モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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5章「生きてくださいね」

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 家族でさえこうだ。だから、そうなのだろうと思っている。たしかに感情の起伏は少ない方だと自負しているし、実際に並大抵のことでは心を揺らすことはない。
 ……なかった。これまでは。

「もういいから、退いて。離れに戻る」

「ちょっと待って、詳しく聞かせてくれないの?」

「聞かせる必要性を感じないからね」

 立ち塞がるハル兄を押しのけて、俺はさっさと廊下を歩いていこうとした。
 けれど、ふと思い立ち立ち止まる。
 迷いながら振り返ると、ハル兄はきょとんとした顔でこちらを見ていた。なんだかんだ言っても実はそんなに興味ないのか、と拍子抜けする。
 結局、この男も春永の血を引くものなのだ。

「ねえ、ハル兄」

「なんだい」

「……枯桜病って、知ってる?」

 ふ、と。ハル兄の顔から表情が掻き消えた。まるで、帳が落ちたかのように。

「知っているけど。それがどうかした?」

「……べつに。枯桜病のことを調べてて、ちょっと気になっただけ」

 我ながら無意味な問いだった、と俺はふたたび踵を返そうとする。
 それを訊ねたところで、ハル兄が治療方法を知っているわけでもない。
 俺はいったいなにを期待したのか。
 しかし、ふたたび足を踏み出そうとした刹那、パシッと腕を掴まれた。驚きながら振り仰ぐと、そこには背筋にぞっと寒気が走るほど冷え切った瞳があった。

「な、なに?」

「……どうして結生が枯桜病のことを調べる? まさかとは思うけど、おまえの付き合ってる人って──」

 なんでこうも察しがいいのだろうか。
 心底げんなりしながら、俺は掴まれた腕をほぼ力任せに強く振り払う。

「だとしたら、なに?」

「っ……結生! わかってるのか、あの病気は……!」

「死ぬ病だよ。知ってる。……俺の彼女も、もうそう長くないって言ってた」

 ハル兄が目を剥いてはっと息を呑んだ。

「でも、だからなんなの。もうすぐ死ぬからって、なんでそばにいちゃいけないの。好きなのに、一緒にいたいのに、なんでそうやって死ぬことしか考えないわけ」

 わからないのだ。
 鈴も、俺から離れようとした。
 あれだけ好きだと伝えておいて、これだけ俺を好きにさせておいて、俺が病気のことを知っただけで距離を置こうとした。あのとき、なかば強引にでも引き留めていなければ、きっと鈴はもう今ごろ俺の前から消えていたんだろう。
 でも、俺は、知っている。
 そうして置いた距離は、後々、拭いきれない後悔として心を蝕んでいくことを。
 だから、絶対に譲らない。譲るわけにはいかない。
 誰になにを言われても。それがたとえ、鈴からの願いだとしても。

 ──俺は、二度と同じ過ちを犯すわけにはいかないのだ。

「……もう、母さんのときみたいに騙されない。後悔もしない。もうあの頃みたいな、なにもわからない子どもじゃないから。頼むからほっといてよ」

「結生……でも、そんな」

「俺の世界を変えてくれたのは、鈴なんだ。鈴がそばにいなくちゃ、俺は……」

 ぐっと込み上げた言葉を飲み下して、俺は鋭くハル兄を睨みつけた。

「干渉してこないで。俺はいつだって、自分が正しいと思ったことをやってる」

 ひどく悲痛な顔をして押し黙るハル兄に、くるりと背を向ける。
 こうなることがわかっていたから、兄には会いたくなかった。俺と同じように母親を失った経験のある兄は、とくにハル兄は、間違いなく今の俺を心配するから。
 けれど、間違ったことをしているとは思わない。
 俺はたとえ本当に灰になって朽ちてしまっても、鈴のそばにいる。
 それが後悔しない道だと、心の底から信じているのだ。



 病室に入ると、鈴はパッと弾かれるように顔を上げた。俺の顔を見た瞬間、まるで蕾が花開くように表情を綻ばせて「先輩!」と嬉しそうに笑った。
 そんな姿に胸の端っこをくすぐられながら、俺は鈴のベッドへ歩み寄った。

「また着替えたの?」

「だ、だって先輩が来るって言うから……」

「いいって言ってるのに」

 鈴がラフな私服を着ているのを見て、俺はしゅんと眉尻を下げる。
 どうもパジャマ姿を見られるのが嫌らしい。入院しているのだから当たり前なのでは、と思うのに、俺が来るときは大抵ちゃんとした格好をしている。

「好きな人の前ではきれいでいたいっていう乙女心なんですよ」

「俺はどんな鈴でも好きだよ」
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