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気まぐれの犠牲者
しおりを挟む前世から僕は、他人の触れた物に素手で触れられない潔癖症だった。
誰かが使った跡を無意識に感じ取り、穢らわしいと感じる、ひどく不便な性質。
マスクはなくとも問題なかったが、手袋は常に着用していないと安心できなかった。
一日に何回も新しいものに付け替え、消毒液は出先でも使えるように鞄に忍ばせて常備していた。
外で飲み食いは出来ず、そんな不便極まりない過ごし方をしていたから当然、死ぬまで独り身だった。恋人ができるとも思ってもいなかった。自分はどこか冷めた人間だったから尚更。恋愛感情ってものさえよく分からないまま死んだ。
素肌で触れ合うことさえ難しかった。
血の繋がった家族は手袋がなくとも大丈夫だったが、営業をしていると仕事先で握手を求められる機会は避けられず、握り込まれた手を振り払いたくなるのは数え切れないほどあった。
独り身を寂しいと思わないわけがない。軽口を叩ける友人はいても、家に帰ればいつも独りぼっちだった。筋金入りの潔癖を治すのに時間も根気も必要になる。もはや他人と触れ合うのは、目標を通り越して夢になっていた。
それが、今世ではどうだろう。夢を飛び越えて無謀になってしまった。
今世の世界では、不思議な力を誰しもが持っているという。生まれて間も無く赤子を神殿に連れて行き、男女の性別とは別にある第二の性別——α、β、Ωを診断してもらう。その際にお告げで何の力を持っているか教えられるという。皆はそれを神から授かりし力として、仕事や生活に役立てていた。
だが、祝福はランダム性が高く有用なものばかりではないようで、何を持って生まれるかは神次第だという。物をほんの少し数ミリだけ浮かせられるだとか、料理に入れる適切な調味料の量が分かるなど、あってもなくても困らない祝福もあるらしかった。
僕に診断された性別は、Ω。前世の記憶からすれば、人体の神秘を超えた性別である。男が孕めると聞いた時は特段驚いたものだ。嫌悪感は特になかった。今世の母親が男性だからかもしれない。
そして、祝福とやらは『可視化』。
字の如く、見えないものが見えるようになるというものだった。前世で厭っていた他人の触れた跡が赤く染まって見えてしまう力。
高級そうなテーブルも、細かな模様の彫られた椅子の背もたれも、埃ひとつない窓ガラスについた手形も、どれだけ擦ってもべっとりと着いた汚れは綺麗にならなかった。テーブルを拭く時に自然と片手をついて身を乗り出していただとか、エスコートで椅子を引いた時に背もたれに手を掛けただとか、窓を開けたり清掃する時に手で触れただとか。ふとした拍子に触れた跡がバッチリ見えたのである。
目には見えない汚れに苦しんでいた前世を憐れんだ神が授けたのか。どう考えても呪いにしか思えなかった。
外の景色を見ようとして窓の方に目を映しても、赤い手形がいくつも付着していて軽くホラーだ。室内から外の景色を見るのは諦めた方がいいらしい。
折角良いところのお坊ちゃんに生まれ変わったというのに思うように楽しめない。目に映る全てのものに何らかしらの跡があるのだ。目に見えない恐怖も相当だったが、これはこれで前世より生き辛いと感じる、地味に息の詰まる生活だった。
「坊ちゃま、本日はご婚約者様とのお茶会がございます。お支度をなさって下さいませ」
侍女と護衛騎士を兼ねている彼女が告げる。
堅苦しくしなくていいのに。そう言っても頑なに頷かない真面目な彼女だからこそ、唯一、僕の呪いを知る人物でもある。
細腕の、か弱そうな彼女だが、祝福は『剛腕』だそうで、にこりともせず真顔でりんごを片手で捻り潰しているのを見た時は、彼女だけは怒らせまいと誓った。
貴族というのは、本来であれば他人の手を借りて身支度をするらしい。だが、触られるのが我慢ならない僕は一人で風呂に入り、一人で着替えを終える。ベッドメイキングも自分でやる。初めは困惑されたが、彼女が理解を示してからは好きにさせてもらえている。有り難い話だ。
そんなハンデを背負っているのに、神は更に僕を不幸に貶めたいらしい。
