお?」
「そうやけど、でも」
「でも?」
「口にする感情がいつも本物なわけじゃないって、知っちゅうきさ」
カウンターに肘をついてだらりとしていた涼子の背筋が、少し伸びた。
「『好きや』って口先だけで、全然気持ちが伴ってない人も本当にようけおるがって」
「いや、さすがに全然気持ちが伴ってないかくらいは――」
「わからんが」
涼子がゆっくりと、顔をこっちに向ける。長い足を組み直し、私の言葉を待っている。
「仕事でも叱られてばっかりながよ。窓口から外れて裏で仕事することが増えた。『上澤は気遣いができんき』って。飲み会で上司のグラスが空になりそうやったら注ぐとか、注文を聞くとかはできるんよ。でも普段の業務の中で求められる気遣いってそういうんじゃなくて、相手の気持ちを汲み取らないかんやろ?」
涼子は何も言わない。
「本当に全然わからんなった。たとえば、子供向けのアニメを見てて、登場人物が喜んじゅう、怒っちゅう、悲しんじゅう、楽しんじゅう、はわかるが」
「うん」
「でも、ドラマを見てもわからん」
「麻衣」
「大人向けのドラマ見ても、全然わからんが。人の感情はすごい複雑で、皆がどうやって表情からそれを読み取りゆうんか、よくわからん。見ただけじゃ好きか嫌いかなんてわからんよ。それに、カズくんが私のことを好きやって言うたのは、紅ショウガかもしれん」
「ごめん麻衣……ちょっと、意味がわからん」
「昔の感情を、懐かしゅう振り返りゆうだけやとしたら?」
再び甲子園という夢を追い始めた彼が、当時手に入れ損なったもう一つのものを追い始めるのは自然なことのように思えた。
彼が好きなのは、今の私なのか。
それとも、当時の私なのか。
「今も好きだって、言われたんやろ?」
「今でも変わらず当時の私を好きやとしたら? 私やって、彼自身を好きなわけやなくて、紅ショウガかもしれん」
「麻衣。とりあえず紅ショウガから離れてや。で、会田さんは紅ショウガ用意せんでいいですから。さすがにブランデーをストレートで飲みながら紅ショウガは食べんき。ていうかこの店に紅ショウガがあることにびっくりやわ」
涼子はカウンターの向こうに声を掛け、バーテンダーの会田さんは苦笑交じりに動きを止める。
「怖いん」
「え?」
「関係が出来上がってから失うのは怖いん」
「そんなん今までやって……」
言いかけて、涼子は私の顔を見るなり口をつぐんだ。
今までは家族がいて、家族からいい匂いがしていて、安心していられた。
付き合っていた人からもいい匂いがした。
誰かに好かれているという実感はそれだけで私の心に安らぎを与えてくれた。だから、いい匂いの人を好きになるのは私にとってごく自然なことだった。
それが、今や。
家族からの匂いがなくなったせいか、忘れかけていた幼少期の記憶がやけに蘇る。
仕事も叱られてばかり。
「指の間から、いろんなもんがこぼれていく気がするん」
家族、恋愛、仕事、それにもしかしたら、友情。
いつかまた、失うのだろうか。求めても求めても指をすり抜けていった、幼い頃のように。
「気がついたら、手が空っぽになっちゅうがじゃないかって」
あのころのことは、誰にも話したことはない。
涼子にも。父にすら。
自分が愛されるに値しない人間だと自白することになる気がして。
ひとりぼっちになりたくなくて、誰かに傍にいてほしいのに、失うのが怖くて手に入れられない。
相容れない願望が私の中で同居しているから、どうしたらいいのかわからない。
経験を重ねて私は少し賢くなったはずなのに、立ちすくんで動けないのは子どものときと同じ。大人になったと実感できるのは、どうしようもない状況を忘れるためにアルコールの力を借りてしまうことくらいだ。
グラスに半分くらい残っていたコーラ割りを一気に呷り、カウンターに肘をついて両手で顔を覆った。
「麻衣……? 泣きゆうが……?」
「泣いてないよ」
「すごい鼻声やけど」
「気のせい」
「指の間から、水、こぼれゆうけど」
「これは汗」
「麻衣の汗腺、どこにあるが」
「……目頭」
「ほら、ちょっと」
涼子の手が私の腕をつかんで、顔から手を引きはがす。
「汗、拭いちゃうき」
ゴシゴシと、涼子がハンカチで顔を拭いてくれた。
「麻衣は汗っかきやね」
ハンカチからは、柔軟剤の仕業らしいフローラルな香りがした。
「涼子は薔薇やったのに、ダウニーの香りになった」
「私、薔薇やったが?」
「そう。すんごいほのかでいい香りやったがやき」
