モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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3章「いいよ、言わなくて」

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 ピコン、ピコン。
 規則正しく鳴り続ける音に引き寄せられて目が覚めた。深い海の底から浮き上がった意識は、しばらく水面をゆらゆらと揺蕩ってから、ようやく光を浴びる。

「……小鳥遊さん?」

 なによりも先に視界に映りこんだのは、銀。
 ゆっくりと睫毛を伏せて、ふたたび開けてみる。そうして幻覚でないことを確認した私は、ひどく不思議な気持ちで、まだ痺れの後味を引きずる唇を動かす。

「……せん、ぱい?」

「うん。目、覚めたんだ。よかった」

「ここは……」

「病院だよ。君、学校で倒れて救急車で運ばれたの。そこまで時間は経ってないけど」

 病院。倒れた。救急車。
 ひとつひとつの単語をたっぷりと咀嚼し、やがて私は顔を青褪めさせた。なによりもここに、病院にユイ先輩がいるという事実が、私を動揺させる。

「あ、の……先輩……」

「さっきご両親が来られてね。今、先生と話してるよ。弟くんは……その、結構取り乱してて。でも、たぶん廊下にいるから、呼んでこようか」

「っ、待って、ください」

 どうしてなにも聞かないのか。もう知ってしまったのか。尋ねたいことはたくさんあるのに、上手く声が出てこない。言葉もなにもかも、不安に押し流されそうだ。
 すると先輩は、そんな私を落ち着かせるように頭をそっと撫でてくる。

「いいよ、言わなくて」

「っ、え……?」

「君が言いたくないなら、聞かない。君が俺に話したいって思ったときでいい」

「なん、で……」

「ああ、勘違いしないで。どうでもいいからじゃない。君が大切だから、泣いてほしくないから、そう言ってるだけ」

 ユイ先輩が慈しむような優しさを孕んで、私の目尻を指先で拭う。
 そこでやっと、自分が泣いているのだと気づいた。

「でも、これだけは言っておく。俺はね、小鳥遊さん。今こうして、君のそばにいれてよかったって、心の底から思ってるよ」

 ユイ先輩の瞳の色は、相変わらず静かな夜の空のようで。けれど、そのなかには言い表しようのない切なさが滲んでおり、私は返す言葉を失ってしまう。
 ユイ先輩の方が、泣きそうだ。
 胸の奥深くを引っかかれたような痛みを覚えながら、くしゃりと顔を歪める。
 こんな顔をさせたくないから、今まで黙っていたのに。
 ああもう、本当に、私はいったい、なにをやっているんだろう。

「じゃあ、弟くん呼んでくるから」

「っ……は、い」

 最後に小さく微笑んだユイ先輩は、そのまま静かに病室を出ていった。
 ひとり残された私は、腕から伸びる点滴の管を見る。見慣れた光景のはずなのに、今すぐ引き抜きたい衝動に襲われた。嫌だ。こんなものがあるから、私は──。

「……っ」

 こんなはずじゃなかった、なんて後悔したところで無意味だとわかっている。わかってはいるけれど、まだ、先輩の前ではただただ弱い私の姿を見せたくはなかった。
 ──私に残された時間は、もう、そう長くはない。
 自分でそれが嫌というほど感じられるからこそ、どうしようもなく胸が痛かった。
 泣きたくもないのに、涙が溢れ出してくる。
 ああ、嫌だ。私は、死にたくない。
 死にたくないのに。

「……っ、姉ちゃん!」

 病室に飛び込んできた愁は、泣いている私を見て悲鳴じみた声を上げた。派手に足を縺れさせて、あやうく転びかけながら、ベッドに縋りついてくる。

「どうしたの、まだ、どっか痛いんじゃ……っ」

「ちが、ちがうの。ごめんね、愁」

 弟は、私よりもよっぽど泣き腫らした目をしていた。
 不意に小さい頃のことを思いだした。
 いつ、どんなときも、私の後を追いかけてきていた愁。自分が一緒に行けないとわかると、こんなふうに目と鼻が真っ赤になるまで泣いていた。
 いつまでも小さいままだと思っていた弟が、あっという間に私を追い越して、知らぬ間に大人になってゆく。それをずっと、寂しく感じていた。
 でも、やっぱり、愁は愁だ。
 どれだけ身体が大人になっても、たったひとりの弟であることに変わりはない。

「痛くない。平気だよ、愁」

 そもそも私は、もうほぼ『痛覚』がなくなっている。どれだけ苦しくとも、そこに痛みは感じない。それをあえて伝えることはしないけれど。

「で、でも……っ」

「心配かけてごめんね。大丈夫、お姉ちゃんはちゃんと生きてるよ」
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