嗤うゴシックロリータ

うさぎ猫

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episode_One

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 それは、ねっとり溶けたコーラ飴の夜だった。
 自己主張のない無気力な空のした。透明度なんて言葉が詐欺師の代名詞に思えるくらい、圧迫感と現実感を伴った闇夜だった。

「ああん、うんッ」

 幼い唇から漏れるのはうたのような吐息。
 パニエで膨らませた黒地のスカートには白いフリルが雪のように纏まる。少年がそれを「綺麗だ」と見惚れていると、少女はスカートをひるがえし突然、少年の下腹部に跨った。ふたりが屋上に到着してすぐの事だった。
 厳密に言えばジーンズの短パンを履いた少年は仰向けに寝ていたが、スカートを広げた少女がその上から腰を降ろしたのだ。少女の丸い大きな瞳は愛を語るエラトのように憂いを湛えていた。肩を覆うほどの黒髪を振り乱してムチのように少年の頬を叩くと、あどけない顔で微笑んだ。
 互いの腰はブロックのように密着していた。
 電気が走ったように、ふたりの躰はビクンと痙攣した。ビクン、ビクン、と痺れはやがてリズムを伴った律動となり少年は朦朧として何も考えられなくなった。
 少女は両手のひらをティーシャツ一枚に覆われた少年の胸の上に置いて「うんッ」と背中を剃り返した。その姿は見えない月へ咆哮する雌豹のようだった。

 少年は抵抗しなかった。
 為されるがまま、短パンのなかで窮屈そうに蠢く『何か』を感じていた。こんな体験は初めてだった。
 縞模様のニーソックスに隠れた少女の柔らかな太股に挟まれていると暖かかった。安心した。このまま「少女の『なか』へ入れ」と頭のなかで誰かが囁いたが意味は分からなかった。微睡まどろむ意識のなかで少年は全く別のことに関心を寄せていた。
 自分たちが今いる、『駅』のことだ。
 ぎゅうぎゅう詰めの駅からこぼれ落ちたヒトは、わらわらと歩道へあふれ出るとセメント色の森林を這い回った。まるで腹をすかしたクマネズミだった。
 駅は利用者の選別なんて考えもしなのだろう。
 そこにヒトではないものが──仮に居たとしても──駅は公共の目的という欺瞞に酔いしれて世界のことに想いを馳せようとすらしない。
 そんなエゴイズムな存在に思えた。

「だって当たり前のことよ」

 キラキラ輝く汗を拭うこともせず涼風のように呟いた。
 遥か中世の刻から迷い込んだフリルの妖精。悪い魔法使いから逃げ出したビスクドール。そのどれもが間違いで、そのどれもが正解だ。
「キミがわからないよ!」
 静まり返る駅舎の屋上で、少年は渾身の力を振り絞って叫んだ。
「世界のことわりなんて知りもしないくせに」
 嘲笑する少女の背中にコウモリを連想させる羽が浮かんだ。少年は幻覚だと頭を振る。耳元に顔を近づけた少女が「わたしの本当の名前を教えてあげる」と小さく嘯いた。
 聞いた名前に心当たりはなかったが、似合っていると思った。何よりも沢山いる兄妹のひとりに、自分も加えてもらえることを少年は光栄に感じた。

「蛍太、いいのよ。フィラメントに火をつけて」
 
 短パンのなかで蠢いていたものは更に大きくなり、固くなり、熱くなった。
 何処までも続く闇のなか、一介の小学生でしかなかった樫原蛍太はそれでもこの世界を信じようとした。それでも彼女の生きている世界を否定しようと必死に手を伸ばすと、指が艶やかな唇に触れた。少女は赤い舌でチロチロ舐めてから優しく諭した。
「無邪気ね」