「それはそれは」
溢れてくる涙をハンカチが残らず吸い上げていく。
「あ、コラ、鼻かむのはやめてよ」
「無理って。出てきてしまうもん」
じゃれ合いながら、顔をわしゃわしゃと拭かれる。
涼子のハンカチでは全然足りなくて、見かねた会田さんが差し出してくれたタオルまでびしょびしょにして、その日飲んだジャックダニエルのコーラ割が全部汗――もとい涙――に代わったころに、ようやく帰途についた。
涼子が私の隣に座り、チューリップグラスを乱暴に揺らしている。
今日は彼女の好みに合わせた小さなバーだ。すでに相当酔っていて、恒例のおっさん顔になっている。
もともと涼子は洋酒派だし、明日は土曜だから心置きなく飲めるというのもあるのだろう。でも、最大の原因は涼子が今日受けたキャリア面談だ。
異動シーズンを前に今後のキャリア目標について上司と語るという面談。涼子は今年の四月に異動したばかりだから、面談の趣旨は職場の環境や資格の取得状況についてのヒアリングのようなものだったらしい。
涼子はテキパキしていて仕事ができ、直属の上司との仲も良好だ。でも、先輩の一人とそりが合わなくて苦労している。年次は涼子よりも五つも上なのに、しっかり者の彼女におんぶにだっこで、仕事に支障が出るくらい頻繁に細かい質問を投げてくるらしい。そのくせ虫の居所が悪い時には涼子に八つ当たりし、ミスは涼子に押し付け、「私は一般職だから」の一言で逃げるという。上司もその状況はわかっているけど、毎度「我慢してくれ」の一点張りで、涼子の堪忍袋もそろそろ限界を迎えそうになっているらしい。キャリア面談の希望で「あの人がいないところで仕事がしたい」と言い放つくらいに。
もちろんそんな希望が通るはずもなく、「うまくやりたまえ。それも仕事のうちだから」という穏当なお返事をいただいて、絶賛ヤケ酒中なのだ。
「うん。涼子は本当によく頑張りゆうと思うよ」
「りょうこ」が「ろうこ」になってしまったあたり、私もだいぶ来ている。
「頑張ってますとも。無い愛想振りまいて。面談中やって満面の笑みやったがで?」
「涼子の満面の笑みって私でもほとんど見たこと無いもんね」
「やろ?」
クールビューティーな涼子に満面の笑みで「あの人がいないところで仕事がしたい」なんて言われたら、私なら震えるけど。
「で? 麻衣は?」
「私のキャリア面談は来週やき」
「違う。映画、行ったがやろ?」
「あー……うん」
彼との映画の約束が実現したのは、ずいぶんと涼しくなってからだった。仕事に加えて高校の部活のコーチをしている彼はとても忙しいらしく、映画の上映時間になかなか暇ができなかったのだ。
「どうやったん?」
「映画は面白かったよ。安定のクオリティーでハラハラドキドキ。予想のつかん展開に手に汗握って、クライマックスはちょっとキュン、みたいな」
「そんな煽り記事みたいな答えは期待してない」
「そっか」
まぁ、そうだよね。
「私は上村先輩との関係がどうなったんかを聞きゆうがやけど」
「うーん……特に何もないよ。あの後も何回か食事に行ったくらいで」
数回誘われて夕飯を食べたけど、高校時代の友人たちの近況を語り合ったり、部活の話をしたりと、あの日以降彼が好意を口にすることはなかった。
「ぶっちゃけ、好きなが?」
「あれ、既視感」
「それは既視感やのうて現実。私が前にも同じ質問をしただけ」
涼子はそう言って、ふーっと深く息を吐いた。
トントン、と爪がカウンターを叩く。
「涼子、吸ってもいいよ」
「麻衣、煙草の匂い嫌いやん」
「匂いが混じるきあんまり好きじゃなかったけど、今はもう平気やき」
「いや、やめとく」
「そう? 遠慮せんでいいのに」
涼子はヘビースモーカーではないけど、イライラしたときや仕事で煮詰まったときに煙草を吸う。
「煙草より今は麻衣の話」
「私の話って言うても、特に進展はないし」
「麻衣さぁ」
「ハイ」
「たしかこないだ『好きなわけじゃなくて好きやった』とか、乙女なこと言うてなかった?」
あ、これはマズイ。叱られる流れかもしれない。
「言うた……ような、気がします」
「やのに何でまた中途半端なことになっちゅうが?」
「ええと、これには深い理由があってね」
「深くもなんともないでしょうが」
「ショウガ」
「なに?」
「いえ、何でもないです」
隣に座っているから、前下がりボブに邪魔されて涼子の顔はあんまり見えなかった。
変わりに細長い指を見ていた。
