黒スーツと二酸化炭素

SB亭孟谷

文字の大きさ
31 / 66

上田美代子『現実時間』二月一日

しおりを挟む

   年度が変わっても、上田美代子の生活に変化はなく、
時々仕事終わりにレイトショーを観にいくことだけが唯一の趣味の、美人ではあるが垢抜けない研究員のままだ。
 ただ少し変わったことと言えば……
 コートを新調した。
 というのも去年の年末に買った白いパパーハを気に入ってしまい、研究所まで着ていったら今までの茶色いコートだと悪目立ちするのだ。
 黒いコートに変えたら、なんだか本当にロシア人っぽく見える。
パパーハは暖かいし、帽子を『似合う』と言われたことが、上田の人生では初めてのことだった。
 何よりこの手触りがいい。
 モヤモヤすることがあっても、フワフワした帽子を触れば少しは落ち着いた。
 人間は突発的な怒りを押し込めるのに六秒かかるという。
 それを上田は半分の時間で乗り越えることができるようになった。最高の買い物だ。

 おかげで、以前より動物が好きになった。犬とか猫を、撫でていれば幸せになれるという人間の心理が、今ならば理解できる気がする。
 ……と、思っているのは、上田が自分でそう思ったのか、それとも、『他者に思わされていたのか』……


 * * * * *



『現実時間』二月一日。上田家。午前七時。

「……おはよー……」

 上田美代子がリビングの入り口から入ってきて、
毎朝そうするように「うがい」をしようとキッチンシンクに向かう途中で……

 ガン! と足が何かを蹴飛ばした。

「痛!!」

 相当、強く蹴ったみたいで、その場でうずくまった。
 ようやく母親が美代子に声をかける。

「おはよう。どうしたのよ」

「うぅぅ小指ぶつけた……」

「何やってんのよ……」

 毎朝惰性で歩けるほど慣れた道に、トラップが仕掛けてあるなんて、大概の人間はまず思わないだろう。
 ましてそれが、他者が仕掛けたものだとは絶対思わない。
 微妙な、本の出っぱり、わずか数センチの棚のズレ、いつもと数センチ違うドアの開きを、人間は認識できないのだ。
 そしてぶつけた小指は、単にぶつけた以上の痛みがある。
 記憶に植え付けるには十分な痛みだ。
  

 * * * * *





『現実時間』二月一日、午前十時半、県立大学の研究室。

 全くついてない日だ。ぶつけた小指がなんだかまだ痛いし、その足を駅で踏まれるし、今日の天気は雪……。

 そしてついてない日は、ついてないことが重なるものだ。

 研究室について早々に、久保井さんに話しかけられた。


「今度の日曜、時間があれば――古書店を覗いてきてもらえないか」

 古書店の話は、「よく」久保井さんから聞く。
 そういう掘り出し物は久保井さんの趣味だし、だいたいそんな趣味を持ったのは久保井さんの家の近所に『ある』からではないか。
 古書店が……。
 なのになんで私が? 上田はそっと、デスクの上に置いた帽子を触った。

「いやね、最近ちょっと面倒なことがあってさ」

「面倒……」

「うん。昔の培養法、昭和の頃の和書なんだけど、どうにもネットには情報が上がっていないんだよ」

 ……? ?『昔の培養法?』なんのだろう? 今研究所が取り組んでいるのは、新型感染症ウイルスの研究だけれどもそれに、『昔の培養法』が関係するのだろうか?

「図書館の目録みましたか?」

「見たけど載ってないんだよ。
 いや、別にすぐ必要ってわけじゃないんだよ。
 ただ、今の研究テーマの補強資料になるかもしれなくてね」

「はあ……」

「僕が自分で行けたらいいんだけど、次の休みは地方に講演で呼ばれててね……
 できれば上田さん行ってくれたら助かるんだけど」

「え、わかりました……」

「ありがとう! 上田さんなら任せられるよ。
 現物を見つけたら、タイトルと出版年だけでもメモしてくれれば助かる。
 もちろん、なければそれで構わない。
 ついでに、何か気になる本があったら、君の勉強用に買ってきてもいいから。
 どうせ研究費で落とせる範囲の安価な古書だろうし。
 頼めるかな?」 

「わかりました……」

 どうせ休みは何もすることがないから、別に良いのだけれども雑用とは……。
 それも、今の仕事とは関係なさそうな、要するに久保井さんの個人的な何かのフォローということじゃないのか。
 全然釈然としないまま、NOとも言えないので引き受けてしまった……。


 * * * * *

『現実時間』二月一日。二十一時。

 なんだか気分が晴れない日は、以前はお酒の力に頼っていたが最近は、図書館に行くことにしている。
 この図書館は去年の年末に知った図書館で二十四時間会館している。

 図書館は落ち着く。
 人間に囲まれるというのは不愉快極まりないことなのに、本に囲まれるというのはどうしてこうも多幸感を得られるのだろう。
 そういえば、本の虫の久保井さんが言っていた。

「人間は裏切るが、本は裏切らない」

 ……久保井さんを思い出して、同時に明後日の休日に雑用を押し付けられたことを思い出した。
 別に用事があるわけではないのでいいのだが……。

 席を一つ選んで、荷物を置いて帽子とコートを脱ぐ。
 図書館は今日も、こんな時間でも何人かの人間がいて、本を探したり本を読んだりして、全員でこの静かな時間を共有している。
 
 本が好きなわけではない上田は、なんとなくサイエンスコーナー、それも、細菌や微生物の書物が並んでいる棚に引き寄せられてしまう。
 別に意識が高いわけでも、向上心が強いわけでもないと自分では思っているのだけれど、やはり無趣味なのだろう。
 
 化学書がずらりと、お行儀よく並ぶ棚の間を歩いていると、目を引くものを見つけた。

 ……本が、一冊出っぱっている。

 それと連動して、思い出したように足の小指が痛くなった。

 おそらく誰かが適当に棚に突っ込んだのだろう。
 とは言え、ただ本が出っぱっているだけだ。いつもの上田なら別にこんなものに興味を示さないのだ。
 いつもの上田なら。

 しかし今日はそうもいかなかった。この出っぱりに誰かが、ぶつかって痛い思いをしたら可哀想だ。

 ふうとため息を漏らして上田は、不自然に飛び出ている本を押し込もうとして違和感を覚えた。
 ……『高山植物?』

 ここは微生物の欄のはずだ。高山植物の本が置いてあるのは不自然だ。
 思わず手に取ると……

 表紙が古い本のようなモアレ生地だった。
 フサフサした触感で触り心地が良く、しばらく触ってしまった……。
 
 するとそこに……

「お? その本が気になるのかい?」

 近くにいた、優しそうなおじさんに話しかけられた。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー

黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた! あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。 さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。 この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。 さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜

KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞 ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。 諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。 そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。 捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。 腕には、守るべきメイドの少女。 眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。 ―――それは、ただの不運な落下のはずだった。 崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。 その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。 死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。 だが、その力の代償は、あまりにも大きい。 彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”―― つまり平和で自堕落な生活そのものだった。 これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、 守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、 いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。 ―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

処理中です...