魅了の対価

しがついつか

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給料と昇進、新しい仕事

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アッシュの下級侍女となってから一月後の給料日に、リンリーは歓喜に震えていた。
前職の男爵家よりも給与が良いと聞いていた通り、試用期間中であるにもかかわらず、リンリーの給与は1.5倍となっていた。

これならば予想よりも早く借金を完済できるだろう。
それが済んだら、弟妹――特に妹の結婚資金のために貯金をすることが出来そうだ。
リンリー自身の老後の貯金にも回せる。


仕える相手は大嫌いだが、この給料は大好きだ。


金のためと割り切り、リンリーは真面目に働いた。

アッシュの食事を三食欠かさずに配膳し、洗濯と部屋の掃除、それから2日に一度のアッシュのを行った。
動き回って汚れる使用人とは異なり、余り動かない貴族は汗もかかないので、風呂は2日に1回程度でも充分清潔さを保てるのだ。

さらには本館3階の使用人用トイレの掃除も、彼女が完全に引き受けた。
メインで使用するのがアッシュであるため、この階の掃除は使用人には不人気だったのだ。



先輩達から助言を貰い、着々と洗濯と掃除の技術を磨いていった。






三ヶ月の試用期間が明けると、正式な辞令を受けてリンリーはアッシュの上級侍女となった。

肩書きだけの上級侍女であったセオも、正式に皿洗い女中となった。上級侍女から皿洗い女中への降格であるにもかかわらず、セオは嬉しそうであった。

給料が増えたリンリーと、侍女職から解放されたセオ。
お互いにwin-winである。
この人事異動は、誰も不幸にしなかった。

周囲の使用人達にとっても、この辞令は歓迎すべきものだった。
嫌われ者である伯爵家の第二子アッシュの上級侍女が正式に決まったということは、己が貧乏くじを引かずに済むということである。
リンリーさえいれば、アッシュに近づかずに済むのだ。
侍女から女中への降格という穏やかではない事象も、『アッシュの侍女』からであれば納得だし、良かったなとさえ思う。











(…暇だわ…)


試用期間中――それもほぼ初日に、アッシュ本人と部屋の大掃除を片付けてしまったリンリーは、実はこの3ヶ月間、あまりやることが無かった。

朝昼晩の食事の配膳と片付け、取り替えた寝具と着替えの洗濯、3階の使用人トイレの掃除、アッシュの部屋の掃除。

時々、アッシュの部屋の家具の修繕を試みる他は、ほぼ毎日同じ行動パターンである。

部屋とトイレの掃除を念入りに行い時間を稼いでいるものの、本当は効率よく進めれば半分の時間で終わらせることができる。


リンリーは時間を持て余していた。

空いた時間に内職でもして小遣稼ぎをしたいところである。








(――そうだわ、あれを執事長に提案したらどうかしら?)


洗濯女中に混じってシーツを洗っている時、リンリーはふと思いついた。
本当はもっと前に提案したかったのだが、正式雇用されていなかったので諦めていたことがあった。






「食事マナーですか?」
「はい。その…アッシュ様はスプーンやフォークを使うべき料理も、すべて手づかみでいただくのです。――見ていてとても不快でして、私の精神衛生上よろしくないので、どうにかしたいなと思いまして…」
「手づかみ…」


執事長マイクの眉がひそめられる。


「特にトマトソースが使われた料理の時が酷いのです。手と口元を真っ赤に染め上げて召し上がる姿は、悪魔のようで…」
「主人を諫めるのは侍女や執事の仕事です。人間として間違っている行いならば、私の許可を待たずに正して差し上げなさい。私達の仕事は主人が快適な生活を送れるように尽力することはもちろんですが、外で恥をかくことがないように努めることもその一つです」
「はい」


今のアッシュを外に出したら、本人だけではなくブラウンロード伯爵家が恥をかくこと間違い無しである。


「それから、使用人棟の談話室にある絵本をお借りすることは出来ないでしょうか。あと学習用の木版もくはんもお借りしたいです」


学習用の木版に使われる木材は、水を掛けると色が変わる性質を持っている。
乾燥すると元の色に戻るため、主に勉強を始めたばかりの子供達が文字の練習のために使用する。
ペン程のサイズの木の棒を水で濡らして、木版に文字を書くのだ。
木版は何度でも使えるし、使用するのは水なのでインク代もかからない。

とても経済的な勉強道具だ。
使用人棟の談話室で、子供の使用人が持っているのを見かけたことがあった。



「…かまいませんが。それもアッシュ様に、ですか?」
「はい」


アッシュは伯爵令息が当たり前に受ける教育を、一切受けていない。
確認したわけではないが、己の名前すら読み書きできない可能性がある。


「アッシュ様は日がな一日ベッドの上で窓の外を眺めて過ごしているようです。
 ――こちらがあくせく働いているのに、何もせずにゴロゴロしているのが許せないんです…。せめて、机で勉強でもしててくれればいいのにと思いまして…」
「なるほど。そういうことでしたら、木版一式と――それから版が古く処分対象となっている教養本が物置小屋にいくつかあるので、持って行きなさい」
「ありがとうございます」



リンリーは執事長に感謝すると、許可を得た物品を取りに行った。

本来は平民であるリンリーが貴族子息に教えられるようなことはない。
だが、リンリーとて最低限の読み書きは出来るし、マナーだって下級貴族程度であれば学習済みである。
何も出来ないアッシュが相手なら、教えられることはある。



彼女にとってこれは、不快な事象を少しでも改善するための行いでしかなかった。


だがアッシュにとっては、先の見えない飼い殺し生活に希望を見いだす重要な出来事だった。
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