あれ、涼子、指輪なんかしてたっけ。
まぁ、指輪くらい、するか。
回らない頭でそんなことを考える。
いいなぁ。爪が長くてきれいだから、指輪も映える。
子どもみたいな私の手は、指輪をしても何かおもちゃみたいに見える。おまけに手が小さすぎて、サイズがなかなか合わない。
「つまりさぁ、結局麻衣は上村先輩のこと好きながやろ。まぁそりゃそうやよね。高校時代に好きで付き合いよって、お互い嫌いで別れたわけでもなくて、再会して史上最低なお誘いにホイホイ乗る程度には気持ちが残っちょったわけで」
「わぁ辛辣なおコトバ」
「で? それなら付き合うたらええやん。なんで『ありがとう』とか言うてしもうちゅうが。どこの小悪魔よ」
「あの、別に焦らそうと思ったわけじゃないがやけど」
涼子はグラスを上から掴むように持って揺らした。
琥珀色の液体が揺れる。
「麻衣さぁ、スイッチしてみぃや」
「スイッチ?」
「いや、スイッチっていうか、私に置き換えた方がわかりやすいかな。たとえば私に好きな人がおるとするよ。で、その人とはずっと前に付き合いよって、別れました。別れの理由はようわからんで、かなり一方的でした。だから別れてからも引きずってました」
「……うん」
「久しぶりに再会しました。半ばヤケクソで夜の誘いを掛けたら乗ってきました。やっぱり好きだと思ったので告りました。返事は『ありがとう』でした。どうよ」
「ああ……」
「麻衣なら、私に何て言う?」
「『そんな人、やめたら?』……かな」
「やろ」
涼子はグラスを持ち上げて口をつけ、舐めるように飲んだ。芳醇な香りが私のところまで漂ってくる。ブランデーのストレートだ。いい香りだとは思うけど、ストレートで飲むと喉がヒリつくし、私には少し強すぎる。だからさっきからおとなしくウイスキーのコーラ割りを飲んでいる。ひとつ年下のはずなのに、お酒のチョイスといい精神年齢といい、涼子は十個くらい上な気がする。
「麻衣は〈お友達提案受諾〉なんて言うたけど、そうやなくて本当は〈お友達以上を提案したのに受諾されなかったから妥協してお友達でもいいよもしくはお友達から始めましょう提案〉やったがやろ」
「そう……かも」
スツールの上で身を縮める。
「別にかまんよ? 恋愛なんて自分が幸せになるためにするがやき、自分の気持ちを優先するんが悪いって言いたいわけじゃないが。好きでもないのに相手のためを思って付き合うとか、わけワカメやし」
「ええと、すいません涼子さん、なんですかそれ」
「わけワカメ」
涼子の手がふにゃふにゃと動かされ、それがワカメを意味しているのだとわかった。
そして、もう一つわかった。
今の涼子は、めちゃくちゃ酔っている。
間違いなくこれまで見た中で最大の酔っぱらい具合だ。
涼子は大きなため息をついた。おそらく相当酒臭いため息だったと思うけど、同じく酔っぱらっている私にはよくわからなかった。ただ、すこし怯えた。
「私が言いたいんは、好きじゃないんやったら解放してあげよってこと」
「好きじゃないわけじゃないよ」
言った後で「ジャナイ」の回数が合っていたか不安になった。たぶん合っていたような気がする。あたまがふわふわする。
「ほら、好きながやろ?」
「う」
「それやのに、麻衣にとっても相手にとってもキツい状態にしとく意味、ある? 好きです、付き合います、ハッピー。これまでの麻衣はそうやったやろ。それで最大の障害やった匂いもないなったわけやろ? むしろ、何を迷う必要があるわけ」
涼子の言っていることは、ものすごく正しい。それなのにどうして私は「ありがとう」しか言えなかったのだろう。
目の前のグラスについた水滴に、間接照明の光が映りこむ。
キラキラ、キラキラ。
お酒の力で潤んだ視界のせいで、光がぼやけてユラユラする。
「相手の……気持ちがわからんき」
「好きやって言われたんやお?」
「そうやけど、でも」
「でも?」
「口にする感情がいつも本物なわけじゃないって、知っちゅうきさ」
カウンターに肘をついてだらりとしていた涼子の背筋が、少し伸びた。
「『好きや』って口先だけで、全然気持ちが伴ってない人も本当にようけおるがって」
「いや、さすがに全然気持ちが伴ってないかくらいは――」
「わからんが」
涼子がゆっくりと、顔をこっちに向ける。長い足を組み直し、私の言葉を待っている。