  Ⅰ

 マンションの守衛は驚愕した。まるでドラム缶付きAA12ショットガンとAT4バズーカを目前でぶっ放された鳩のように、目はまんまる、口は半開きで思考すら停止するのではないかと畏れた。
「ゴスロリっていうのかな」
 娘が読んでいたファッション雑誌に答えを見いだしたのは、お気に入りのコーヒーカップにお湯を注ぐ程度の時間が過ぎてからだった。
 歳は小学校の高学年くらいだろうか。
 白く華奢な躰を包むドレスの裾や襟にはたくさんのフリル。艶やかな黒髪におさげの三つ編み。折れてしまいそうなか細い脚には椿色のニーソックスと栗色のぶ厚い編み上げブーツ。金色のボタン。それ以外は全て黒。真っ黒。
 西洋のレトロな時代からタイムスリップでもしてきたのか、あるいはアンティークショップから逃げ出してきた人形か。マンションの守衛という退屈な日常で「非日常」を目撃するなんて考えもしなかった。
 次の言葉が出て来ず、行動も思いつかず、ただ見守るほかなかった中年の淀んだ瞳は一転、少女が担ぐ荷物に向けられた。
「あ、ゴルフバックか」
 ゴスロリ少女は自分の背丈と同じ大人用のゴルフバックを背負っているように見せて、本当は重みに堪えかねて引きずっていた。よたよたとエレベーターホールへ歩いていく姿は、まるで水族館のペンギンだった。

 最高の住環境を提供する。それを目的に駅前徒歩五分の位置に建築された、地上八階立て地下駐車場完備。全室防音と防震を備え、アスレチッククラブや屋内プールのある共用フロアまで併設されているオシャレなセレブ御用達マンション。
 しかし、あまりに高額な価格に入居者は増えず。ごく一部の売れっ子タレントやミュージシャンが隣近所を気にしなくても良いという、不動産屋さんの思惑とは違う理由で入居していた。
 価格にはもちろん警備料金が含まれる。つまり、入居者が減れば自分たちは用済みになるのだ。「働かざる者食うべからず」の精神は資本主義の大原則であり、この国が悠久のときから引き継いだことわりだ。真面目に仕事をしなければならない。
 けれど、無用なトラブルは避けたい。
 ならば、警備室の前を横切ったゴスロリ少女をどうするか。
 気軽な仕事だと助けを求めるように転職してから初めて、そんな難題に直面してしまった中年男は、かつての持病が再発したかのように胃に痛みを感じて座り込んだ。
 
 ──セキュリティを解除して入ってきたのだから、このマンションに住む子だろう。
 
 痛みのなか、ふっとそんな言い訳を考えた。
 
 ──何階の住人なのか、それは知らない。どうせ守衛の安月給では、猫の額ほども借りることなど出来ない高級マンションの住人だ。守衛と住人という関係以上の縁など当然に無いのだから、どんな人間が住んでいるのかなんて知らん。しかも、こっちは管理組合から委託されているだけの警備会社の従業員なのだ。まぁ、アレだろ。おおかた父親のゴルフバックをこっそりと持ち出して遊んでいたのだろう。
 それをわざわざ、こちらが声をかけて荒立てる必要はない。そんなことをすれば子供はともかく、親が出てきて大騒ぎだ。怒って、喚いて、しかも世間知らずの芸能人ばかりが住んでいるマンション。どんな無茶な謝罪を要求されるか分かったもんじゃない。
 少なくとも、日和見なウチの会社が自分を放り出すのは明かだ。
 そんな事態になるのは御免だ。
 
 壁に掛けてある時計へ視線は飛び、そしてひとり、世間の理を納得して深呼吸をした。
 
 ──そうだ、こんなときは、ゆっくりコーヒーを飲みながら交代時間を待っていればいい。ひとりで悩んで苦しんで、もうあんな仕事はしないと決めたんだ。
 だが、ちょっと待てよ。
 あんな目立つ格好の子供が外出するところを見ていないな。
 と、いうよりあの顔はやっぱり知らない。
 
