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12 消臭スプレーのコレクション
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私は答えられないまま、新井さんを見上げていた。その表情は怒っているようではなく、むしろ面白がっているみたいに見えたけど、本当のところはよくわからなかった。
しばらくそうして固まっていたら、新井さんはゆっくりと向かいの席に戻った。そして布ナプキンを膝にのせ、正面から私をまっすぐに見つめた。
「気付いちゃあせんと思いよった?」
「あの……」
「わかっちょったよ」
私はたぶん、ひどい顔をしているのだろう。
近頃では私の標準装備になりつつある、呆然だとか愕然と呼ぶべき顔。今日の面談でも、上司と支店長にしっかりと披露してきたところだ。
新井さんは水を一口飲み、膝のナプキンで口の端を拭った。
「俺ぁよっぽどすごい悪臭を放ちゆうがやろうなと思った。けど他の誰に聞いても臭うないって言うき。妹に聞いた時のあの恥ずかしさは一生忘れんで。『なぁ、俺、もしかしてくさい?』って。返事が返ってくるまでの沈黙がほんまにいたたまれんかった」
新井さんは楽しそうに笑っていたけど、私はちっとも笑えなかった。
「ちがいます、あれは私の問題で。新井さんが臭いなんか、全然」
焦っていた。
ちがう、新井さんじゃない。
「ごめんなさい」
頭を下げたら、新井さんが一度深呼吸をするのが聞こえた。
「つまり、息を止めよったことは認めるんやな。でも、俺が臭かったわけではない?」
こくんと頷いた。
「ほんなら、何で」
「その……ただ……ときどき息を止めるんが……趣味で」
一瞬の沈黙の後、新井さんは噴き出した。
そして、ひとしきり笑う。
「上澤、なんぼ言うたちそれはひどい。嘘が下手すぎる」
この状況で笑ってくれる新井さんに、感謝はしていた。ただ、その優しさが胸に刺さった。
「本当にごめんなさい」
ひとつだけ残っていた前菜を口に押し込んで、水で流し込むようにして飲みこんだ。
ただでさえわからなかった料理の味が、もう全然わからなくなった。
「謝ってほしいわけやないよ。別に俺は怒っちゅうわけやないし」
「あんな別れ方をして、腹が立たんはずはないって、わかってます。ごめんなさい」
「いや、本当に怒ってはない。上澤がもう息を止めてないってことに気づいたんは家まで送ったあの日やけど、最初から別れの理由を信じてなかったき」
「それならどうして……」
「引き留めんかったかって? 俺も限界やったき」
新井さんは肩をすくめた。
「消臭グッズを買い漁ったり、デートの前にシャワー浴びて着替えたり、デート中トイレ行って汗ふきシートで体拭いて。それでも上澤は相変わらず息を止めちょって、それ以上どうしたらいいのかわからんかった。疲れちょった。見せてやりたいくらいよ、おれの消臭スプレーのコレクション」
「そんな苦労を…………本当に、ごめんなさい」
「お、泣くか」
本当はちょっと泣きそうだったけど、涙は何とかひっこめた。ここで泣き出しちゃダメだ。
「泣きません」
「それはよかった。俺も食事相手を泣かせる趣味はない」
店員さんがやって来て前菜のお皿を下げ、スープがサーブされる。
二人の間を流れる妙な空気を気取られるのが嫌で、「わぁいい香り」という月並みな感想を述べてみたけど、大嘘だった。お料理の説明も何ひとつ耳に入ってこなかった。