Ωという新たな性別が、αと番え、触れ合えと邪魔をする。馴染みのない性別は、まるで別世界の自分として、身の内に住み込んでいる。そして耳元で囁くのだ。生き延びるため、吐き気を催しても耐えろと。そうしなければ、死ぬのはお前だと、それは嫌だろうと訴えてくるのだ。
赤ん坊ならまだ汚れを知らない。だから触れ合える。それでいいだろう。
そう言っても、それはお前のαじゃないから意味がないと言う。目の前に居るだろう。よそ見をするな向き合えと、随分とスパルタだ。よほど死んで欲しいらしい。一度死を経験したからか、別に死ぬのは怖くない。だが、自ら苦しみたいかと問われば、答えはノーだ。
思わず溜息が漏れた。
「どうしたんだい? 疲れてしまったかな? ……名残惜しいけど、今日はお開きにしようか」
「……いいえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけですから」
掛けていた眼鏡をとって、眉間を軽く揉んだ。疲れた時に目をほぐすのは前世からの癖だ。
特注して作った眼鏡のレンズは赤色で『可視化』を誤魔化してくれるが、その分視界が悪くなってひどく疲れるのだ。
「私で良ければ相談に乗るよ。何か困っていることはない?」
外した眼鏡に視線をやりながら、目の前の婚約者の彼が言う。庭園にある小さなテーブルを挟んだ向かいの席めにこにこと微笑む麗しの貴人。芸能人並みに見た目がとびきり良い。長めの銀髪を緩く縛り、片方に流している様がとんでもなく似合っている。自信に満ち溢れた、まさに貴公子然とした人物。そして僕の運命のα……らしい。
頭痛の悩みも彼にあるのだが、言えるわけがない。だが、無碍に断るのも体裁的に良くないだろう。彼に愛想をつかれて離れられたら、Ωは狂って死ぬというのだから。αは平気でもΩは耐えられないとか、どんな不平等だ。βとして普通に生まれたかった。
自分に可愛げがあるかはさておき、善意を断り過ぎるのも彼に力がないと思われる。そこそこの頻度で頼るのが最適だ。
「ではあの……砂糖を調達してはいただけませんか」
外した眼鏡を戻して、にこりと微笑みを向ける。
疲れた時は甘い物がいい。前世から他人が作ったものを食べられない分、自分で作るのは必然だった。必要に駆られてやっていたが作るのは案外嫌いじゃなく、中でもお菓子作りは得意な方だった。
「砂糖、かい? デザートなら美味しい店を知っているから、今度持ってくるが」
思わぬ返事だったのだろう。彼から困惑した様子が見える。
貴族の欲しがるものは大抵、希少で価値の高い煌びやかな宝石や有名デザイナーの流行に乗っ取ったドレス、肌の手入れに欠かせない超高級な化粧水やクリームなどの貴族らしい贅沢品だ。
中世ヨーロッパに似た世界なら砂糖もさぞかし高いのだろうと思うが、全くそんなことはない。庶民向けの店に前世でいうところの菓子パンが売っていた。
「いえ、そうではないんです。黒砂糖を使って作りたいものがあるのです」
黒砂糖——すなわち黒糖である。
砂糖の種類は色々あるが、前世ではコクのある黒糖が一番好きだった。パンに練り込んだり、ドーナツの生地に入れたりして、何度も食べていたのを思い出す。かりんとうも好きだったが、特に仕上げにきな粉をまぶして食べるのがお気に入りだった。
「私の手作りしたお菓子を、是非ともウォルド様にも食べていただきたくて……」
もちろん、本心ではない。食べても食べなくてもどっちでもいい。が、言葉尻を窄めて瞼を伏せると、彼の焦る声が聞こえた。
「わ、分かった……! 君のために、必ず手に入れてみせるよ! 待っていてくれ」
思わずといった様子でガタリと音を立てて椅子から立ち上がった彼が、恥ずかしそうにひとつ咳払いをして庭園から去っていった。
「……よろしいのですか? 坊ちゃま」
「その呼び方はやめてくれと言っているだろう。むず痒い気持ちになるんだ」
今世で生まれてからまだ14年しか経っていない。確かに子供にしか見えない見た目だが、前世は社会に出た大人だったのだ。前世の自分と同年代に見える彼女から子供扱いをされると、何とも言えない気持ちになる。