「仕事でも叱られてばっかりながよ。窓口から外れて裏で仕事することが増えた。『上澤は気遣いができんき』って。飲み会で上司のグラスが空になりそうやったら注ぐとか、注文を聞くとかはできるんよ。でも普段の業務の中で求められる気遣いってそういうんじゃなくて、相手の気持ちを汲み取らないかんやろ?」
涼子は何も言わない。
「本当に全然わからんなった。たとえば、子供向けのアニメを見てて、登場人物が喜んじゅう、怒っちゅう、悲しんじゅう、楽しんじゅう、はわかるが」
「うん」
「でも、ドラマを見てもわからん」
「麻衣」
「大人向けのドラマ見ても、全然わからんが。人の感情はすごい複雑で、皆がどうやって表情からそれを読み取りゆうんか、よくわからん。見ただけじゃ好きか嫌いかなんてわからんよ。それに、カズくんが私のことを好きやって言うたのは、紅ショウガかもしれん」
「ごめん麻衣……ちょっと、意味がわからん」
「昔の感情を、懐かしゅう振り返りゆうだけやとしたら?」
再び甲子園という夢を追い始めた彼が、当時手に入れ損なったもう一つのものを追い始めるのは自然なことのように思えた。
彼が好きなのは、今の私なのか。
それとも、当時の私なのか。
「今も好きだって、言われたんやろ?」
「今でも変わらず当時の私を好きやとしたら? 私やって、彼自身を好きなわけやなくて、紅ショウガかもしれん」
「麻衣。とりあえず紅ショウガから離れてや。で、会田さんは紅ショウガ用意せんでいいですから。さすがにブランデーをストレートで飲みながら紅ショウガは食べんき。ていうかこの店に紅ショウガがあることにびっくりやわ」
涼子はカウンターの向こうに声を掛け、バーテンダーの会田さんは苦笑交じりに動きを止める。
「怖いん」
「え?」
「関係が出来上がってから失うのは怖いん」
「そんなん今までやって……」
言いかけて、涼子は私の顔を見るなり口をつぐんだ。
今までは家族がいて、家族からいい匂いがしていて、安心していられた。
付き合っていた人からもいい匂いがした。
誰かに好かれているという実感はそれだけで私の心に安らぎを与えてくれた。だから、いい匂いの人を好きになるのは私にとってごく自然なことだった。
それが、今や。
家族からの匂いがなくなったせいか、忘れかけていた幼少期の記憶がやけに蘇る。
仕事も叱られてばかり。
「指の間から、いろんなもんがこぼれていく気がするん」
家族、恋愛、仕事、それにもしかしたら、友情。
いつかまた、失うのだろうか。求めても求めても指をすり抜けていった、幼い頃のように。
「気がついたら、手が空っぽになっちゅうがじゃないかって」
あのころのことは、誰にも話したことはない。
涼子にも。父にすら。
自分が愛されるに値しない人間だと自白することになる気がして。
ひとりぼっちになりたくなくて、誰かに傍にいてほしいのに、失うのが怖くて手に入れられない。
相容れない願望が私の中で同居しているから、どうしたらいいのかわからない。
経験を重ねて私は少し賢くなったはずなのに、立ちすくんで動けないのは子どものときと同じ。大人になったと実感できるのは、どうしようもない状況を忘れるためにアルコールの力を借りてしまうことくらいだ。
グラスに半分くらい残っていたコーラ割りを一気に呷り、カウンターに肘をついて両手で顔を覆った。
「麻衣……? 泣きゆうが……?」
「泣いてないよ」
「すごい鼻声やけど」
「気のせい」
「指の間から、水、こぼれゆうけど」
「これは汗」
「麻衣の汗腺、どこにあるが」
「……目頭」
「ほら、ちょっと」
涼子の手が私の腕をつかんで、顔から手を引きはがす。
「汗、拭いちゃうき」
ゴシゴシと、涼子がハンカチで顔を拭いてくれた。
「麻衣は汗っかきやね」
ハンカチからは、柔軟剤の仕業らしいフローラルな香りがした。
「涼子は薔薇やったのに、ダウニーの香りになった」
「私、薔薇やったが?」
「そう。すんごいほのかでいい香りやったがやき」
「それはそれは」
溢れてくる涙をハンカチが残らず吸い上げていく。
「あ、コラ、鼻かむのはやめてよ」
「無理って。出てきてしまうもん」
じゃれ合いながら、顔をわしゃわしゃと拭かれる。
涼子のハンカチでは全然足りなくて、見かねた会田さんが差し出してくれたタオルまでびしょびしょにして、その日飲んだジャックダニエルのコーラ割が全部汗――もとい涙――に代わったころに、ようやく帰途についた。
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