店員さんが去ると、新井さんはスープを一口飲んでから言う。
「俺と別れた原因は、息を止めよった理由と同じ?」
観念して頷くと、新井さんは念を押すように言った。
「それで、俺が臭かったわけではないがやな?」
「違います。ただ、私が少し問題を抱えちょっただけで」
「それを聞いて楽になったわ。全身を銀イオンでコーティングしようかと思いよったくらいよ」
『飽きちゃった』という一言で「最低な女だった」と思われて、すべてが綺麗に終わると思っていた。こんな風に苦しめたなんて、思ってもみなかった。
「ごめんなさい」
「ほんで? もう息を止めてないってことは、その問題とやらは、解決したってことか」
「ある意味では、解決しました」
「ほんなら、どうしてそんな顔を?」
「……いろんなことが重なって」
「誰かに話すだけで楽になることもあるぞ」
ぐらりぐらりと、心が大きく傾いだ。
話すか、話さないか。
もう話してしまおうか、とも思った。
でも、話したところでどうなるものでもないからと思い直し、首を横に振った。
新井さんは鼻からゆっくりと息を吐いた。
「武士の情けや、その問題とやらの内容はこれ以上追及せんといたろ。やきほら、スープ飲んで」
促されて、スプーンを握った。
舌にざらざらとした感触があったから、スープはどうやらポタージュのようだった。
ただ、何のポタージュかはわからなかった。色からしてカボチャではなさそうだった。
新井さんの手元のお皿がゆっくりとこちらに傾き、どろりとした液体がお皿の上を滑る。それを追うように銀のスプーンが液体にもぐりこんで、新井さんの口元に運ばれていく。その様子をぼんやりと見つめていたら、新井さんはまた笑う。
「そんなに見られたら穴があく」
「あ、ごめんなさい」
「付き合いよったころにそれくらい見つめられたら舞い上がったやろうけど」
私は慌てて目を伏せ、自分の手元に集中した。
スプーンとお皿の当たる音がしないように、ゆっくりとスプーンを動かす。
ざらざら、どろり。
まるで私の気持ちみたいに、スープが体の中に流れ落ちていく。
次に運ばれて来た魚料理を口に運びながら、新井さんが言った。
「別れの理由が『飽きちゃった』じゃなくて『好きじゃなかった』やったとしたら、俺はそのまま信じたと思うよ」
「え?」
「まぁ、『臭かった』の方がより信憑性が高かったのは間違いないけどな。それやと俺の心はたぶんポッキリ折れちょったやろうから、まだマシなチョイスで助かったともいえる」
新井さんは器用に魚の身を崩し、ソースを絡めて口に入れる。
「俺のこと、好きやった?」
「もちろんです」
「俺が好きやって言うてなくても?」
「告白される前から新井さんのことが好きでした」
だって、新井さんからはいい匂いがしたから。
「本当に? 俺の好意に気づいて、ただそれが嬉しかっただけやない?」
いい匂いがしたから。
いい匂いの人は、好きだから。
「俺のことを本気で好きで、別れたくなかった言うんやったら、本当の理由を言うたらよかっただけやろう」
「……話してどうなるものでもないとしたら?」
「試したか?」
「何を、ですか」
「どうにかなるかどうか」
匂いはいつだって私を悩ませてきた。
強くなるとか、匂いがなくなるとか、臭くなるとか。適度な匂いのままとどまることは、なかった。それは私がどうにかできるようなものではなかった。
――本当に?
