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Episode ― XIII ― 【決意】
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グラズヘイムに三度乗り込むクロ。
正面玄関の扉を蹴り開けてエントランスホールに足を踏み入れた。
中は静まりかえっており、物音一つしない。
踏み込んだ床は、かつて豪華絢爛であっただろう装飾が剥がれ落ち、ひび割れ、黒ずんでいた。あの日の激戦の爪痕が、生々しく残っている。
魔刀『冥月』を左手に、片割れだけとなった黒鉄の銃『オルトロス』を右手に静かに歩みを進めた。
エントランスホールの中央に立つ巨大な階段は、崩れ落ちた装飾が散乱し、往時の威容を偲ばせるのみだった。
クロは、崩れかけた階段をゆっくりと上り始めた。
足を踏み出すたびに、軋む音と砂利の擦れる音が、静寂の中に不気味に響く。
階段を上りきり、広大な廊下に出た。
両脇には、かつては美しい絵画や彫像が飾られていたであろう壁面が続くが、所々に、無数の傷跡が残るばかりだ。
クロは、警戒を怠らず、廊下の奥へと進んだ。
廊下の突き当たりには、重厚な扉が閉ざされていた。かつては精緻な装飾が施されていたであろうその扉も、今は黒ずみ、歪んでいる。
左手の『冥月』を握り締め直し、クロは右手の『オルトロス』で扉をゆっくりと押した。嫌な音を立てながら、扉は僅かに開く。その隙間から覗く先は、薄暗く、淀んだ空気が漂う空間だった。
クロは、躊躇なくその隙間を広げ、中へと足を踏み入れた。
そこは、かつては華やかな宴が開かれていたであろう広間だった。高い天井には、今は埃や煤で黒ずんだシャンデリアが寂しくぶら下がり、床には、引き裂かれた絨毯が無残な姿を晒している。
クロは警戒を高めてゆっくりと広間の中央に歩みを進めた。
クロは足を止め、周囲をゆっくりと見回した。薄暗い広間の隅には、崩れかけた柱や、倒れた調度品の影が不気味な形を作り出している。
その時だった。
聞き覚えのある声が背後から響く。
「やぁ、クロ様。まさか、こうして再びお会いできるとは、実に愉快」
後ろに振り替えると見覚えのある、赤と黒の菱形格子模様の燕尾服。赤い鼻が、薄暗い広間の中で妖しく光っている。
マモンに吸収され、消えたはずの道化師、オーギュストが、そこに立っていた。その顔には、以前のような軽薄な笑みはなく、どこかねっとりとした、底知れない悪意が漂っている。
クロは、右手の『オルトロス』をオーギュストに向け、低い声で問い詰めた。
「お前……確か、マモンに……」
オーギュストは、クロの言葉を遮るように、奇妙な動きで手を広げた。
「ええ。確かに、我が主の御懐に抱かれたのは事実。それは、至福の瞬間でございました」
その言葉とは裏腹に、オーギュストの瞳には、狂気にも似た光が宿っている。
「しかし、貴方は勘違いなされておられる」
「あれは吸収などではなく、還ったという表現が近いですな」
「還った……?」
クロは、オーギュストの言葉の意味を測りかね、眉をひそめた。還る、とは一体どこへ? マモンの一部になった、ということなのか? だとしたら、なぜ今、ここにこうして姿を現している?
