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相良の懐中時計
しおりを挟む絶え間なく、規則正しく、打ち寄せては引いていく波の音。
こんなにゆっくりと波の音を聞いたのは何年ぶりだろう。砂の上に仰向けになると、そこには満天の星空が広がっていた。
このまま寝てしまいたい。そしてそのまま目が覚めなかったらどんなに幸せだろう。衣嚢(ポケット)から懐中時計を取り出して握りしめる。母ちゃん、親父、玉枝、剛史……
「相良、ここにいたのか。探したぞ」
仰ぎ見ると、そこには上田が自分を見下ろして立っていた。
「スキだらけだな、ここが戦場だったら死んでいるぞ」
そう言って上田は煙草に火を点け、相良に渡した。
相良は煙草を受け取ると、ゆっくりと煙を吸い込み、一時おいてから吐き出した「戦場だったら、呑気に星なんぞ眺めてはいないさ」
「それもそうだな」
「指令に呼び出された」相良はぽつんと呟いた「俺の家族は皆……死んだ……」
相良の言葉は波の音にかき消され、ほとんど聞き取れなかった。それほど小さな声であったが、上田には分っていた。
「ああ、知っている。だからお前を探していた」
そう言うと上田は、もう一本煙草を取り出して火を点けた。
「指令から聞いたのか? 貴様まだ再出撃を嘆願しているのか?」
上田は一度出撃しているが、米駆逐艦の爆雷によって彼の的は損傷し、発進する事ができなかったのである。
「勿論だ。俺は腹をくくってここに来た。おめおめと生きて帰るつもりは無い」
「上田、貴様は一度出撃している。指令は再出撃を認めていないはずだ。つながったその命、家族の為にも生きて帰るという選択肢はないのか」
「無い。俺の親父は軍人として満州で散った。実を言うとな、母ちゃんは俺が軍人になる事を望んではいなかった。親父が戦死したからな」
「ではなぜ?」
「なあ相良。俺は昔ひ弱でな、子供の頃は病気がちだった。だから、本ばかり読んで過ごしていたよ。親父がなまじ立派な軍人だった為、俺だけでなく母親も姉も弟も、ずいぶん誹謗された。情けない兄だとな。だが今はこの通り頑丈な身体だ。家族の名誉の為にも俺はこの命を国に捧げると誓ったのだ」
「だが貴様が死んだら家族はどうやって生活するのだ」
「弟がいる。それに親父は幾何かの金を残しているから、俺がいなくても食うに困らない生活はできる」
「貴様の母親はほんとにそれを望んでいるのか?」
相良の問いに上田は沈黙していた。
「相良、貴様の家族はもういない。それでも貴様が死ぬ理由はあるのか? この後に及んで死んでまで守りたいものがあるのか? 貴様、以前言っていたよな、文豪になりたかったと。なれ! 貴様ならなれる」
「上田、貴様何を言っている? 俺は今こうして出撃を待っている。むしろ帰る家が無くなった事でこの世に対しての未練など微塵も無い」
「いいか相良、よく聞け。次の作戦では俺が貴様の代わりに出撃する。板倉指令も承諾下さった」
「何だと貴様! どういうつもりだ。指令に掛け合ったのか? 俺に断りもなくそんな事が許されると思うのか。俺は絶対に認めん!」
「そう言うと思ったよ。今宵、また指令の部屋に嘆願に行ったんだがその時、同期という事で貴様の家族の事を聞かされた。先だっての千葉空襲で貴様の家族が全員亡くなったとな」
「…………」
「貴様は守るべき家族が無くなった。そのことで貴様が戦意を喪失しているなら、俺が代わりに出撃する事もやむなしと、お言葉を頂いた」
怒りを露わにして拳を握りしめた相良をたしなめ、上田は続けた「その時計に彫られた志。その文字の意味は貴様が一番解っているはずだ。貴様の物書きになりたいという夢、戦争に行っても生きて帰り、その志を貫け。そうゆう願いを込めて貴様の親父さんは、それを託したんだ。少なくとも貴様の話を聞いて俺はそう解釈した。違うか?」
「貴様、知った風な……」
相良は今にも上田に殴りかかろうとする勢いだったが、再度それを制して上田は続けた。
「貴様は頭がいい。それは誰しもが認めるところだ。W大でも貴様は断トツだった。その才能を後世に残せ。こんなところで散らしていい命ではない。いいか、よく考えろ」
そう言うと上田は相良の反撃を待たずに踵を返して歩き始めた。が、ふと何かを思い出したように立ち止まった。
「柳原一飛層、貴様も同じだ。郷里はたしか千葉だったな。大方の想像はつく。家族を失ったか? 貴様、百姓のせがれと聞いたが、予科練では一番の成績だったそうじゃないか。ここでもお前の成績は相良に続き二番だ。その頭脳と才能を無駄にするな。相良の気が変わらなかったら貴様と代わってやる。考えておけ」
「何? 上田、貴様誰と話している」
「気が付かなかったのか? やはりスキだらけだな。俺がここに来る前から柳原一飛層はそこにいたぞ」
「何だと」
よく目を凝らすと暗闇の中、朽ち果てた漁船の傍らで膝を抱えて座っている人物が見えた。家族の死を知らされ、気が動転していた為、気が付かなかったのか……
「貴様、いつからそこにいた」
「申し訳ありません。相良少尉殿がいらっしゃる、ほんの一時前からであります」
柳原は即座に立ち上がって深々と頭を下げた。
「なぜ声を掛けなかった」
「申し訳ありません。声をお掛けしようとしたのですが、上田少尉がいらっしゃって、好機を逸してしまいました。申し訳ありませんでした」
柳原一飛層は九十度に腰を折ったまま微動だにしなかった。
「おいおい、奴を責めるな。聞かれて困る話をしていた訳ではないし、そもそも気がつかなかった貴様にも非はある。許してやれ」
上田はそう言うと一人兵舎へ戻って行った。
「貴様も先の空襲で家族を失ったのか?」
相良は柳原を座らせ、穏やかな口調で語りかけた。
「はい。両親と姉を……しかし、弟だけは難を逃れたと聞いております」
「そうか。貴様も辛いな。だが弟だけでも生き残ったのは不幸中の幸いだったな」
「はい。ありがとうございます」
「貴様は戦意を喪失したか? もしそうなら次の出撃、上田と代わってもかまわん。俺はとがめん」
しばらく二人の間には規則正しい波の音のみが響いた。
「上田少尉殿のお心遣いには心から感謝いたしますが、代わって頂くつもりはありません。自分の家族は殺されました。今こそ正にその無念を晴らす時と心得ております」
「貴様も日本男子か……」
「お言葉ですが相良少尉。少尉殿はW大でも稀に見る秀才だと伺っております。そのようなお方が特効で命を落とす事が果たして、本当にお国の為になるのでしょうか。出過ぎた事とは承知しておりますが、もし、上田少尉の心中をお察しするならば、先の申し出を受けるべきだと思います」
「貴様も知った風な口をきくな」
相良の口調は怒っている様ではなかった。
「申し訳ありません」
「もういい、明日も訓練だ、早く戻って寝ろ」
「はい。失礼します」
相良に敬礼すると柳原は走って兵舎に戻って行った。
誰もいなくなった浜辺で相良は一人、涙を流した。母ちゃん……みんな……待っていてくれ、仇は必ず俺がとる。
相良は懐中時計を握りしめた。
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