芳香罪【方言ver.】

金里遠玖 かなりとおく

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11 キンモクセイの反撃

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 その日は朝から頭が重かった。
 喉もヒリヒリと痛むし、鼻も片方だけ詰まっていて、関節もキシキシと痛い。
 でも熱を測ってみたら微熱だったから、仕事には行くことにした。キャリア面談もあるし、これ以上職場に迷惑を掛けたくもなかったのだ。
 このところの失態のせいで窓口での仕事よりも事務作業が増えたのが、この日ばかりは有難かった。体調が悪いのを隠して笑顔を作るのは結構体力を使うからだ。一人で淡々とやる仕事なら、多少グロッキーな顔をしていても誰かに迷惑をかけることはない。

 営業の人から依頼された見積書の数字を打ち込みながら、ふとパソコンのディスプレイ脇に貼った細い付箋に目をやった。備忘のために「やることリスト」として付箋を張り付け、終わったらはがすようにしているのだ。その付箋がピンク色でピラピラと何枚もはみ出しているものだから、ぼんやりと見ていると例のアレが頭に浮かんだ。例のアレ――紅ショウガだ。
 一度そう思ってしまうと、今までどうして気付かずにいられたのかわからないくらい、付箋はひたすら紅ショウガだった。そのせいで、ついつい思考が別の場所へ流れていく。

 ちゃんと結論を出さないと。
 このままじゃダメだ。
 涼子がいうところの解放か、それとも。

 そんなことが次々に心に浮かぶのに、「どうすればよいのか」ということはおろか、「自分がどうしたいのか」さえもわからなくて、何も決まらないまま時間だけが過ぎていく。

 数字テンキーの上を小刻みに指が移動して、カチャカチャと軽い音を立てる。
 見積書の数字を間違ったら大変なことになるので、三度ほど見直してから印刷ボタンをクリック。
 すぐに、少し離れた場所にある複合機が目を覚ます。ブイーンだか、シュイーンだか。いつもと同じ、不機嫌そうな音だ。
 窓口に座って笑顔でお客様と向かい合っている同僚たちを横目に複合機に向かう。ガーッという音とともに吐き出された紙を取り、再度数字を確認する。印刷したてほやほやの紙はちょっと温かい。
 一度目は全然数字が頭に入ってこなくて、二度目でようやくちゃんと読めた。
 それからカンマの位置と宛先を確認し、先輩の元に向かう。

「見積書できました。ご確認お願いします」
「おう、さんきゅ」

 先輩に手渡し、ざっと確認した先輩から「今日はいちゅうし、ちょっと早いけど昼休憩に入ったら?」というありがたいお言葉をいただき、休憩室に向かった。
 休憩室には大きなテーブルとパイプ椅子が置かれている。そのパイプ椅子の一つに腰を下ろし、テーブルに突っ伏した。冷えた天板が心地いい。天板に触れたところから、ぴりぴりとした弱い痛みが肌の表面を走っていく。生理や熱の前兆に、よくこうした症状に見舞われる。喉の痛みや鼻づまりがあるから今回はきっと熱の方だろうと思いながらも、生理の周期を頭の中でたどった。たまにズレることもあるけど、周期は毎月の初めごろで大体安定している。予定通りならあと十日くらい先のはずだ。
 やっぱり、熱の方かな。
 夜になったら熱が出るかもしれない。
 少しすると店舗全体が昼休憩に入って、同僚たちががやがやと休憩室に向かってくるのがわかった。
 体を起こし、シャキッとする。

「お疲れ様でーす」

 同僚たちと軽い挨拶を交わしながら、朝のうちに注文しておいた宅配弁当のふたを開ける。ほかほかとした湯気が立ち昇ったけど、普段ほど食欲は湧かなかった。

「おっ里芋の煮っ転がし。もうそんな季節か」
「だいぶ涼しゅうなりましたもんね」
「ええ香りですねぇ」
「あそこの弁当は良い鰹節使っちゅうき、ダシが違う」

 持参する人以外は出入りの弁当業者さんに一括でお願いするので、皆同じお弁当だ。
 めいめい感想を述べながら、割り箸を割る。

「あ、そうそう、上澤さん」

 声をかけてきたのは後輩だった。
 口に入っていたご飯をもぐもぐし、いつもより少し苦労しながら飲み込んで、答える。

「なに?」
「上澤さん、小川涼子さんと同期ですよね?」

 迂闊にもこのタイミングで口に入れてしまった梅干しの種をどうやって吐き出すか迷いながら、コロコロと舌で転がす。いつもなら顔をクシャクシャにする威力を持っている梅干しだけど、味覚が鈍っているのかそれほど酸っぱさを感じない。