オーギュストは、クロの疑問を面白がるように、くつくつと喉を鳴らして笑った。その赤い鼻が、一層不気味に光を増す。
「私は元からマモン様の一部、触覚だったということだけであります」
「ふむ、理解が追い付かないご様子。まあ、無理もありません。凡俗の貴方には、この深遠なる繋がりは想像もできないでしょうから」
オーギュストは、そう言って、ゆっくりとクロに近づき始めた。その動きは、道化師特有の軽やかさではなく、獲物を狙う肉食獣のような、じりじりとした威圧感を伴っていた。
クロは、オーギュストの一挙手一投足を警戒しながら、『オルトロス』の銃口を僅かに動かした。いつでも引き金を引けるように、指には力が込められている。
「お前の目的はなんだ? マモンの一部だと? だとしたら、なぜ俺の前に現れた?」
クロの問いに、オーギュストは足を止め、再びねっとりとした笑みを浮かべた。
「目的、ですか。それは単純なこと。我が主、マモン様の御邪魔をする輩を排除すること。そして……」
「……そして、マモン様の新世界の創造の手伝いでございます」
その言葉と同時に、オーギュストの身体から、先程までとは比べ物にならないほどの、禍々しい魔力が溢れ出し始めた。それは、単なる悪意の塊ではなく、幾重にも折り重なった、複雑で陰湿な感情の奔流だった。
クロは、その圧倒的な魔力に、思わず息を呑んだ。マモンの一部、ただの触覚などという存在ではなかった。目の前の道化師は、明らかに以前よりも遥かに強大な力を得ている。
「新世界……だと……ッ!?」
クロの声は、怒りを堪え、低く唸るようだった。
「えぇ、人界、魔界、天界を今一度、一つにして世界を再構築される……。それが我が主の計画であり目的でございます」
オーギュストは愉快そうに、そして、恍惚にマモンの目的を語る。
「そのためなら、この世界を地獄に変えると……?」
クロの声が怒りで震える。
「ふざけるな!」
クロは、『オルトロス』の引き金に指をかけた。黒炎を纏う銃口が、オーギュストの赤い鼻を捉える。
「ならば、その意気や良し、クロ様。存分に、この私とお戯れくださいませ!」
オーギュストは、狂気に満ちた笑みを浮かべると同時に、その姿を掻き消した。直後、クロの背後から、鋭い爪のようなものが迫る気配がした。
咄嗟にクロは身を翻し、オルトロスを背後に向けて撃った。黒炎の弾丸が、オーギュストの姿があった場所に炸裂する。爆炎が広がり、広間を焦がすが、オーギュストの姿は、煙の中に消えていた。
「あらあら、お上手。ですが、まだまだ甘い」
声は、今度はクロの頭上から降ってきた。見上げると、オーギュストが逆さまになり、奇妙な体勢で宙に浮いている。その両手には、黒く歪んだ形状のナイフが握られていた。
「さあ、クロ様。地獄の遊戯を始めましょう」
オーギュストは、そう囁くと同時に、無数のナイフを雨のようにクロへと投げつけてきた。クロは、迫りくる無数の刃を、オルトロスから放つ黒炎の弾丸で撃ち落といていく。
黒炎が空気を焦がす匂いが、広間に満ちる。オーギュストは、予測不能な動きで宙を舞い、クロの周囲を翻弄しながら、絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
その奇妙な動きに翻弄され、徐々に追い詰められていく。かつての軽薄な道化の面影はなく、今のオーギュストは、狡猾で、そして何よりも恐ろしい敵だった。
コイツ……思ってたよりも、ずっと、速い……!
クロは、激しい攻防の中で、そう感じていた。マモンに還ったことで、オーギュストは、その力を増幅させているのか。それとも、元々、これほどの力を秘めていたのか。
思考がよぎる一瞬の隙を突き、オーギュストのナイフが、クロの片脚を掠めた。浅い傷だが、その刃には、痺れるような奇妙な毒が塗られている。
「ふふふ、いかがですかな、クロ様。少しばかり、痺れてきましたか?」
オーギュストは、楽しげに笑いながら、さらに攻撃の手を緩めない。クロは、痺れる脚を庇いながら、必死に応戦するが、その動きは、明らかに鈍ってきていた。
クソッ……このままじゃ……!
追い詰められたクロの脳裏に、様々な事柄がよぎる。マモンの圧倒的な力、倒れたヴァイスの最期の言葉。そして、今、目の前で嘲笑うオーギュストの姿。
「何のために、俺は戦ってきたんだ……?」
その問いが、クロの心に重くのしかかる。復讐は果たした。ヴァイスとの因縁も、終止符を打った。では、今、この身を削って戦っているのは、一体何のためなのか?
