モノクロに君が咲く

琴織ゆき

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5章「生きてくださいね」

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「なんていうか、先輩の絵みたいに。見た人の心を掴む絵。技術や表現力ももちろん大事ですけど、その絵に込められた魂の叫びというか──そういうものが込められた絵は、たとえ下手でも人々の心に届くじゃないですか。感覚的なことなので、言語化するのはなかなか難しいんですけどね」

「……ムンクの叫び、みたいな? 正確に描かれてない訴えってことかな」

「ふふ、うん、そうですね。あれもまぁ、その一種なのかもしれません。魂の叫びというかは曖昧ですけど。でも、第六感に突き刺さるなにかがある気がしません?」

 まあ──そう、なのかな。
 いまいちはっきりと飲み込めなくて、俺は顎に指を添えて考える。
 こんなふうに、絵に関することを突き詰めて話すのは嫌いじゃない。
 鈴と出逢うまでは他人とそんな話をすることもなかったけれど、いざこうしてみれば意外と視野が広がるのだ。どこまでも、果てしなく。
 俺が思いもしなかったようなことを鈴は考えていたりするから、面白い。

「刺さったものってね、厄介なことに一生抜けないんですよ。裂傷と同じです。いつまでもいつまでも胸に刺さってる。だから、忘れない。もうここまでくると奇跡みたいなものですね、そういう絵と出逢うのは」

「ふうん。全部はわからないけど……まあ、感覚的なものだしね。描くも、見るも」

 俺はそもそも、他人の絵をあまり見たことがないのだけれど。
 だからといって自分の絵が特別代えがたいほど好きというわけではなく、ただ人の絵を見てなにかを評価しようという概念がないだけだ。
 それは俺の役割じゃないし、見たいと思ったことすらなかった。

「先輩もいつか、そういう絵に出逢えるといいですね」

「……うん。鈴はもう出逢ってるの?」

「えぇ、今さらですか? 私にとっての運命の出逢いは、ぜーんぶ先輩ですってば」

 運命の出逢い、とは。
 言葉の意味を図りかねていると、鈴はおかしそうにころころと笑った。

「ユイ先輩。今日はお天気もいいですし、お散歩に連れて行ってくれませんか?」

「散歩? いいけど……怒られない?」

「むしろちょっと外に出るよう言われてるんです。ずっと引きこもってたら、それこそ退化していきますから。適度なお日様は身体にいいんですよ」

 なるほど、と素直に納得する。
 人間は太陽光を浴びないと生きられない存在だと、どこかで聞いたことがある。
 引きこもりだと思われがちな俺も、実際は毎日のように屋上庭園で外気に当たっているし、あながち嘘ではないのかもしれない。一向に日焼けしないのは体質だ。

「車椅子はそれ使っていいの?」

 部屋の隅に畳んで置いてあった車椅子を指さすと、鈴がわくわくした表情でうなずいた。どうやら今日は本当に体調がいいらしい。
 よかった、とひとり胸を撫でおろす。
 車椅子を開いて座部分を整えてから、ストッパーをかける。内側に折れたままの足置き場を戻しながら、ベッドの端にぴったりと付けるように寄せた。
 これができるようになったのは、鈴が車椅子に乗るようになってからだ。車椅子がこんなふうにコンパクトに畳まることも、意外と重量があることも知らなかった。
 腕で体を支えて自ら車椅子に移ろうとする鈴に、俺は嘆息しながら声をかける。

「鈴」

「へ? ……わっ」

 どうして甘えないのかな、と少し寂しく思う気持ちを隠しつつ鈴を抱き上げて、車椅子に移動させる。もともと体が小さい上、なにぶん細いから軽い。
 隼と比べると圧倒的にもやし扱いされがちな俺でも抱き上げられるから、ありがたいと言えばありがたいのだけれど。
 ただ、少し、不安になる。
 触れるたびに軽くなっていく体が、そのうち俺が持ち上げることもないくらいに軽くなって、風に吹かれるまま消えてしまうのではないかと。

「せ、先輩、甘やかしすぎですよ」

「甘やかすって言った」

「言いましたけど! うぅ……恥ずかしい」

 鈴は本当に小さなことですぐに顔を赤くする。その感覚がいまいち理解できなくて不思議に思いながらも、その初心な反応が可愛くてつい笑みがこぼれる。

「じゃあ、行くよ」

 鈴を乗せた車椅子をうしろから押して病室を出る。すると、ちょうど隣の病室から鈴の主治医の先生が出てきたところだった。たしか、伊藤先生といったか。
 こちらに気づいて、彼女が軽く手を挙げる。
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