「うん」
「どんな方です?」

 テーブルの上にあったティッシュを一枚失敬して、種をプッと吹く。ついでに鼻をかみたくなったけど、食事中なので自重した。あとでこっそりトイレでかもう。

「美人でしっかりしちょって、仕事できるよ。どうして?」
「実は、私の母の友達の息子さんが小川さんとお付き合いしゆうとかで。私が同じ銀行に勤めてるからって、どんな人か知っちゅうか聞かれたんです」

 私の友人が後輩のお母さんのお友達の息子さんと付き合っている。
 近いような、遠いような。
 ただでさえ田舎の狭い世間だから、本気で探せばどこかで必ず繋がってるんだろうけど。
 そんなことより、「お付き合い」?
 つまり、涼子の彼氏ってこと?
 ああ、そういえば涼子の指輪。
 あれはやっぱり、意味のある指輪だったのか。
 里芋のモッチャリとした食感を楽しみながら、ぼんやりと考えていた。
 この間の飲みのお誘いは、その報告も兼ねてのものだったのではないだろうか。
 私が汗を噴出したおかげで、涼子は言えなかったのかもしれない。きっとそうだ。

「お母さんのお友達に伝えて。『大学時代から知っちゅうけど、面倒見が良うて優しゅうてあったこうて本当にいい子です』って」
「わかりました」

 涼子におんぶに抱っこだったことを反省。
 煮っ転がしに入っていたひき肉が箸から逃げ出そうとするのを執拗に追い詰めて口に入れながら、頭の中は紅ショウガと涼子の指輪に占領されていた。
 それも、窓口の営業時間が終わるまでのことだったけど。

「県外に転勤、ですか?」

 営業時間を終え、予定通り上司と支店長とのキャリア面談が始まってすぐのこと。
 私は呆然としていた。頭の中では、さっき支店長の口から飛び出した二文字――県外――が躍っていた。
 入社して最初の配属以降ずっと今の店舗だったから、この十月か次の四月に異動になるだろうとは思っていた。ただ、それが県外だというのは全くの想定外だった。

「あの、でも、たしか女性社員は県内で……」
「基本的にはね。とくに既婚で子供がおったら、生活へ配慮せないかんき異動は自宅から通える範囲になりやすい。でも上澤さんの場合は独身やし、雇用契約上は全国転勤のある総合職採用やき県外転勤も想定の範囲内。それに、これから女性の仕事の幅も広げていかないかん、いうんが全社的な方針でね」
「それはそうですが……」

 それでも、実際の運用上、女性社員に県外転勤が命じられることは滅多にないと聞いていた。
 だからこそ就職先としてここを選んだと言っても過言ではないのに。

「ちょうど隣県の営業所で、女性スタッフが相次いで四人も産休に入ったところがあってね。中規模支店で、経験面から言うても上澤さんの次の異動先としてはちょうどいいと思う。高速道路を使えば二時間半ばぁの距離やき、それほど負担も大きゅうないやろうし、と。まぁまだ決定ではないけんど、一応意志確認をと思って。オフレコで頼むよ」
「……はい」

 これはもしかして、「やめろ」ということなのだろうか。肩たたきとでもいうのか。
 このところ仕事に身が入らなくて迷惑を掛けたとはいえ、やめなければならないほどの失敗はしていないと思うのに。
 私がよほどひどい顔をしていたのか、上司が気遣うように言ってくれた。

