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5 偽りの朝食
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お粥の湯気が、白く視界を遮る。
ベッドの脇に置かれたそれは、卵がふんわりと閉じられ、出汁の優しい香りがした。今の僕の胃には、これ以上ないほど適切なはずの食事。
けれど、それを運んできた朔さんの指先を見た瞬間、僕は指先が凍りつくような感覚に陥った。
「……澪? どうしたんだい、食欲がないのかな」
朔さんは、僕の髪を愛おしそうに撫でる。
つい数十分前、この手で僕の自由を奪い、あのスクラップブックを整理していたのかもしれないと思うと、その体温がひどく異質なものに感じられた。
「いえ、……少し、ぼんやりしてしまって。いただきます、朔さん」
僕は震える手でスプーンを取り、一口運ぶ。
温かい。けれど、味がしない。
僕は今、世界で一番信頼していた人の隣で、世界で一番恐ろしい秘密を抱えてしまっている。
「美味しい、です」
「そうか、よかった。……さっき、部屋を少し片付けたかな?」
その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。心臓が跳ね、耳の奥でドクドクと不快な音が鳴り響く。
僕は、必死に平静を装って顔を上げた。
「……片付け、ですか? いえ、ずっと寝ていましたけど」
「ああ、そう。……カバンの位置が、少しだけ動いていたような気がしたから。僕の勘違いだね」
朔さんは微笑んだ。その微笑みは、昨日の朝と何も変わらない、穏やかで美しいもの。
けれど、その瞳の奥には、僕の小さな嘘を透かして楽しんでいるような、底知れない暗闇が潜んでいるように見えた。
逃げなければ。
このままここにいたら、僕は名前も、過去も、社会的な地位も、すべてこのシトラスの香りに塗りつぶされて消えてしまう。
僕はあの日、雪山で彼に助けられたのだと思っていた。でも、もしかしたら、あの日から僕は彼の計画の一部に組み込まれていただけだったのだろうか。
「……朔さん。雪、いつになったら止むんでしょう。僕、やっぱり図書館が心配で……」
「さあ、いつだろうね。気象台の予報では、あと数日はこのままだそうだよ」
朔さんは立ち上がり、窓の外の白い闇を見つめた。
「でも、いいじゃないか。外はあんなに冷酷で、不条理に満ちている。……ここにいれば、何も怖くない。誰にも君を傷つけさせないし、君が何かに怯える必要もない」
彼は振り返り、僕の隣に深く腰掛けた。
逃げ場を塞ぐように、彼の手が僕の腰に回る。
「澪。翻訳の仕事、新しい依頼が来ていたよ。僕のパソコンに届いていた」
「え……? どうして、僕のアドレスに届くものが、朔さんに…」
「ああ、君のクライアントには、僕が代理で連絡しておいたから。体調を崩しているから、窓口は僕にするように、って」
親切。献身。慈愛。
それらの皮を纏った「支配」が、じわじわと僕を真綿で締め付けていく。
彼は僕の職務さえも、自分の管理下に置いたのだ。
「……ありがとうございます。でも、次は自分で返信します」
「無理をしなくていいと言っているだろう?」
その声から、一瞬だけ温度が消えた。
朔さんは僕の首筋、さっきつけたばかりの噛み跡を、今度は慈しむように舌でなぞった。
「君はただ、俺のそばで笑っていればいいんだ。……あーくん、って、また呼んでくれるだけでいい」
僕は呼吸が浅くなるのを感じた。
彼の愛情は、本物だ。歪んで、ひび割れて、毒に満ちているけれど、その熱だけは本物なのだ。だからこそ、逃げ道が見つからない。
「……はい、あーくん」
僕は、自分の声が自分のものではないように聞こえた。
今の僕にできるのは、彼が望む「澪」を演じることだけ。
彼を油断させ、その隙にスマホと鍵を奪い、この「白い檻」から抜け出すチャンスを伺うしかない。
「いい子だ、澪」
朔さんは満足げに僕の額にキスをした。
その唇が離れた瞬間、僕は確信した。
朔さんは、僕がスクラップブックを見たことに気づいている。気づいた上で、僕がどう動くかを観察して楽しんでいるのだ。