オーギュストは、クロの迷いを敏感に察知したのか、一層、言葉を畳み掛けてくる。
「どうしました、クロ様? その程度で諦めるのですか? 貴方は、もっと面白い玩具だとばかり思っておりましたが……」
「復讐は終わりました。貴方の憎むべき兄も、もうこの世にはいない。ならば、貴方は、一体何のために戦うのですか?」
オーギュストの言葉が、クロの心の奥底に突き刺さる。確かに、それの言う通りだ。復讐は終わった。目的を失いかけたクロの動きは、さらに精彩を欠き始める。
その時だった。
クロの脳裏に、鮮明に蘇る、母の優しい笑顔。そして、最期の瞬間に、クロに魔刀『冥月』を託したヴァイスの、かすれた声。
『……お前が、倒せ』
その言葉が、クロの心に、一筋の光を灯した。
「黙れ、道化師!」
クロは、痺れる脚を無視し、全身に宿る魔力を爆発させた。その瞳には、再び、揺るぎない決意の炎が宿る。
「俺の戦う理由は……お前のような悪魔を、この世から、完全に消し去ることだ!」
その瞬間、クロの右手に握られた、片割れとなった黒鉄の銃『オルトロス』が、眩い光を放ち始めた。それは、内側から溢れ出す、強烈な魔力の奔流だった。
光は、徐々にその輝きを増し、銃身を覆い尽くしていく。そして、限界を超えた光は、ついに、黒鉄の銃身を砕き始めた。
けたたましい金属音と共に、『オルトロス』は、無数の光の粒子となって四散する。
オーギュストは、その異様な光景に、一瞬、動きを止めた。
「な、何だ……!?」
砕け散った光の粒子が、再び集束し始めた。それは、まるで、新たな形を求めて蠢く生命のようだった。
そして、光が完全に収束したとき、クロの右手には、かつての黒鉄の銃とは全く異なる、白銀に輝く銃が握られていた。
「シ……リ……ウス……?」
白銀の銃に刻まれた文字を読み上げると、それは応えるように脈動した。
オーギュストは、その変化を目の当たりにし、先程までの余裕の笑みを消し去り、警戒の色を露わにした。
「何という……!? 一体、何が起こったというのです!?」
その焦りの声に応えるように、クロは、白銀の銃口をオーギュストに向けた。その瞳には、先程までの迷いは微塵も感じられない。宿っているのは、ただ、悪を断つという、強固な決意の炎だけだった。
「貴様のような悪魔は、この世界に存在してはならない」
クロは、静かに、しかし断言するように言い放ち、白銀の銃『シリウス』の引き金を引いた。
轟ッ――……!!
オーギュストは、クロが引き金を引いたにも関わらず、何も発射されない白銀の銃を見て、嘲笑を浮かべようとした。
「ほう? 随分と威勢のいいことを仰いますが……ただの金属片にでもなったと?」
だが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
瞬間、オーギュストの右腕が焼き消えていた。
「ぎィ……、えッ……!?」
これにはクロ自身も驚愕した。
何が起こったのか、理解が追いつかない。引き金を引いたはずだが、黒炎のような弾丸は見えなかった。だが、確かにオーギュストの腕は焼き消えたのだ。
オーギュストは、消え失せた右腕の断面を愕然と見つめ、信じられないといった表情で叫んだ。
「な、何だ……今の……一体、何をしたというのです!?」
クロは、オーギュストの問いには答えず、シリウスの銃口を再び彼に向けた。冷たい眼差しで、苦悶するオーギュストを見据えていた。その瞳には、一切の憐憫の色はない。彼の心にあるのは、悪を断つという、ただ一つの決意だけだった。
クロは、再びシリウスの引き金を引いた。
ただ、微かな、空気の震えのようなものが感じられただけだった。
だが、その瞬間、オーギュストの左脚が、まるで熱い鉄に触れた氷のように、跡形もなく消え去った。
「ぎゃああああああッ!!?」
断末魔の叫びが、広間に響き渡る。オーギュストは、突然の激痛に悶え苦しみ、床に倒れ伏した。その顔は、先程までの嘲笑の色を失い、恐怖と絶望に歪んでいた。