いつだって私は、強くなったり弱くなったりする匂いを受け入れていただけだった。「ああ、今回も無理だった」という、残念な気持ちとともに。
「上澤が『苦労』って呼んだんは、俺にとっては『努力』やった。好きな人と一緒にいるための、な」
「努力……」
「結果的に俺の努力は何の意味も無かったし、その意味のなさに疲れてもおった。でも、もし俺が消臭スプレーのコレクターになることで上澤が息を止めずにすんだとしたら、俺は喜んでそうしたよ」
少し目尻の下がった柔和な顔立ちは、こんな話の最中でも穏やかだった。
「俺が消臭スプレーをしこたま買い込んだり、ネットで体臭対策のサイトを漁りまくってたのと同じくらい、上澤は俺との関係を続けるための努力をしたか」
何も答えられなかった。
答えは、「何も」だから。
息を止めたり、マスクをしたことはあったけど、結局最後にはいつも諦めた。
「この人は違ったんだ」と残念がるばかりで。
――どうして、私ばっかり。
能力を厭うばかりで、それを乗り越える方法を探したことは、たぶん一度もなかった。
「上澤が抱えてた問題っていうのが何なんか俺には皆目見当もつかないけど、一つだけ言えることがある。上澤は、俺が上澤を好きだったほどは俺のことを好きじゃなかった」
もう何も言えなかった。声が出ない。
出したら、たぶん一緒に涙も出てしまうだろうと思った。
「言うたやろう? 『今更どうこうなんて考えてない』って。俺やって、自分のことを本気で好きになってくれる人と一緒にいたいからな。安心したか」
口の片側だけを持ち上げた笑みは、初めて見る表情だった。
私は頭の中に残っていた冷静さを総動員して、何とか言葉を紡ぐ。
「……おかしいなぁ……告ってもないのに、フラれたような気が」
「七歳も上のおっさんに嘘ついた仕返しや」
穏やかで優しい仕返し。
「ありがとう……ございます」
「仕返ししたのに礼を言われてもな」
「『ざけんなコノヤロー』の方がよかったですか」
「それは先輩に対する態度としてナシやろう」
「そうですよね」
この人なら、本当のことを話したとしても「頭がおかしい」なんて思わずに、一緒にいられる方法を考えてくれたのかもしれない。今となっては、考えるだけ無駄なことだけど。
魚の上に載っていた緑色の葉っぱを身と一緒に口に入れたら、えぐみと渋みが一気に広がった。きっとハーブなのだろうけど、詳しくない私にはわからない。
「すごい顔やな」
「ちょっとこの、草が」
表情の半分以上はハーブのせいではなかったけど、そういうことにしておいた。
水を飲み、口の中をリセットする。
「草とか言うな。それはフェンネルや」
「……すみません」
「それで? 最近元気がないっていうタレコミの原因も、その抱えちょった問題がらみか」
「そう、ですね。関係はあります」
新井さんとのことは匂いがあったせいで起こったことで、最近の悩みは匂いがなくなったせいで起こっていることだから、ほとんど真逆なんだけど。
「解決できそうか」
「……わかりません。いろんなことが絡まりすぎて」
どうして匂いがなくなったのか。
また、戻る日が来るのか。
戻ったとして、どうなるのか。
どうしたいのか。
転勤になるのか。
家族のもとを離れるのか。
「絡まっちゅうんやったら、ほどくしかない」
「ほどく……」
「そう。どんなに絡まっちょっても、頑張ればほどける。ほっといたら余計にひどうなるしな。焦らんでほどくしかない」
まるで簡単なことみたいにそう言って、お皿に残ったソースをパンですいと拭き取り、口に放り込む。その仕草に、幼い頃の記憶が蘇った。
給食用のアルミの食器に入っていたのはたしかミネストローネとかいう名前のトマト味のスープだった。私は食器の底に残ったスープをコッペパンの切れ端で吸い取って食べた。
