祀君の嫁入り

iroha

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 少しして、俄かに禮の王宮内が騒がしくなった。人々の話を合わせると、どこかで戦さをしているらしい。前に聞こえた銅鑼の音は、兵が出立する合図だったそうだ。
 翼飛は争いごとを避けるために雲上の国に住んでいる。一体どういう状況なのか不安でたまらなくなり、今日も王からの書簡を届けた若い医官――灰羅というそうだ――に尋ねると、「ああ」と苦笑が返ってきた。

「そうか、何も説明がなかったら不安になるよね。陛下はきっと、翼飛のセンに気遣って説明しなかったのだろう。禮の南側の一部は、蛮族の国……へんと国境を接している。禮は僅かにしか接していないけれど、禮の同盟国である麗国と汳は隣り合っているんだ。こうやって時折、王が兵を出して、麗の味方であることを汳に見せつけているんだ。毎年行われる定期戦みたいなものだよ。王都に戦禍が届いたことは一度もないから、安心して」
「汳の民たちは、どうして手を出してくるんだろう。冬に暴れたら、無駄に食糧を使うことにならないかな」
 秋から冬へと季節は完全に移り、霞雲山に続く道がいつ雪で完全に閉ざされてもおかしくない気候となった。翼飛の民が住まう里は急峻な霞雲山の頂き付近にあり、冬は特に風が強くて寒さは厳しくなる。冬季が来ると、神へのお遣いの役目も、風が強い日は休みだったことを思い出す。

「冬だから、だね」
 灰羅が人のよさそうな顔に、困ったような表情を浮かべた。灰羅の他にも、王の私信を届ける先は少しずつ増えて行ったが、センが一番話しやすい相手となったからか、相変わらず灰羅に書簡を届けることが多い。そもそもただの客人でしかないセンに、重要な私信が預けられるはずもないので、『仕事』という名の、王の気遣いであることにはセンも気づいていた。灰羅は医官の中でも若い。しかし、あちこちを旅して医学を学んだと言うだけあって、博識だ。数十人はいるという医官の中でも、翼飛についての知識がある医官は灰羅を含めて数名しかいない。その中で一番年若い灰羅がセンのかかりつけ医に決まったと、少し前に灰羅が笑いながら教えてくれた。

 すっかり行き慣れた小さな室で、お気に入りの椅子に座ると、センは翼を広げて寛ぐ。翼飛にいる時は意識をしていなかったのだが、人の生活空間は翼がある人のことを考えていない。灰羅は目の前に広がったセンの翼をくまなく観察していて、特に問題はなさそうだと安堵していた。

「汳の者たちはね、冬に向けて蓄えるということをしないんだよ。彼らは奪うことしか考えない。……まあ、彼らがいる土地というのもひどく痩せているからね」
「そうか……。確かに、他の国では頑張って蓄えているのに、それを寄こせと冬に暴れるのなら悪質だね。でも、そのひどく痩せた土地ってどうにかならないかな? 痩せた土地でも、構わず根を張る植物の話なら、いくつか聞いたことある」
 そうなの? と灰羅が驚きながら尋ねてきた。センは灰羅の反応に驚きながら頷き返した。地上には植物が育ちにくい土地がいくつもあることは、旅をした翼飛が記録している。地上の人々がそれに打ち勝つために様々な試みをしていていることも。その中には、砂ばかりの土地にも根を張り巡らせ、僅かな雨水をためて森をつくり、果物を実らせる植物について書かれたものを読んだ記憶があった。

「いつか、彼らが自分たちの土地をどうにかしたいって思う日が来ると、良いのだけれど。それにしても、今年は兵たちの帰りが遅いなあ。そろそろ先発した一陣が帰ってきてもおかしくないのに」
 灰羅がそう漏らした時だった。灰羅の室の扉を忙しくなく叩く音がして、灰羅が応じると医官の一人が飛び込んできた。

「大変だ、先発した一陣が戻ってきたのだが――汳の思わぬ反撃に遭い、撃破はしたそうだが、負傷者が出ているらしい。灰羅も手伝ってくれ!」
 センのことも目に入っていないらしい。灰羅の同僚はそれだけ告げて別な医官を呼びに駆け去っていく。灰羅はいつになく緊張した面持ちで身支度を始めたので、センも椅子から立ち上がると灰羅が申し訳なさそうな表情をした。

「せっかく尋ねてきたのに申し訳ない。しばらく落ち着かないかもしれないけれど、大丈夫だからね。センは陛下のところに」
 センよりも年上の灰羅は、小さな子どもに言い聞かせるようにそう告げて、部屋を飛び出していった。できればセンも何か手伝いと思ったが、医療に関しては精々薬草の知識くらいしか持たない自分では、それこそ足手まといにしかならないだろう。大きな翼をたたんで、すっかり冬支度の整った庭園を通り、センのために用意された部屋かある赤麒殿へと戻る。