クロ自身も、この白銀の銃シリウスの力が、全く理解できていなかった。目に見えない何か。だが、確かに、オーギュストの身体を確実に燃やし、消し飛ばしていた。
「貴様……一体、何をした……その銃は……!」
床を這いずりながら、オーギュストは、忌々しげにシリウスを睨みつけた。
クロは、沈黙したまま、その銃口をオーギュストに向け続ける。その心には、もはや迷いはなかった。
「……消えろ」
静かに、クロはそう言い放ち、三度、『シリウス』の引き金を引いた。
目に見えない力が奔り、今度はオーギュストの胴体から上を消し飛ばした。オーギュストは、悲鳴を上げる間もなく、絶命した。その身体は、まるで砂の城が崩れるかのように、跡形もなく消え去り、ただ、焦げ臭い匂いだけが、広間に残った。
クロは、『シリウス』を懐に納めると、再び歩き始めた。オーギュストとの戦いで、多少の時間を費やしてしまったが、彼の目的は変わらない。マモンを倒す。
「……待っていろ、マモン」
クロは低く静かにそう呟くと広間を去っていった。
正面玄関の扉を蹴り開けてエントランスホールに足を踏み入れた。
中は静まりかえっており、物音一つしない。
踏み込んだ床は、かつて豪華絢爛であっただろう装飾が剥がれ落ち、ひび割れ、黒ずんでいた。あの日の激戦の爪痕が、生々しく残っている。
魔刀『冥月』を左手に、片割れだけとなった黒鉄の銃『オルトロス』を右手に静かに歩みを進めた。
エントランスホールの中央に立つ巨大な階段は、崩れ落ちた装飾が散乱し、往時の威容を偲ばせるのみだった。
クロは、崩れかけた階段をゆっくりと上り始めた。
足を踏み出すたびに、軋む音と砂利の擦れる音が、静寂の中に不気味に響く。
階段を上りきり、広大な廊下に出た。
両脇には、かつては美しい絵画や彫像が飾られていたであろう壁面が続くが、所々に、無数の傷跡が残るばかりだ。
クロは、警戒を怠らず、廊下の奥へと進んだ。
廊下の突き当たりには、重厚な扉が閉ざされていた。かつては精緻な装飾が施されていたであろうその扉も、今は黒ずみ、歪んでいる。
左手の『冥月』を握り締め直し、クロは右手の『オルトロス』で扉をゆっくりと押した。嫌な音を立てながら、扉は僅かに開く。その隙間から覗く先は、薄暗く、淀んだ空気が漂う空間だった。
クロは、躊躇なくその隙間を広げ、中へと足を踏み入れた。
そこは、かつては華やかな宴が開かれていたであろう広間だった。高い天井には、今は埃や煤で黒ずんだシャンデリアが寂しくぶら下がり、床には、引き裂かれた絨毯が無残な姿を晒している。
クロは警戒を高めてゆっくりと広間の中央に歩みを進めた。
クロは足を止め、周囲をゆっくりと見回した。薄暗い広間の隅には、崩れかけた柱や、倒れた調度品の影が不気味な形を作り出している。
その時だった。
聞き覚えのある声が背後から響く。
「やぁ、クロ様。まさか、こうして再びお会いできるとは、実に愉快」
後ろに振り替えると見覚えのある、赤と黒の菱形格子模様の燕尾服。赤い鼻が、薄暗い広間の中で妖しく光っている。
マモンに吸収され、消えたはずの道化師、オーギュストが、そこに立っていた。その顔には、以前のような軽薄な笑みはなく、どこかねっとりとした、底知れない悪意が漂っている。
クロは、右手の『オルトロス』をオーギュストに向け、低い声で問い詰めた。
「お前……確か、マモンに……」
オーギュストは、クロの言葉を遮るように、奇妙な動きで手を広げた。
「ええ。確かに、我が主の御懐に抱かれたのは事実。それは、至福の瞬間でございました」
その言葉とは裏腹に、オーギュストの瞳には、狂気にも似た光が宿っている。
「しかし、貴方は勘違いなされておられる」
「あれは吸収などではなく、還ったという表現が近いですな」
「還った……?」
クロは、オーギュストの言葉の意味を測りかね、眉をひそめた。還る、とは一体どこへ? マモンの一部になった、ということなのか? だとしたら、なぜ今、ここにこうして姿を現している?