『まいちゃん、お行儀悪い。それしたアカンねんで』
あの声の主は、何という名だったか。いつも髪の毛をきっちり編み込みにして、可愛い髪飾りをつけていた。鉛筆は流行りのキャラクターの絵付きのもので、筆箱には消しゴムを入れる専用の場所と、鉛筆削りまでついていた。
同じ声に、言われたことがある。
『まいちゃん、髪の毛どしたん? むっちゃジャキジャキなってんで』
たぶん、明るくていい子だった。
あの言葉には何の悪気もなかった。
子ども特有の、正直な一言。
「……そういえば小さい頃に、髪の毛にガムがひっついたときのことを思い出しました」
「髪にガム? 何でそんなことが起きるが」
「ガムを噛みながら寝入ってしもうて、知らん間に吐きだしたガムが髪の毛に」
お腹が空いてどうしようもなくて、家中を探し回ってようやく見つけたミントガム。押入れの中の母のバッグの底に転がっていたそれは、一体いつの物かもわからなかった。口に入れると埃っぽい味がしたし、お腹は張らなかったけど、寝るまでずっと噛んでいた。静かな空間にガムを噛むクチャクチャという音が響いて、孤独が紛れるような気がした。
「で、それ、ほどけたのか」
「洗っても取れなくて、ネチャネチャになりました。幸いひっついたんは毛先やったので、髪を切りました」
「俺は頑張ってほどく話をしよったはずながやけどな」
「でも……切るっていう方法もあるんですね」
たしか夏の暑い日だった。家にあった工作用のはさみで髪を切った。
毛先はバラバラだったし、数日後に家に戻ってきた母からは拾いきれなかった髪が床に落ちていたのを咎められた。
でも、絡まった髪の毛は、切ったおかげでなくなった。絡まりをほどく方法が見つからなければ、ちょん切ればいい。物事は案外、シンプルだ。
「上澤。ヤケになるなよ」
頷く私の表情をしばらく観察した後、新井さんはパンにバターを塗りこんだ。
私が返事をせずにずっとその手元を見つめていたら、何度も、何度も。バターナイフがバターとパンを往復して、ようやく止まった。
ふぅ、と小さく息を吐く。
「いや、まぁ、俺がとやかく言うことじゃないよな。仕事の悩みならいくらでも聞いてやれるけど、そうやなさそうだし」
「ありがとうございます。もう少し、もがいてみます」
新井さんは頷いた。
「そろそろ料理に集中せな、今度オーナーに会って感想聞かれたときに困りそうやな。まさか後輩に仕返しするのに気を取られて料理は味わってませんとは言えんし」
「そうですね。バターの塗りすぎで味がわかりませんでしたとも言えませんしね」
「気付かんフリしちょけよ。人が心配しゆうのに」
「新井さん」
「なんだ」
「ありがとうございます、本当に」
「どういたしまして」
その後は軽い会話とともに口直しのシャーベットを食べ、肉料理を食べ、デザートに舌鼓を打った。
「新井様、お食事が終わりましたら是非ご挨拶をしたいと当店のオーナーが」
コーヒーを運んできたタイミングでそう声を掛けられ、新井さんは背筋を伸ばした。纏う空気がスッと変わる。
あぁ、そうだ。新井さんのそばで仕事をしていたときは、この切り替えにいつも感心させられた。先輩として、人として、尊敬していた。
「オーナー、おいでるんですか」
「はい。ちょうど先ほど。お連れしてよろしいですか」
「もちろんです」
お辞儀をして出て行った店員さんの背を見送ってそわそわする新井さんに、声を掛ける。
「何かVIP待遇ですね」
「うちの銀行の取引先やきかな。俺なんかただの営業やのに、申し訳ないな」
「私、おっていいんですか」
「こんなところで仕事の話はせんやろうし、全然問題ない。オーナーはホテルの方の社長の息子さんで、まだ若いし気さくな人やき。そんなに緊張せんでかまん」
「緊張しますよ」
