藍色の冬、シトラスの檻

そらいろ

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9 忘却の甘露

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​ 業者の足音が完全に消え、マンションの廊下に再び底冷えするような静寂が戻った後。
 僕は、寝室のベッドの上で、投げ出された人形のように呆然としていた。さっき、助けを呼ぶことができなかったという事実が、重い鉛となって胸の奥に沈んでいる。外の世界との唯一の糸を、自らの手で掴み損ねた絶望。
​ 朔さんは一度キッチンに戻り、小さなクリスタルグラスを手に持って部屋に戻ってきた。
 グラスの中には、とろりとした琥珀色の液体が揺れている。部屋に満ちるシトラスの香りに、微かなアルコールと、嗅いだことのない官能的で甘ったるい香りが混ざり込んだ。
​「澪。……驚かせてごめんね。でも、あんなふうに叫んだら、せっかくの綺麗な声が枯れてしまう」
​ 朔さんはベッドの縁に腰を下ろし、僕の腰を引き寄せた。
 彼の瞳は、先ほどの業者に向けていた冷徹さが嘘のように、潤んだ慈愛に満ちている。それが逆に、僕の背筋に冷や汗を流させた。彼は僕を壊したいのではない。僕という存在を、自分だけの型にはめ直したいのだ。
​「これを飲んで。……心を落ち着かせるための、特別なお酒だ。これを飲めば、もう不安も、外の世界への未練も、全部消えてなくなるよ。……君がずっと欲しがっていた、本当の安らぎが手に入る」
​ 差し出されたグラス。
 その色が、僕には「名前のない終焉」の色に見えた。
 これを飲んでしまったら、僕は本当に、翻訳家としての自分も、図書館で過ごした穏やかな日々も、すべてを失って「彼のもの」として完成してしまう。
​「……嫌、です。飲みたくない。……これ以上、僕を奪わないで」
​ 僕が顔を背け、シーツを握りしめて拒絶すると、朔さんの深い溜息が耳元を掠めた。
 彼はグラスをサイドボードに置くと、僕の顎をつかみ、無理やり自分のほうを向かせた。その力は、逆らうことを諦めさせるのに十分な強さだった。
​「どうして拒むんだい? 俺は君を傷つけたくないと言っているのに。……それとも、まだあの冷たい世界に戻りたいのか? 君を『死んだ』と信じ込んで、もう誰も探してはいない、あの残酷な場所へ。……君には俺しかいないんだ、澪。分かっているだろう?」
​ 彼の言葉は、翻訳家である僕の心を、一番鋭いナイフで正確に切り裂く。
 そうだ。僕はもう、公式にはこの世に存在しない。
 戻る場所なんて、最初からなかった。彼が、そう作り上げたのだから。
​「……あーくん。……本当に、僕を愛してる?」
​ 僕は、震える声で尋ねた。この地獄を「愛」だと信じなければ、今の僕は精神を保てない。
 朔さんの瞳が、一瞬だけ子供のように激しく揺れた。彼は僕を押しつぶしてしまいそうなほど強く抱きしめ、熱い顔を僕の首筋に埋めた。
​「愛しているよ。世界中の誰よりも。……君のためなら、俺はなんだってする。世界を騙すことも、君を永遠に閉じ込めることも。……たとえ君が俺を憎んだとしても、俺だけは君を離さない。死が分かつまで…いや、死んでも離さない」
​ その告白は、あまりにも純粋で吐き気がするほど美しかった。
 朔さんは再びグラスを手に取ると、今度は自分の口にその液体をたっぷりと含んだ。
 そして、驚愕に目を見開く僕の後頭部を強引に引き寄せ、唇を塞いだ。
​「……っ、ん、んぅ……!」
​ 逃げようとしても、舌で押し込まれる甘い液体が、否応なしに喉を滑り落ちていく。
 粘膜越しに伝わる朔さんの熱。そして、喉を焼くような強烈な熱さと同時に抗いようのない深い眠気が、一気に脳を直撃した。
 視界がぐにゃりと歪み、朔さんの整った顔が、万華鏡のように二重、三重に重なって見える。
​「……これで、いいんだ。……さあ、夢を見よう、澪。俺たち二人だけの、永遠の冬の夢を。……もう、何も考えなくていい」
​ 身体からすべての力が抜け、雲の上に浮かんでいるような感覚でシーツの中に沈んでいく。
 意識が遠のく中で、朔さんの冷たい指が僕の服を脱がせ、熱い肌が僕を包み込んでいくのを感じた。
 けれど、もう恐怖はなかった。
 薬のせいで溶けていく理性。ただ、彼の体温だけが、闇の中で灯る唯一の光のように感じられて、僕は自らその光の中に手を伸ばした。
​ 窓の外。
 降り積もる雪は、ついにマンションの二階付近まで達しようとしていた。
 物理的な重みが建物を軋ませ、すべてが白く、平らに、音もなく塗りつぶされていく。
​ 僕の意識が完全に闇に落ちる直前。
 「愛してる、あーくん」
 そう囁いたのは、僕の意志だったのか、それとも彼に植え付けられた幻聴だったのか。
 それを確かめる術を、僕はもう失っていた。
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