冬は、まだ始まったばかり。
シトラスの香りに満ちた静かな戦いは、これからさらに深く、泥沼のような共依存へと沈んでいく。
ベッドの脇に置かれたそれは、卵がふんわりと閉じられ、出汁の優しい香りがした。今の僕の胃には、これ以上ないほど適切なはずの食事。
けれど、それを運んできた朔さんの指先を見た瞬間、僕は指先が凍りつくような感覚に陥った。
「……澪? どうしたんだい、食欲がないのかな」
朔さんは、僕の髪を愛おしそうに撫でる。
つい数十分前、この手で僕の自由を奪い、あのスクラップブックを整理していたのかもしれないと思うと、その体温がひどく異質なものに感じられた。
「いえ、……少し、ぼんやりしてしまって。いただきます、朔さん」
僕は震える手でスプーンを取り、一口運ぶ。
温かい。けれど、味がしない。
僕は今、世界で一番信頼していた人の隣で、世界で一番恐ろしい秘密を抱えてしまっている。
「美味しい、です」
「そうか、よかった。……さっき、部屋を少し片付けたかな?」
その言葉に、スプーンを持つ手がぴたりと止まった。心臓が跳ね、耳の奥でドクドクと不快な音が鳴り響く。
僕は、必死に平静を装って顔を上げた。
「……片付け、ですか? いえ、ずっと寝ていましたけど」
「ああ、そう。……カバンの位置が、少しだけ動いていたような気がしたから。僕の勘違いだね」
朔さんは微笑んだ。その微笑みは、昨日の朝と何も変わらない、穏やかで美しいもの。
けれど、その瞳の奥には、僕の小さな嘘を透かして楽しんでいるような、底知れない暗闇が潜んでいるように見えた。
逃げなければ。
このままここにいたら、僕は名前も、過去も、社会的な地位も、すべてこのシトラスの香りに塗りつぶされて消えてしまう。
僕はあの日、雪山で彼に助けられたのだと思っていた。でも、もしかしたら、あの日から僕は彼の計画の一部に組み込まれていただけだったのだろうか。
「……朔さん。雪、いつになったら止むんでしょう。僕、やっぱり図書館が心配で……」
「さあ、いつだろうね。気象台の予報では、あと数日はこのままだそうだよ」
朔さんは立ち上がり、窓の外の白い闇を見つめた。
「でも、いいじゃないか。外はあんなに冷酷で、不条理に満ちている。……ここにいれば、何も怖くない。誰にも君を傷つけさせないし、君が何かに怯える必要もない」
彼は振り返り、僕の隣に深く腰掛けた。
逃げ場を塞ぐように、彼の手が僕の腰に回る。
「澪。翻訳の仕事、新しい依頼が来ていたよ。僕のパソコンに届いていた」
「え……? どうして、僕のアドレスに届くものが、朔さんに…」
「ああ、君のクライアントには、僕が代理で連絡しておいたから。体調を崩しているから、窓口は僕にするように、って」
親切。献身。慈愛。
それらの皮を纏った「支配」が、じわじわと僕を真綿で締め付けていく。
彼は僕の職務さえも、自分の管理下に置いたのだ。
「……ありがとうございます。でも、次は自分で返信します」
「無理をしなくていいと言っているだろう?」
その声から、一瞬だけ温度が消えた。
朔さんは僕の首筋、さっきつけたばかりの噛み跡を、今度は慈しむように舌でなぞった。
「君はただ、俺のそばで笑っていればいいんだ。……あーくん、って、また呼んでくれるだけでいい」
僕は呼吸が浅くなるのを感じた。
彼の愛情は、本物だ。歪んで、ひび割れて、毒に満ちているけれど、その熱だけは本物なのだ。だからこそ、逃げ道が見つからない。
「……はい、あーくん」
僕は、自分の声が自分のものではないように聞こえた。
今の僕にできるのは、彼が望む「澪」を演じることだけ。
彼を油断させ、その隙にスマホと鍵を奪い、この「白い檻」から抜け出すチャンスを伺うしかない。
「いい子だ、澪」
朔さんは満足げに僕の額にキスをした。
その唇が離れた瞬間、僕は確信した。
朔さんは、僕がスクラップブックを見たことに気づいている。気づいた上で、僕がどう動くかを観察して楽しんでいるのだ。
冬は、まだ始まったばかり。
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