オーギュストは、クロの疑問を面白がるように、くつくつと喉を鳴らして笑った。その赤い鼻が、一層不気味に光を増す。
「私は元からマモン様の一部、触覚だったということだけであります」
「ふむ、理解が追い付かないご様子。まあ、無理もありません。凡俗の貴方には、この深遠なる繋がりは想像もできないでしょうから」
オーギュストは、そう言って、ゆっくりとクロに近づき始めた。その動きは、道化師特有の軽やかさではなく、獲物を狙う肉食獣のような、じりじりとした威圧感を伴っていた。
クロは、オーギュストの一挙手一投足を警戒しながら、『オルトロス』の銃口を僅かに動かした。いつでも引き金を引けるように、指には力が込められている。
「お前の目的はなんだ? マモンの一部だと? だとしたら、なぜ俺の前に現れた?」
クロの問いに、オーギュストは足を止め、再びねっとりとした笑みを浮かべた。
「目的、ですか。それは単純なこと。我が主、マモン様の御邪魔をする輩を排除すること。そして……」
「……そして、マモン様の新世界の創造の手伝いでございます」
その言葉と同時に、オーギュストの身体から、先程までとは比べ物にならないほどの、禍々しい魔力が溢れ出し始めた。それは、単なる悪意の塊ではなく、幾重にも折り重なった、複雑で陰湿な感情の奔流だった。
クロは、その圧倒的な魔力に、思わず息を呑んだ。マモンの一部、ただの触覚などという存在ではなかった。目の前の道化師は、明らかに以前よりも遥かに強大な力を得ている。
「新世界……だと……ッ!?」
クロの声は、怒りを堪え、低く唸るようだった。
「えぇ、人界、魔界、天界を今一度、一つにして世界を再構築される……。それが我が主の計画であり目的でございます」
オーギュストは愉快そうに、そして、恍惚にマモンの目的を語る。
「そのためなら、この世界を地獄に変えると……?」
クロの声が怒りで震える。
「ふざけるな!」
クロは、『オルトロス』の引き金に指をかけた。黒炎を纏う銃口が、オーギュストの赤い鼻を捉える。
「ならば、その意気や良し、クロ様。存分に、この私とお戯れくださいませ!」
オーギュストは、狂気に満ちた笑みを浮かべると同時に、その姿を掻き消した。直後、クロの背後から、鋭い爪のようなものが迫る気配がした。
咄嗟にクロは身を翻し、オルトロスを背後に向けて撃った。黒炎の弾丸が、オーギュストの姿があった場所に炸裂する。爆炎が広がり、広間を焦がすが、オーギュストの姿は、煙の中に消えていた。
「あらあら、お上手。ですが、まだまだ甘い」
声は、今度はクロの頭上から降ってきた。見上げると、オーギュストが逆さまになり、奇妙な体勢で宙に浮いている。その両手には、黒く歪んだ形状のナイフが握られていた。
「さあ、クロ様。地獄の遊戯を始めましょう」
オーギュストは、そう囁くと同時に、無数のナイフを雨のようにクロへと投げつけてきた。クロは、迫りくる無数の刃を、オルトロスから放つ黒炎の弾丸で撃ち落といていく。
黒炎が空気を焦がす匂いが、広間に満ちる。オーギュストは、予測不能な動きで宙を舞い、クロの周囲を翻弄しながら、絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。
その奇妙な動きに翻弄され、徐々に追い詰められていく。かつての軽薄な道化の面影はなく、今のオーギュストは、狡猾で、そして何よりも恐ろしい敵だった。
コイツ……思ってたよりも、ずっと、速い……!
クロは、激しい攻防の中で、そう感じていた。マモンに還ったことで、オーギュストは、その力を増幅させているのか。それとも、元々、これほどの力を秘めていたのか。
思考がよぎる一瞬の隙を突き、オーギュストのナイフが、クロの片脚を掠めた。浅い傷だが、その刃には、痺れるような奇妙な毒が塗られている。
「ふふふ、いかがですかな、クロ様。少しばかり、痺れてきましたか?」
オーギュストは、楽しげに笑いながら、さらに攻撃の手を緩めない。クロは、痺れる脚を庇いながら、必死に応戦するが、その動きは、明らかに鈍ってきていた。
クソッ……このままじゃ……!
追い詰められたクロの脳裏に、様々な事柄がよぎる。マモンの圧倒的な力、倒れたヴァイスの最期の言葉。そして、今、目の前で嘲笑うオーギュストの姿。
「何のために、俺は戦ってきたんだ……?」
その問いが、クロの心に重くのしかかる。復讐は果たした。ヴァイスとの因縁も、終止符を打った。では、今、この身を削って戦っているのは、一体何のためなのか?