「長年の癖はなかなか抜けないものですね。申し訳ありません、メルシィ様」
その名前も、自分じゃないようでどうにも落ち着かないが、坊ちゃまよりはマシだろうと頷いた。
「まだ若いんだから、あの程度は可愛いものだと思うけどね」
「婚約者を放って置いて何処かへ行くような人は、私は初めて見ましたが」
彼女の辛辣な言葉に、苦情が漏れた。
「メルシィ様が年上ならば、良かったのですのに。そうすればあのようなことも——」
彼女はおそらく、気づいている。一瞬、ドキリと胸が跳ねた。
年相応に振る舞って来なかったからか、随分と大人びて見られていたのは知っているが、言及されたのは今が初めてだった。
「……どうだろうね」
人間、そう簡単には変われないと思うけど。
静かになった庭園で、葉の揺らぐ音だけが響いていた。
その日の夜、ベッドの中に入ると浮かぶのは最後に見た若者らしく喜色を顔に浮かべて飛び出して行った婚約者の姿。最近はめっきり見なくなってしまった珍しい姿にくすりと笑みが溢れた。
出会ってから2年。彼はまだ18歳。自分より4つ上だが、前世の自分からすれば年下。本来なら血気盛んなお年頃だろうに、随分と落ち着いてしまった。いや、大人びたというべきか。
微笑みを携えた彼からは男の色気が滴り、何かに舐め回されたかのように誤魔化しきれないほどその口元は色濃く染まっていた。
初めは気のせいかと思ったが、月に2回逢瀬の機会が設けられ、会う度にその色を濃くしていった。まるで呪いのように悍ましいほど真っ黒な赤。もう肌に馴染んで取れないだろう。彼の顔を見ると一番先に目立つそこに目がいってしまう。
数多の塵芥が触れてきた証。
それがうなじに触れると考えただけで、背筋にぞわぞわと悪寒が走った。
しかし、眼鏡のレンズ越しに見ても顔の良さは変わらない。流石はα。この色男に一体どれだけの人が吸い寄せられたのだろう。それを彼は、いくつ摘んだのか。
彼の姿を見る度に、そんなことを考える。
ひどく忌々しくて、有象無象の虫を蹴散らしたくなる自分が信じられない。前世の自分なら一も二もなく彼と会うことを直ぐにでも止めるのに。馴れ合うだけでストレスになる人とは距離を置いた方がいい。
そう思ってもΩの性だからなのか、長いこと離れられない自分が憎い。
「愛人とか作られたら、耐えられるか不安だな……」
複数の番を持てるαは、誰にでも愛を注げる博愛主義だと僕は考えている。結婚していても、愛人を何人も囲っているなんていう話はよく聞く。彼もそのタイプかもしれない。
運命のΩを知っていながら、他人に手を伸ばした婚約者。首の下も当然真っ赤なのだろう。番うには性行為が必要になる。貴族の責務として後継も産まなければならない。
見たくなければ見なければいい。目を瞑っていればいい。少し我慢するだけで、彼と共にいられる。
そう囁くΩが、逃げたくてもできない自分を嘲笑っている。
未来が明るいとは、到底思えなかった。
だからこそ考えてしまう。
初めて会った時の狼狽える弱気な姿も、会話が弾むと年相応に嬉しそうに笑う少し幼い姿も、いつの間にか見なくなった。
運命と離れて儚くなるΩとは違うαの彼にとって、僕と番う意味はあるのだろうか。彼にとっては運命でさえも、数多のうちの一人なのではないか。
「止められたら、良かったんだろうか」
後悔とも呼べる思いが、胸に重くのしかかる。
自分だけを見ろ、と言えればどれだけよかったか。彼と番い、結婚するのが本当に正しいのか、よく分からないままここまで来てしまった。
恋愛をしてみたいと望んだはずなのに、ひどく遠ざかっている。彼のことは好ましかった。だが、今は寄せる好意が見当たらない。
——前世の記憶も、呪いのような祝福も、望んだわけじゃないのに。
未だ恋愛感情もよくわかっていない。αに執着するΩの性だけが、一方的に熱を上げている。
自分はどうしたいのか。どうすれば最善だったのか。理想には程遠いことだけしかわからない。
そうやって神の気まぐれに頭を悩ませながら、眠りにつく日が続いた。
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