「まぁ、そうやな。俺もちょっと緊張してる」
だけどまさか。
「新井さんと……麻衣?」
息子さんと言うのが、まさか。
「あれ? 上澤とお知り合いです?」
「ええ。高校の同級生で。新井さんと麻衣は、お仕事で?」
「ええ。上澤は私が前におった支店の後輩で」
「新井さんは小橋通り支店にいらっしゃったがですか」
「そうです。今の支店には、この四月に異動になったばっかりで」
「そうでしたか。世間は狭いですね」
「本当ですね」
彼と新井さんはにこやかで、私は二人の会話をただ聞いていた。
鼻づまりのせいか、耳がぼんやりとして声が遠い。
レストランの個室で、二人でコース料理を食べていた。デートだと思われただろうか。思ったとして、彼はそれに対してどんな感情を抱くのだろうか。
――そうそう、ただの男好き。
再会した日に自ら口にした言葉が脳裏をかすめた。
「……なぁ、上澤?」
「え、はい」
「料理、大満足やったよな」
話を振られ、私はようやく彼を見た。
切れ長の目と、意志の強そうな眉と。
「はい、本当に。本当においしかったです」
パリッとスーツを着てオーナーの顔をした彼が、そこに立っていた。
しばらくそうして固まっていたら、新井さんはゆっくりと向かいの席に戻った。そして布ナプキンを膝にのせ、正面から私をまっすぐに見つめた。
「気付いちゃあせんと思いよった?」
「あの……」
「わかっちょったよ」
私はたぶん、ひどい顔をしているのだろう。
近頃では私の標準装備になりつつある、呆然だとか愕然と呼ぶべき顔。今日の面談でも、上司と支店長にしっかりと披露してきたところだ。
新井さんは水を一口飲み、膝のナプキンで口の端を拭った。
「俺ぁよっぽどすごい悪臭を放ちゆうがやろうなと思った。けど他の誰に聞いても臭うないって言うき。妹に聞いた時のあの恥ずかしさは一生忘れんで。『なぁ、俺、もしかしてくさい?』って。返事が返ってくるまでの沈黙がほんまにいたたまれんかった」
新井さんは楽しそうに笑っていたけど、私はちっとも笑えなかった。
「ちがいます、あれは私の問題で。新井さんが臭いなんか、全然」
焦っていた。
ちがう、新井さんじゃない。
「ごめんなさい」
頭を下げたら、新井さんが一度深呼吸をするのが聞こえた。
「つまり、息を止めよったことは認めるんやな。でも、俺が臭かったわけではない?」
こくんと頷いた。
「ほんなら、何で」
「その……ただ……ときどき息を止めるんが……趣味で」
一瞬の沈黙の後、新井さんは噴き出した。
そして、ひとしきり笑う。
「上澤、なんぼ言うたちそれはひどい。嘘が下手すぎる」
この状況で笑ってくれる新井さんに、感謝はしていた。ただ、その優しさが胸に刺さった。
「本当にごめんなさい」
ひとつだけ残っていた前菜を口に押し込んで、水で流し込むようにして飲みこんだ。
ただでさえわからなかった料理の味が、もう全然わからなくなった。
「謝ってほしいわけやないよ。別に俺は怒っちゅうわけやないし」
「あんな別れ方をして、腹が立たんはずはないって、わかってます。ごめんなさい」
「いや、本当に怒ってはない。上澤がもう息を止めてないってことに気づいたんは家まで送ったあの日やけど、最初から別れの理由を信じてなかったき」
「それならどうして……」
「引き留めんかったかって? 俺も限界やったき」
新井さんは肩をすくめた。
「消臭グッズを買い漁ったり、デートの前にシャワー浴びて着替えたり、デート中トイレ行って汗ふきシートで体拭いて。それでも上澤は相変わらず息を止めちょって、それ以上どうしたらいいのかわからんかった。疲れちょった。見せてやりたいくらいよ、おれの消臭スプレーのコレクション」
「そんな苦労を…………本当に、ごめんなさい」
「お、泣くか」
本当はちょっと泣きそうだったけど、涙は何とかひっこめた。ここで泣き出しちゃダメだ。