オーギュストは、クロの迷いを敏感に察知したのか、一層、言葉を畳み掛けてくる。
「どうしました、クロ様? その程度で諦めるのですか? 貴方は、もっと面白い玩具だとばかり思っておりましたが……」
「復讐は終わりました。貴方の憎むべき兄も、もうこの世にはいない。ならば、貴方は、一体何のために戦うのですか?」
オーギュストの言葉が、クロの心の奥底に突き刺さる。確かに、それの言う通りだ。復讐は終わった。目的を失いかけたクロの動きは、さらに精彩を欠き始める。
その時だった。
クロの脳裏に、鮮明に蘇る、母の優しい笑顔。そして、最期の瞬間に、クロに魔刀『冥月』を託したヴァイスの、かすれた声。
『……お前が、倒せ』
その言葉が、クロの心に、一筋の光を灯した。
「黙れ、道化師!」
クロは、痺れる脚を無視し、全身に宿る魔力を爆発させた。その瞳には、再び、揺るぎない決意の炎が宿る。
「俺の戦う理由は……お前のような悪魔を、この世から、完全に消し去ることだ!」
その瞬間、クロの右手に握られた、片割れとなった黒鉄の銃『オルトロス』が、眩い光を放ち始めた。それは、内側から溢れ出す、強烈な魔力の奔流だった。
光は、徐々にその輝きを増し、銃身を覆い尽くしていく。そして、限界を超えた光は、ついに、黒鉄の銃身を砕き始めた。
けたたましい金属音と共に、『オルトロス』は、無数の光の粒子となって四散する。
オーギュストは、その異様な光景に、一瞬、動きを止めた。
「な、何だ……!?」
砕け散った光の粒子が、再び集束し始めた。それは、まるで、新たな形を求めて蠢く生命のようだった。
そして、光が完全に収束したとき、クロの右手には、かつての黒鉄の銃とは全く異なる、白銀に輝く銃が握られていた。
「シ……リ……ウス……?」
白銀の銃に刻まれた文字を読み上げると、それは応えるように脈動した。
オーギュストは、その変化を目の当たりにし、先程までの余裕の笑みを消し去り、警戒の色を露わにした。
「何という……!? 一体、何が起こったというのです!?」
その焦りの声に応えるように、クロは、白銀の銃口をオーギュストに向けた。その瞳には、先程までの迷いは微塵も感じられない。宿っているのは、ただ、悪を断つという、強固な決意の炎だけだった。
「貴様のような悪魔は、この世界に存在してはならない」
クロは、静かに、しかし断言するように言い放ち、白銀の銃『シリウス』の引き金を引いた。
轟ッ――……!!
オーギュストは、クロが引き金を引いたにも関わらず、何も発射されない白銀の銃を見て、嘲笑を浮かべようとした。
「ほう? 随分と威勢のいいことを仰いますが……ただの金属片にでもなったと?」
だが、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
瞬間、オーギュストの右腕が焼き消えていた。
「ぎィ……、えッ……!?」
これにはクロ自身も驚愕した。
何が起こったのか、理解が追いつかない。引き金を引いたはずだが、黒炎のような弾丸は見えなかった。だが、確かにオーギュストの腕は焼き消えたのだ。
オーギュストは、消え失せた右腕の断面を愕然と見つめ、信じられないといった表情で叫んだ。
「な、何だ……今の……一体、何をしたというのです!?」
クロは、オーギュストの問いには答えず、シリウスの銃口を再び彼に向けた。冷たい眼差しで、苦悶するオーギュストを見据えていた。その瞳には、一切の憐憫の色はない。彼の心にあるのは、悪を断つという、ただ一つの決意だけだった。
クロは、再びシリウスの引き金を引いた。
ただ、微かな、空気の震えのようなものが感じられただけだった。
だが、その瞬間、オーギュストの左脚が、まるで熱い鉄に触れた氷のように、跡形もなく消え去った。
「ぎゃああああああッ!!?」
断末魔の叫びが、広間に響き渡る。オーギュストは、突然の激痛に悶え苦しみ、床に倒れ伏した。その顔は、先程までの嘲笑の色を失い、恐怖と絶望に歪んでいた。
クロ自身も、この白銀の銃シリウスの力が、全く理解できていなかった。目に見えない何か。だが、確かに、オーギュストの身体を確実に燃やし、消し飛ばしていた。
「貴様……一体、何をした……その銃は……!」
床を這いずりながら、オーギュストは、忌々しげにシリウスを睨みつけた。
クロは、沈黙したまま、その銃口をオーギュストに向け続ける。その心には、もはや迷いはなかった。
「……消えろ」
静かに、クロはそう言い放ち、三度、『シリウス』の引き金を引いた。
目に見えない力が奔り、今度はオーギュストの胴体から上を消し飛ばした。オーギュストは、悲鳴を上げる間もなく、絶命した。その身体は、まるで砂の城が崩れるかのように、跡形もなく消え去り、ただ、焦げ臭い匂いだけが、広間に残った。
クロは、『シリウス』を懐に納めると、再び歩き始めた。オーギュストとの戦いで、多少の時間を費やしてしまったが、彼の目的は変わらない。マモンを倒す。
「……待っていろ、マモン」
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