「キミ、ちょっと……」

 煮え切らない気持ちをようやく振り切り、意を決して声をかけようと守衛室を飛び出した。
 しかし、そこに女の子の姿はなかった。エレベータの階を表示する数字がどんどん上がっていくのを確認しながら、再び深呼吸をした。
「ま、いいか」
 少し気になりながらも机に戻る。
 あと一時間もすれば交代だ。
 離婚した奥さんとの約束。娘の誕生日。机の足下に置いてあるプレゼント。
 待ちわびた、今日という大切な日。
 
      †††    †††    †††
 
 エレベータが最上階で止まると、小沢若葉わかばは軽くため息をついた。
 床に転がしたゴルフバックを見つめたまま、蝋人形のような表情が崩れた。デパートのオモチャ売場で騒ぐ我が子を鬱陶しく睨む母親のようでもあるし、寝たきりの祖父をこれから病院へと連れていかねばならない決意に満ちた娘の顔にも見えた。
「ほんま、いややわあ。なんでウチがこんなこと」
 西乃都から越してきた家族と生活するうちに、若葉は方言が染みついてしまった。もともと施設では標準語でしゃべっていたのに環境適応能力は流石だ。口から出る溜息混じりの愚痴も義母にそっくりだった。
「ミケ先生が運んでくれる約束やったのに。ほんに、もう、あの人頼りにならへん」
 三つ編みのゴスロリは、のんびりした口調で諦めたようにゴルフバックを担ぎ直した。最後の階段を一段ずつ引きずるうちに、堅くひき結んだ唇からも呼吸が乱れはじめた。やがて一枚の鉄扉が若葉の行く手を遮った。屋上へ出るためのドアだ。
 ドアノブには鍵がかかっていた。ポケットを探りながら、ちょっと首を傾げた。ゴルフバックに小さな袋が付いているのを見つけからだ。
「ミケ先生ったら、事前に教えて欲しいわ」
 袋から鍵を取り出すと、少しサビついたドアは奇声をあげながら開いた。羽毛を散らす鳥のように、若葉の柔肌を包むフリルを風は激しく揺らした。
 冷たいビル風が頬に触れ、キメの細かい弾力に富んだ肌は、ほんのりピンクに染まった。一歩踏み出すと三つ編みがさらに踊った。
「真っ暗やないの。風も強いし」
 口を尖らせふくれっ面。
 三日月のした。断崖絶壁のビルの四隅は防護フェンスに囲まれていた。灰色の広間からは遠くに駅舎も見通せた。
 林立するオフィスビルのただ中、それは埋没寸前の築100年を超える文化遺産だ。フェンスまでゴルフバックを引きずってから静かに寝かせた。冷たいコンクリの床。ひざをつき、ジッパーを開く。
 バックから顔を覗かせたのは軍用のいかついライフル銃だった。
 M16A4。
 ハンガリー動乱の翌年に開発が始まった初期型から数えて四代目。長く国家の緩衝となる者たちに愛され、戦場を風となって駆け抜けた戦士たちが命を賭した自動小銃。
 小口径の5.56ミリNATO弾を採用し、命中精度と低反動を手に入れたこのアサルトライフルは、さらにアルミ合金とプラスチックを多用することで重量の軽減をも実現した天下の逸品。
「さてと、お仕事」
 世界中でヒトの血を吸い続けた八百万丁のうちのひとつ。
 ブラックライフルと揶揄されるそれを、まるでテディベアかキューピー人形でも抱き上げるようにバックから取り出した。夜の闇を見通す暗視スコープを華奢な腕で取り付けると、フェンスの隙間から眼下の公園へ向けて銃口を覗かせた。
 バックからはさらに、厚紙で出来た小箱を取り出した。手に取って開くと、なかには真鍮の輝きを放つ銃弾。まるで、激安ショップで投げ売りされている箱入り単三乾電池のようにビッシリと詰め込まれていた。
 弾頭はホローポイントだ。
 人体に命中すると、くぼんだ先端がキノコ状に変形して、貫通せずに体内で暴れる。その残虐性ゆえに国家間の戦争では使用を禁止された、悪魔の発明品。
 先端のくぼみには、ちょっとした仕掛けが施してあった。ターゲットへのプレゼントは強力なウイルス。体内へ浸透すれば確実に消滅させることが出来る。
 月明かりのなか、箸より重いものを持つと折れるのではないかと心配になるほど細い指で、銃弾を一発ずつマガジンへ装填していく。
 黒く長いマツゲが重いのか、それとも眠いのか、大きな瞳は半分以上がまぶたに隠れ虚ろな視線。魂の抜けた機械的な作業。一発ずつ、カチャッ、カチャッ、と真鍮で出来たカートリッジが小さな金属音をたてる。それは互いの身をすりつけながらマガジンに埋め込まれる吐息。
「また、パパやママを心配させちゃう」
 小沢家に引き取られてから半年。時計はそれだけしか進んでいない。けれど時間など関係なく、親子の関係を築けていると、その自負はあった。褒めてもらったことも、叱られたことも、悲しませたことも。魂のふれあいは毎日のことだ。
 帰るところがある。そこに居て当然の場所がある。自分を迎えてくれるヒトがいる。
 カアァーッ!
 カラスのけたたましい鳴き声が響いた。
 屋上に設置された高架水槽の軒下に巣が見えた。鳴き声は親鳥のほうだ。我が仔のもとへ戻ってきたのだ。
 仔ガラスたちは賢明に自らの存在をアピールしていた。親ガラスから餌をもらおうと必死に口を広げた。
 親がいる安心感は餌だけに限らない。野良猫だって、大蛇だって怖くない。だからいままで押し殺していた喉を解放するように大きな、とても大きな声で鳴き続ける。
 そんな光景をしばし黙って見つめていたわかば。銃弾を落としそうになって、慌てて持ち直した。
 