「上澤は資格も順調に取れてるし、ステップアップのええ機会になると思うよ。とりあえず、考えといて」
「……わかりました」

 それからどんな話をしたのか、よく覚えていない。
 「県外」の二文字がぐるぐると頭を巡っていたから。
 高速道路を走っても二時間半の距離。平日の朝は渋滞するだろうし、事故のリスクもある。通えるはずがない。となれば、転勤が決まれば家を出ることになる。
 家を、出る?
 そんなことをしたら二度と戻って来られないかもしれない。
 かといって転勤を拒否するというのも難しいだろう。キャリアが打撃を受けるのは間違いないし、下手をすればクビ……いや、さすがにクビにはならないだろうけど、居づらくはなるだろう。
 仕事をやめる?
 今と同じくらいの収入を得られる仕事なんて、簡単に見つかるだろうか。
 証券外務員やらFPやら、入行後に取った資格はたくさんあるけれど、その資格を生かせるのは金融の仕事だけだ。うちの銀行をのぞけば、県内では地元の信金と都市銀行の現地採用スタッフくらいだろうか。
 都会みたいに選択肢がたくさんあるわけじゃないから転職先を見つけるだけで一苦労だ。それに、配転拒否という後ろ向きな理由での退職者を受け入れてくれるか甚だ疑問だった。
 親に迷惑をかけるのだけは避けなくては。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 体調のせいなのか気分の問題なのか、視界がゆらめく中、必死に背筋を伸ばして何とか面談を乗り切った。

「失礼します」

 お決まりの挨拶と共に面談の部屋を出て仕事に戻ってからも、頭を占めていたのは転勤のことばかりだった。
 同僚たちが「お先に」と言って帰っていくのを見送りながらパソコンと向き合っている間もずっと。
 仕事を何とか片付け、ロッカールームに向かい、ロッカーを開け、制服を脱ぎ、私服に着替える間も。
 着替えを終え、しばらくはロッカールームのベンチに座っていた。
 家に帰る気が起きなかった。
 体は昼間よりも熱っぽくなっているし、今すぐベッドに倒れ込みたい。でも、家族と顔を合わせる準備ができていないのだ。

 ――涼子に話を聞いてもらおうか。

 いや、でも涼子にはつい先週迷惑を掛けたばかりで、おんぶに抱っこだったと反省したのは昼のことだ。彼女には彼女の生活がある。
 迷惑を掛けたくないという思いと、頼りすぎれば嫌われるかもしれないという思いが私を押しとどめた。
 結局決められないままふらりと店舗の通用口から出ると、スーツ姿の男性が立っていた。身長の割に肩幅が広く、がっちりとした体型には見覚えがあった。
 キイ、と門が上げた錆びた音に振り返ったのは、キンモクセイの新井さんだった。

「新井さん。あの、ほとんど皆さんもうお帰りに」
「知っちゅう。俺は上澤に会いに来たがやき。待ちかねたぞ」
「暴れん坊将軍みたいですね」
「何がや」
「何でもないです。あのでも、どうして」
「最近上澤の様子がおかしいっていうタレコミを受けて」
「タレコミ、ですか?」
「そう。荻野おぎのとは同期やきな」

 荻野、というのは七つ上の先輩だ。
 腐りかけのフリージアだった人。
 今になって、どうしてフリージアが腐りかけていたのか分かった気がした。
 新井さんをひどい理由でフッたから、か。

「とりあえず夕飯を食べに行くぞ」
「あの、でも」
「近くに最近できた店があるき」

 「はい」とも「いいえ」とも言わないうちから、新井さんはすでに歩き出していた。

「十五分くらい歩くけどええか? キツかったらタクシー呼ぶけど」

 新井さんは私の足元を一瞥してから言った。ヒールだからと、気を遣ってくれたらしい。

「いいえ、それは平気ですけど」
「そうか。じゃあ、こっち」
「あの、新井さん。いいんですか、その」
「何が?」

 どこから言えばいいのかわからなかった。
 あんなひどい別れ方をしたのに、どうして普通に話しかけてくれるんですか、とか。
 私とご飯に行ったことを知ったら傷つく人がいたりはしませんか、とか。
 ただでさえ営業で飲み会が多いだろうに、金曜の夜にこんなところにいて大丈夫なんですか、とか。

「すごく短く言うたら、私なんかとご飯食べよってええがですか、と」

 新井さんは朗らかに笑った。

「上澤は元彼女である前に後輩だから。今更どうこうなんて考えてないき、心配せんでええよ」
「そう、ですか」
「で? 後輩思いの先輩からの有難いお誘いを断る理由は?」
「……特にありません」
「よし」