(……そういえば、あのオオカミ――伯皓と、驪竜さま。最近見ないな)
 驪竜には、今さら会いたいわけではない、と思う。なんといっても意地悪そうで、そして過去から抱いていたセンの憧憬の念が無残に切り捨てられてしまった、悲しい気持ちになる。だが、あのオオカミはおとなしくて、仲良くなれたら嬉しい。
 
 庭園から見上げた空は雲が重く垂れこめていて、荒れそうな気配がした。


***

 自室に戻ったセンを、王付きの侍従が呼びに来た。センよりも年が下だという侍従は最初こそよそよそしかったが、この頃は打ち解けてきたと思う。
 そんな侍従も、先ほどの灰羅と同じように緊張して、強張った面持ちになっている。センは自身の心臓が、ドキドキと音を立てているのを感じた。ずっと王宮にいるので、王は無事だ。しかし、王付きの侍従がこれほど強張った顔をするのを見るのもまた、初めてだった。

 侍従と一緒に王が待つ黒鳳殿へと向かう。黒鳳殿は王の寝宮であり、センが使わせてもらっている赤麒殿は、霞雲山を北とすると黒鳳殿の東側にある。黒鳳殿に行くのはこれが二度目だ。一度目は庭園で気絶した時だったので、自分の足で扉をくぐるのはこれが初めてである。急ぎ足の侍従に置いていかれないように、しかし走らないように気を付けながら向かうと、黒鳳内にいくつもある室の一つへと連れて行かれた。

「セン殿をお連れしました」
 侍従が緊張したまま扉に向かって声をかけると、黒鳳殿付きの女官がすっと扉を開ける。侍従と女官はお互いに頭を下げてから、センだけ部屋に入るように言われた。入れ違いで、女官たちは部屋から出て行ってしまう。

 広い部屋の奥には、禮王ともう一人が向かい合って腰かけている。センが立つ場所からは、もう一人は背中を向けている格好なので、顔は見えない。

「ああ、セン。すまないね、寒いのにこんな奥まで呼び出してしまって」
 王自ら立ち上がると、部屋に入ってすぐのところで立ったまま待っていたセンにも、腰掛けるよう勧めてくる。足を進めながら部屋の中をよく見ると、以前運び込まれた部屋とは違うようだ。色合いは落ち着いているものの、暖炉に至るまで繊細な装飾が施されていて、赤麒殿のものよりも格が上に感じる。禮王のところまでたどり着き、それからセンは目を丸くした。

「驪竜さま? あっ、ケガをしている?!」
「……陛下。自分はこれで失礼します」
 今の今までどっかりと椅子に座っていた長身の男。口調が意地悪めいていた、あの男――驪竜だ。この頃庭をうろついていても会わないのも当たり前だ。男は鎧を外してはいるものの、武官の服装をしている。内廷に剣を持ち込むことは禁じられているので帯剣こそしていないが、この地で再会した時に着ていたものと同じ形状で、その上衣は文官たちのものと違い袖口が小さい、特徴的な形をしている。しかも男の服は深い紫――禮では王の色である黒に次いで位の高い者に与えられる色だ。男は襟元を寛げていて、布があてられているのが見えた。南方への派兵は、この男が指揮をしたのかもしれない。

「まあ、少し待って。……セン、急いで呼び出したのは、この男の世話役を頼まれてくれないかと考えてなんだ。もう知っていると思うけど、この男は驪竜といって、私の軍を一部預けている。職は王衛将軍だ。普段は私の護衛みたいなものだけど、たまには汳への派兵について行くというから行ってもらったら、戦いが大きくなってしまってね。驪竜がいなかったら、麗も我が国の国境も危なかった。……こうして怪我をしてしまい、彼の従者も一人は大怪我でしばらくは歩くことができない。この男は大層な人嫌いだが、センのことは気に入ったみたいだから」
「陛下。私がいつ、このうるさい小鳥を気に入ったというのだ。それに、紫麟殿にも人手はある。不便はない」
 禮王よりも背が高い驪竜は、怒りをにじませた薄い鳶色の瞳で、禮王と、それからセンを見下ろしてきた。禮王は小首を傾げて見せる。禮王は驪竜よりも若いからか、驪竜への態度にはどこか甘えている雰囲気がある。

「驪竜が不在中だった時の、センの話をしたら嬉しそう聞いていたのに? 体調とかも聞いて来たりして。それは私の勘違いかな。第一、あちこち一緒にくっついていた胡覧がいないと大変じゃないか。せめて、紫麟殿しりんでんに連れて行って中を見せるくらいはしてあげてほしい」
 禮王が顔に似合わずはっきりとした口調で言い終えると、驪竜はそれ以上何も言わず、しかし冷たい一瞥だけを投げてきた。何とか口を挟もうとしたセンも、その眼差しに驚いて口を噤んでしまう。どう考えても、気に入る、気にいらないの前に、嫌われているのではと思うのだ。驪竜は深く息を吐き出すと、センに付いて来るように告げて踵を返した。
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