爺ちゃんの時計

北川 悠

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松子と晴彦

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 母が出かけた後、松子は一人で店番をしていた。あえてお店にいる必要はなかったが、休日で誰もいない店内は静かで落ち着くので、母が戻るまでここで読みかけの本を読む事にした。
 母と二人、長野から千葉に来て十年が経った。千葉はとても暮らしやすい。バスにもすぐ乗れるし、お店も沢山ある。でも、あのアルプス山脈と透き通った空気、裸足で遊んだ記憶を今でも思い出す。
 松子は籐の椅子にもたれ、本を読みながら、うつらうつらとしていた。
遠くでガラス戸を叩く音がする。はっと我に返り戸口を見ると、刷りガラス越しに杖をついた男性が見える。
「すみません。今日はお休みなので、豆餅しかありませんが」
 戸を開けながら松子は言った。
 男性はしっかりとした身なりで、紳士という言葉がふさわしかった。歳は四十歳前後だろうか。右足はかなり不自由そうで、一歩歩くのにも時間がかかっている。松子は彼に椅子を進めた。
「いえ、大丈夫です。お構いなく。お休みのところ失礼致しました。こちらは松野美代子さんのお店でしょうか?」
「はい。そうですが、母に御用ですか?」
「申し遅れました。わたくし、松下靖彦と申します。お母様はご在宅でしょうか?」
 そう言うと男性は杖を置き、片足でバランスを保ちながら胸ポケットから名刺を取り出して松子に渡した。とても丁寧な態度と口調だった。名刺には【松下英会話学校 校長 松下靖彦】と印刷されていた。住所は東京だ。学校の先生?
「ただいま母は出掛けておりますが、もうすぐ戻ると思いますので、お待ち頂けますか」
「よろしいのですか」
「はい」
 松子はその紳士に再度、椅子を勧めた。
 押し売りが多いと聞いていたので、普段の松子なら母は不在だといって、追い返すところだが、彼は至って紳士であったし何より英会話学校の校長と聞いてがぜん興味が沸いたのである。
 松子が彼の仕事について聞くと、ビジネス英会話が主な生業で、講師にはアメリカ人もいるという。最近では商社社員の海外派遣も多く、需要はあるのだと説明されたが、それは彼の身なりが既に証明している。
 自分は今、W大学の学生だと言うと、彼は驚き、松子を褒めたたえた。そして、これからは女性がどんどんと社会に進出する時代がくる。女性でなければ、それも優秀な女性でなければ出来ない仕事は沢山あると熱弁した。
 松子の中で、この紳士の株は更に上がった。彼は松子のリクエストに応え、英語でここに来た理由を説明してくれた。それによると、彼は昔、千葉市に住んでいて、松子の母、美代子は自分の元婚約者の親友だったという。
 戦争では右足を負傷したが生きて帰る事が出来た。千葉に戻ると自分の家も美代子の家も空襲で無くなっていて、美代子がどこにいるのかは解らなかった。だがつい最近、彼女が稲毛で家業を継いでいると聞いたので訪ねてきたのだという。そして最後に、貴女のお母さんはとても聡明な人だったと付け加えた。
 松子が彼の話を翻訳すると、彼はグレイト! と言って褒めてくれた。
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