 並んでゆっくりと歩き出した。
 こつん、こつん。硬い足音は、ヒールならではだ。

「俺いま法人営業におるやろ? その営業先が経営しゆう店なが。城南ホテルって知っちゅうか」
「あ、はい。大学の先輩が去年そこで結婚式をしたので。県内では老舗のホテルですよね」
「うん。そこが新しくオープンしたレストラン」
「そうですか。たしかあのホテルはお料理がおいしい言うて評判ですもんね」
「うん。この間のプレオープンに招待してもろうたけど、仕事がたてこんじょってどうしても行けんなってな。それで、正式オープンしたら行きますって約束しちょったが」

 店舗の周辺は夜でもそこそこ明るい。
 道を照らす街灯には小さな虫が集まってブンブンと飛んでいる。

「さすがにコース料理を一人で食べに行く勇気はないから妹を誘っちょったけど、今日になってドタキャンされた。そこに荻野からのタレコミがあったから、ちょうどいい生贄を見つけたと思うて」
「生贄にご飯食べさせるって、逆じゃないですか?」
「太らせてから差し出すのが定石やろう」
「たしかに」

 オリエンタルな香りが新井さんから漂ってくる。

「妹さんは……その後、お変わりなく?」
「うん、おかげさまで。ただの食中毒やし、今はピンピンしちゅうよ。彼氏とのデートを優先して兄貴との約束を反故にするくらいにね」
「そうでしたか」

 妹さんの話題を出したのは失敗だった、とすぐに思った。あの病院の駐車場でのことを否が応でも思い出してしまうからだ。首筋の鬱血痕も見られてしまっているのだし。
 会話が途切れて黙ったまま細い歩道を並んで歩いていたら、前から自転車に乗った高校生がやって来た。道を開けようと彼の後ろに回り、縦一列になる。この構図には、覚えがあった。前にある後ろ姿が違っているけど。
 学ランの男の子とブレザー姿の女の子の二人乗りの自転車が、そんな私たちの横をすり抜けていく。

「いまの制服上澤の後輩やったな。二人乗りOKやっけ?」

 新井さんが半分くらい振り向きながら言った。

「二人乗りは、校則以前にお巡りさんに注意されるような気がしますね」
「そうやな。ええんか、制服で」
「たぶんバレたらいかんと思います。でも、あの年齢じゃないとできないことでもありますよね、二人乗りって」

 彼らの姿に何かを重ねそうになって、それを打ち消すように瞬きをする。
 また新井さんの横に並び、歩く。

「たしかに、この歳でチャリの二人乗りはないな」
「自転車に乗る機会自体ほとんど無いですよね」

 だから、本当はいけないとわかりつつ、老婆心でつい見逃してあげたくなる。お巡りさんに見つからないといいな、と願って。

「店、そこ」

 そう言って新井さんが指さした先に、フランス国旗が見えた。

「あ、ここ。工事しゆうなって思ったら、レストランやったんですね。フレンチですか」
「うん。でも、そんなに気取ってない感じやって。ホテルのレストランよりもかなり低めの価格設定らしい。コンセプトは『ちょっと贅沢な気分を味わいたいときに普段着で入れる店』やとさ」
「普段着って逆に難しいですね」
「さすがにジーパンにタンクトップじゃダメやろうしな。まぁ、オシャレ着用洗剤を使う程度の服ってことでええんかな。クリーニングには出さない程度の」
「なるほど。ドレスコードにそう書いちょってくれたら助かりますね」
「オーナーに提案しとくよ」

 地上階に駐車場、その上に店舗という配置は、この辺りではよくあるものだ。
 階段をのぼり、ドアを開ける。

「予約した新井と申します。すみません、遅くなってしもうたがですが」
「お待ちしておりました」

 丁寧なお辞儀をした店員さん――たしかフレンチではギャルソンと呼ぶのだったか――に連れられて、奥の個室へと向かう。

「コースで予約入れちゅうき、それでかまん?」
「はい」
「飲み物は」
「あ、私、今日はアルコール遠慮させてください」
「了解。じゃあ、水で」
「かしこまりました」