 ──ママに抱きついたら喜んでくれるやろか。そういえば、ママとは手をつなぐくらいしか、ない。親子。本当の親子。本当に?
 自分がいつからこの世界にいるのか、全く覚えていない。誰から生まれ、どうしてこうなったのかなんて知るはずもない。興味すらない。物心ついたときには、皆と一緒に施設にいたんやもん。いつ死んでもよかったし、実際、何度か死のうとした。先生たちはその度にわたしを叱った。でも、わたしのことを思って叱ったんじゃないことくらいわかる。
 わたしが死んで消えてしまうと、先生たちが困るから。だから死ぬことを諦めさせようとして、叱った。
 約束の日まで、わたしを『生け簀』で飼っておかなきゃならないから。
 11歳になるとき、ついに国家の偉いヒトやって来て、こう告げた。
「キミの引き取り先が決まった。小沢家だよ。キミはそこで小沢の娘として暮らしながら……」
 そうだ。暮らしながら、ペンギンとしての任務を果たす。土御門晴顯に忠誠を誓い、世界を救うために。
 
 ガシャッ!
 マガジンを装填する音。
 決意を確認する音。
「風が強いわあ。摩耶ちゃんが仕留めてくれればええのやけど」
 ホフク前進でもするように寝そべる。足を開き、フリルを散らしながら冷たいコンクリの床に伏せると、どっしりと存在感を鼓舞する黒いライフルを構えた。
 やわらかな頬は冷たい金属の銃身に。
 つぶらな瞳は暗視スコープに。
 そこで気づいた、異端の存在。
「あら、いややわ、あの子。昆虫の交尾みたいやわ」
 若葉の視線の先には蛍太がいた。駅舎の屋上で必死になって少女と理を共有していた。
「一緒に撃っちゃおうか」
 幼いスナイパーはぺろりと舌なめずりした。
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