「泣きません」
「それはよかった。俺も食事相手を泣かせる趣味はない」
店員さんがやって来て前菜のお皿を下げ、スープがサーブされる。
二人の間を流れる妙な空気を気取られるのが嫌で、「わぁいい香り」という月並みな感想を述べてみたけど、大嘘だった。お料理の説明も何ひとつ耳に入ってこなかった。
店員さんが去ると、新井さんはスープを一口飲んでから言う。
「俺と別れた原因は、息を止めよった理由と同じ?」
観念して頷くと、新井さんは念を押すように言った。
「それで、俺が臭かったわけではないがやな?」
「違います。ただ、私が少し問題を抱えちょっただけで」
「それを聞いて楽になったわ。全身を銀イオンでコーティングしようかと思いよったくらいよ」
『飽きちゃった』という一言で「最低な女だった」と思われて、すべてが綺麗に終わると思っていた。こんな風に苦しめたなんて、思ってもみなかった。
「ごめんなさい」
「ほんで? もう息を止めてないってことは、その問題とやらは、解決したってことか」
「ある意味では、解決しました」
「ほんなら、どうしてそんな顔を?」
「……いろんなことが重なって」
「誰かに話すだけで楽になることもあるぞ」
ぐらりぐらりと、心が大きく傾いだ。
話すか、話さないか。
もう話してしまおうか、とも思った。
でも、話したところでどうなるものでもないからと思い直し、首を横に振った。
新井さんは鼻からゆっくりと息を吐いた。
「武士の情けや、その問題とやらの内容はこれ以上追及せんといたろ。やきほら、スープ飲んで」
促されて、スプーンを握った。
舌にざらざらとした感触があったから、スープはどうやらポタージュのようだった。
ただ、何のポタージュかはわからなかった。色からしてカボチャではなさそうだった。
新井さんの手元のお皿がゆっくりとこちらに傾き、どろりとした液体がお皿の上を滑る。それを追うように銀のスプーンが液体にもぐりこんで、新井さんの口元に運ばれていく。その様子をぼんやりと見つめていたら、新井さんはまた笑う。
「そんなに見られたら穴があく」
「あ、ごめんなさい」
「付き合いよったころにそれくらい見つめられたら舞い上がったやろうけど」
私は慌てて目を伏せ、自分の手元に集中した。
スプーンとお皿の当たる音がしないように、ゆっくりとスプーンを動かす。
ざらざら、どろり。
まるで私の気持ちみたいに、スープが体の中に流れ落ちていく。
次に運ばれて来た魚料理を口に運びながら、新井さんが言った。
「別れの理由が『飽きちゃった』じゃなくて『好きじゃなかった』やったとしたら、俺はそのまま信じたと思うよ」
「え?」
「まぁ、『臭かった』の方がより信憑性が高かったのは間違いないけどな。それやと俺の心はたぶんポッキリ折れちょったやろうから、まだマシなチョイスで助かったともいえる」
新井さんは器用に魚の身を崩し、ソースを絡めて口に入れる。
「俺のこと、好きやった?」
「もちろんです」
「俺が好きやって言うてなくても?」
「告白される前から新井さんのことが好きでした」
だって、新井さんからはいい匂いがしたから。
「本当に? 俺の好意に気づいて、ただそれが嬉しかっただけやない?」
いい匂いがしたから。
いい匂いの人は、好きだから。
「俺のことを本気で好きで、別れたくなかった言うんやったら、本当の理由を言うたらよかっただけやろう」
「……話してどうなるものでもないとしたら?」
「試したか?」
「何を、ですか」
「どうにかなるかどうか」
匂いはいつだって私を悩ませてきた。
強くなるとか、匂いがなくなるとか、臭くなるとか。適度な匂いのままとどまることは、なかった。それは私がどうにかできるようなものではなかった。
――本当に?