 店員さんはにこやかに部屋を後にする。
 それから内装やカトラリーについての話がひと段落したところで言った。

「あの、もちろんですけど、払わせてくださいね」
「さすがに生贄に払わせるつもりはないよ。妹の分もどうせ俺が出す予定やったがやき」
「私は妹さんじゃありませんから」
「そんなことは二十七年前から知っちゅうけど」

 引き下がらない新井さんに、仕方なく例の出来事を持ち出すことにした。

「この間送っていただいたお礼もできてませんから、せめてここは払わせてください」
「礼はいらないって言うたやろ」
「でも、私はそれに同意した覚えはありませんよ?」

 新井さんはくいと口角を上げ、ホールドアップの姿勢を取った。
 計ったようなタイミングで、水と前菜が運ばれてきた。
 ホールドアップのまま動かない新井さんを前に、思わず苦情を申し立てる。

「ちょっと、なんか私が脅しゆうみたいやないですか」
「脅されゆうようなもんやろ」

 お皿のセッティングを終えた店員さんはクスクスと笑いながら部屋を出て行く。
 ぷぅ、と怒っているふりをしてみせると、新井さんは笑った。私もつられて思わず笑う。

「いつもの上澤、やな」
「へ?」
「ニコニコしゆう」

 相変わらず目の奥の方は重いけど、たしかに少し気持ちが晴れやかになっていた。

「それがいつもの上澤だったやろう。やに、今日店舗から出てきたときは今にも泣き出しそうな顔しちょった。何かあったがか」

 新井さんの目は真剣だった。

「何か、というと?」
「荻野からのタレコミの内容は、『最近上澤さんの様子がおかしい。いつも笑顔で感じよかった上澤さんが接客態度でクレームっていうのは意外。新井、あんたのせいじゃない?』やった」
「えっ新井さんのせいでは、全然」
「俺と別れて少しした頃から様子がおかしくなったとかで、完全に俺のせいにされちゅう」
「ごめんなさい。本当に全然、新井さんのこととは無関係で」
「やろうね。時期的に、俺には別の心当たりがあるし」

 少し口調が厳しくなった。
 私はうつむき、膝の上で握りしめた拳を見つめる。
 小さな小さなため息とともに、新井さんは言った。

「とりあえず、食べるか」

 新井さんは前菜をゆっくりと口に運んだ。私もそれに倣い、手を動かす。

「カツオってところがいいですね」
「そうやな。くさみがのうて美味いな。ポテトか」

 きっと色々と複雑な工程があるのだろうけど、簡単に言えばマッシュポテトをカツオでくるんだような前菜だった。きっと香りもすごくいいのだろうに、鼻が片方詰まっているのが悔やまれてならない。

「で?」

 新井さんはぺろりとすべて平らげ、ナイフとフォークを皿に置く。

「上澤が元気ない理由は、俺と別れた理由と関係あるんか」

 ただでさえ重い頭に、ずどんと何かが乗っかったような衝撃を受けた。マッシュポテトが、のどの奥に引っかかる。

「皆に言いゆうらしいな」
「何を……ですか?」
「『飽きちゃった』って。俺の前に付き合うた奴にも、その前の奴にも」

 見透かされているような気がした。
 だけど敢えてゆっくりと言った。

「そうです。すみません、飽きっぽうて」

 新井さんは眉一つ動かさず、余裕の表情で水に口をつける。

「上澤、通勤バッグ、いつから使いゆう?」

 唐突にバッグの話をされ、一瞬眉を寄せた。でも、答えを口にしてすぐにその問いの意図に気付いた。

「就活のときから、です……」
「冷房よけのレッグウォーマーも冬用の冷え対策のレッグウォーマーも毎年同じ。ペンケースも通勤バッグも財布も、皮の物をずっと使い込んじゅう。本当に飽きっぽい?」
「……男性に関しては」

 思わず目を逸らした。

「嘘が下手やな」
「……得意な方ですよ」
「そうかな」

 言うなり、新井さんは立ち上がった。そしてゆっくりとテーブルをこちらに回り込んでくる。椅子を少し引いたけど、個室のせまい空間ではそれ以上逃げられる場所もなくて、私は椅子の背もたれにべったりと張り付いたまま新井さんを見上げた。
 新井さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
 ふわりと、香水の香りが私を包む。

「なん……ですか?」
「俺が近寄っても、もう、息止めんでええが?」


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