いつだって私は、強くなったり弱くなったりする匂いを受け入れていただけだった。「ああ、今回も無理だった」という、残念な気持ちとともに。
「上澤が『苦労』って呼んだんは、俺にとっては『努力』やった。好きな人と一緒にいるための、な」
「努力……」
「結果的に俺の努力は何の意味も無かったし、その意味のなさに疲れてもおった。でも、もし俺が消臭スプレーのコレクターになることで上澤が息を止めずにすんだとしたら、俺は喜んでそうしたよ」
少し目尻の下がった柔和な顔立ちは、こんな話の最中でも穏やかだった。
「俺が消臭スプレーをしこたま買い込んだり、ネットで体臭対策のサイトを漁りまくってたのと同じくらい、上澤は俺との関係を続けるための努力をしたか」
何も答えられなかった。
答えは、「何も」だから。
息を止めたり、マスクをしたことはあったけど、結局最後にはいつも諦めた。
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――どうして、私ばっかり。
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「上澤が抱えてた問題っていうのが何なんか俺には皆目見当もつかないけど、一つだけ言えることがある。上澤は、俺が上澤を好きだったほどは俺のことを好きじゃなかった」
もう何も言えなかった。声が出ない。
出したら、たぶん一緒に涙も出てしまうだろうと思った。
「言うたやろう? 『今更どうこうなんて考えてない』って。俺やって、自分のことを本気で好きになってくれる人と一緒にいたいからな。安心したか」
口の片側だけを持ち上げた笑みは、初めて見る表情だった。
私は頭の中に残っていた冷静さを総動員して、何とか言葉を紡ぐ。
「……おかしいなぁ……告ってもないのに、フラれたような気が」
「七歳も上のおっさんに嘘ついた仕返しや」
穏やかで優しい仕返し。
「ありがとう……ございます」
「仕返ししたのに礼を言われてもな」
「『ざけんなコノヤロー』の方がよかったですか」
「それは先輩に対する態度としてナシやろう」
「そうですよね」
この人なら、本当のことを話したとしても「頭がおかしい」なんて思わずに、一緒にいられる方法を考えてくれたのかもしれない。今となっては、考えるだけ無駄なことだけど。
魚の上に載っていた緑色の葉っぱを身と一緒に口に入れたら、えぐみと渋みが一気に広がった。きっとハーブなのだろうけど、詳しくない私にはわからない。
「すごい顔やな」
「ちょっとこの、草が」
表情の半分以上はハーブのせいではなかったけど、そういうことにしておいた。
水を飲み、口の中をリセットする。
「草とか言うな。それはフェンネルや」
「……すみません」
「それで? 最近元気がないっていうタレコミの原因も、その抱えちょった問題がらみか」
「そう、ですね。関係はあります」
新井さんとのことは匂いがあったせいで起こったことで、最近の悩みは匂いがなくなったせいで起こっていることだから、ほとんど真逆なんだけど。
「解決できそうか」
「……わかりません。いろんなことが絡まりすぎて」
どうして匂いがなくなったのか。
また、戻る日が来るのか。
戻ったとして、どうなるのか。
どうしたいのか。
転勤になるのか。
家族のもとを離れるのか。
「絡まっちゅうんやったら、ほどくしかない」
「ほどく……」
「そう。どんなに絡まっちょっても、頑張ればほどける。ほっといたら余計にひどうなるしな。焦らんでほどくしかない」
まるで簡単なことみたいにそう言って、お皿に残ったソースをパンですいと拭き取り、口に放り込む。その仕草に、幼い頃の記憶が蘇った。
給食用のアルミの食器に入っていたのはたしかミネストローネとかいう名前のトマト味のスープだった。私は食器の底に残ったスープをコッペパンの切れ端で吸い取って食べた。
『まいちゃん、お行儀悪い。それしたアカンねんで』
あの声の主は、何という名だったか。いつも髪の毛をきっちり編み込みにして、可愛い髪飾りをつけていた。鉛筆は流行りのキャラクターの絵付きのもので、筆箱には消しゴムを入れる専用の場所と、鉛筆削りまでついていた。
同じ声に、言われたことがある。
『まいちゃん、髪の毛どしたん? むっちゃジャキジャキなってんで』
たぶん、明るくていい子だった。
あの言葉には何の悪気もなかった。
子ども特有の、正直な一言。
「……そういえば小さい頃に、髪の毛にガムがひっついたときのことを思い出しました」
「髪にガム? 何でそんなことが起きるが」
「ガムを噛みながら寝入ってしもうて、知らん間に吐きだしたガムが髪の毛に」
お腹が空いてどうしようもなくて、家中を探し回ってようやく見つけたミントガム。押入れの中の母のバッグの底に転がっていたそれは、一体いつの物かもわからなかった。口に入れると埃っぽい味がしたし、お腹は張らなかったけど、寝るまでずっと噛んでいた。静かな空間にガムを噛むクチャクチャという音が響いて、孤独が紛れるような気がした。
「で、それ、ほどけたのか」
「洗っても取れなくて、ネチャネチャになりました。幸いひっついたんは毛先やったので、髪を切りました」
「俺は頑張ってほどく話をしよったはずながやけどな」
「でも……切るっていう方法もあるんですね」
たしか夏の暑い日だった。家にあった工作用のはさみで髪を切った。
毛先はバラバラだったし、数日後に家に戻ってきた母からは拾いきれなかった髪が床に落ちていたのを咎められた。
でも、絡まった髪の毛は、切ったおかげでなくなった。絡まりをほどく方法が見つからなければ、ちょん切ればいい。物事は案外、シンプルだ。
「上澤。ヤケになるなよ」
頷く私の表情をしばらく観察した後、新井さんはパンにバターを塗りこんだ。
私が返事をせずにずっとその手元を見つめていたら、何度も、何度も。バターナイフがバターとパンを往復して、ようやく止まった。
ふぅ、と小さく息を吐く。
「いや、まぁ、俺がとやかく言うことじゃないよな。仕事の悩みならいくらでも聞いてやれるけど、そうやなさそうだし」
「ありがとうございます。もう少し、もがいてみます」
新井さんは頷いた。
「そろそろ料理に集中せな、今度オーナーに会って感想聞かれたときに困りそうやな。まさか後輩に仕返しするのに気を取られて料理は味わってませんとは言えんし」
「そうですね。バターの塗りすぎで味がわかりませんでしたとも言えませんしね」
「気付かんフリしちょけよ。人が心配しゆうのに」
「新井さん」
「なんだ」
「ありがとうございます、本当に」
「どういたしまして」
その後は軽い会話とともに口直しのシャーベットを食べ、肉料理を食べ、デザートに舌鼓を打った。
「新井様、お食事が終わりましたら是非ご挨拶をしたいと当店のオーナーが」
コーヒーを運んできたタイミングでそう声を掛けられ、新井さんは背筋を伸ばした。纏う空気がスッと変わる。
あぁ、そうだ。新井さんのそばで仕事をしていたときは、この切り替えにいつも感心させられた。先輩として、人として、尊敬していた。
「オーナー、おいでるんですか」
「はい。ちょうど先ほど。お連れしてよろしいですか」
「もちろんです」
お辞儀をして出て行った店員さんの背を見送ってそわそわする新井さんに、声を掛ける。
「何かVIP待遇ですね」
「うちの銀行の取引先やきかな。俺なんかただの営業やのに、申し訳ないな」
「私、おっていいんですか」
「こんなところで仕事の話はせんやろうし、全然問題ない。オーナーはホテルの方の社長の息子さんで、まだ若いし気さくな人やき。そんなに緊張せんでかまん」
「緊張しますよ」
「まぁ、そうやな。俺もちょっと緊張してる」
だけどまさか。
「新井さんと……麻衣?」
息子さんと言うのが、まさか。
「あれ? 上澤とお知り合いです?」
「ええ。高校の同級生で。新井さんと麻衣は、お仕事で?」
「ええ。上澤は私が前におった支店の後輩で」
「新井さんは小橋通り支店にいらっしゃったがですか」
「そうです。今の支店には、この四月に異動になったばっかりで」
「そうでしたか。世間は狭いですね」
「本当ですね」
彼と新井さんはにこやかで、私は二人の会話をただ聞いていた。
鼻づまりのせいか、耳がぼんやりとして声が遠い。
レストランの個室で、二人でコース料理を食べていた。デートだと思われただろうか。思ったとして、彼はそれに対してどんな感情を抱くのだろうか。
――そうそう、ただの男好き。
再会した日に自ら口にした言葉が脳裏をかすめた。
「……なぁ、上澤?」
「え、はい」
「料理、大満足やったよな」
話を振られ、私はようやく彼を見た。
切れ長の目と、意志の強そうな眉と。
「はい、本当に。本当においしかったです」
パリッとスーツを着てオーナーの顔をした彼が、そこに立っていた。
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