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第一章

5.「Like a Rolling Stone」

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「……今週の放送は、この曲と共にお別れしたいと思います。ザ・クラッシュで『I Fought the Law』!」
 番組の最終盤、ハルカの一言を合図にミキサーが機材に手を伸ばした。
「それでは、来週またお会いしましょう! さようなら!」
 エンディングが終わり、ドコドコドコドコと走るようなドラムが流れる。
「アイフォウトザローエンダローウォン……」
 間奏の途中で曲がフェードアウトすると、飲料会社のコマーシャルが流れた。
「はい、カット!」
 シイナの鋭い声が真っ直ぐに響く。それと同時にブース内のハルカが大きく伸びをした。
 既にマイクは切られていたが、防音ガラス越しにも何かを叫んでいるのが伺えた。
「お疲れ様です」
 彼女がブースから戻ると、ソファーのいつもの席に着いた。
「はい、お疲れ様。フクチくんもお疲れ様」
「お疲れ様です」
 私は、イシイがやっていたのに倣い、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。
 視界の脇では、ミキサーのミヤモトは金髪を光らせながら、そそくさとスタジオを去った。
「ありがとう、ADさん」
 私はそれを彼女に軽く投げつけるようにして渡した。
「それで、どうだった? 反応は」
 ハルカは私の手にあるタブレット端末を指差す。SNSの情報発信やホームページの更新のために使用するラジオ局の備品で、私がイシイから引き継いだものだった。
「……もちろん」
「……もちろん?」
「怖いから見てない」
 ハルカは呆れた顔をして、私の手から端末を奪い取った。
 事実、誰も知らない高校生の曲、マナカ達の曲を流すという意思決定は、私の思いつきから始まっていた。そのため、轟々の非難で埋まっていたらと思うと、反応を確認する気が引けた。
 ハルカはしばらく食い入るようにして情報を集めた後、「ぼちぼちね」と呟いた。
「フィフティーってとこね」
 彼女から向けられた画面を見ると、ポジティブな反応も、ネガティブな意見もそれなりに散見された。
 私が非難一色でなかったことに胸を撫で下ろしていると、ハルカは「でも、ダメ」と言って端末の電源を切った。
「……ダメって、マイナスな意見を無くしたいってこと?」
 私の質問に、ハルカは「違う」と冷たい声で返す。
「むしろ逆。圧倒的にリアクションの総数が足りない」
「総数?」
「どんな内容でも、まずについて言及する人間を獲得しなくちゃいけない。私に代わってから、この番組を離れたリスナーも少なくないわけだし」
「でも、否定的な意見は無いに越したことはないだろ」
「あら、そうでもないわよ」
 私の後ろから、シイナが割って入った。
「少年は、『ロックンロール』がどうやって広まったか知ってる?」
「どうやってって……若者の不満が爆発したから、とか」
 シイナは黒のボールペンで私を指して「そう!」と声を上げた。
「もちろん複合的な理由があるけど、前時代的な価値観をもった大人たちへの反抗を音楽で表現しようとしたの」
「……それとさっきの話のどこに繋がりが?」
 皺の寄った私の眉間を見てか、シイナがしたり顔で説明を続ける。
「そこで、自分たちが熱中しているロックを、大人達が批判したら若者達はどうなると思う?」
「それは、火に油を注ぐような」
 ここで、シイナの言いたいことが理解行った。
「自分たちの嫌いな大人の批判が、若者たちのアイデンティティをより刺激して、むしろロックブームを後押ししたってこと」
 シイナの巧みな話の運びに感心さえした。
「だから、どんな言われ方をしたとしても、出来るだけ渦中に居続けなければいけない」
 ハルカがまとめるように頷きながら言った。
「じゃあ、もっと刺激的な方法を考える必要があるのか」
 私が返す。
「そう。だから炎上商法なんてものもある」
「あら、そんなことしようとしたら、私が蹴り飛ばすわよ」
 シイナが傷一つない黒のヒールを軽く鳴らした。
「だってさ。フクチ気を付けなよ」
 ハルカが真顔のままふざけて言った。
 
 スタジオの撤退準備を進めていると、ガチャという音がしてスタジオの扉が開いた。
 その瞬間、時が止まったかのように、部屋の空気が張り詰めた。
 スタジオに入ってきたのは、深く中折れ帽を被り、サングラスを掛けた男だった。体格は大柄であったが、右手に杖を突いていた。
 男は何も言わないまま、こちらに向かってくる。コツ、カッ、コツ、カッと、靴と杖の音が静まり返った部屋に鳴り響く。
 すると、部屋の最奥にいたハルカが、その男の前に飛び出た。
 「……何しにきたのよ」
 いつものチワワのような彼女からは聴いたことがない、冷たく、強い口調だった。
 すると、男は右手の杖をどんと床に突き立てるようにして置き、帽子を取った。その動きで僅かにずれたサングラスの隙間からは、琥珀色の光を湛えた瞳が見える。
 男は無駄な所作を一つも挟まないような動きで、ゆっくりと口を開いた。
「……ここはガキの溜まり場じゃねえ。帰れ」
 全身に纏う厳格なオーラと、何よりその低く響く声で、私はすぐに理解した。
 男は、この番組の前任パーソナリティのフルタだった。
 睨み合う二人に割って入るように、シイナが声を掛けた。
「あら、フルタくん。お体の調子はいいの?」
 フルタはその刺すような視線を、シイナの方に向けた。
「シイナ、お前か。このガキどもをスタジオに入れたのは」
「……ええ。活きがいいでしょ?」
 シイナはフルタに対しても、全く怖気づく様子はなかった。
 さらに男は、茶色い杖と眼光を私の方に向けた。
 手から汗が吹き出る。私を成す細胞達が、一斉に居直ろうとして鳥肌が立った。
「この、野郎のガキは何もんだ」
「貴方には関係ないでしょ!」
 固まることしかできない私の代わりに、ハルカが突き放して答えた。
 フルタは帽子を深く被り直した後、また杖を前に振りながら話し始めた。
「薄っぺらい語りに、眠くなるような選曲。しまいにはお友達の曲を流す? ぺイオラでもしてんのか?」
 ズバズバと血振りもしないまま連続して斬り捨てるように、鋭い言葉をはるかに直接投げる。
 シイナはそんなフルタの言葉を受け止めるようにして、肩をすくめた。
 ハルカは頰を膨らませて、歯を食いしばっている。そして私の方を一瞥した後、男の方に向かって口を開いた。
「……ほんとに帰れ!」
 しかし男は気にする様子もない。サングラスを持ち上げながら答えた。
「こんなふざけたラジオをもう一度やってみろ。その時が、この番組の終わりだ」
 トドメとばかりに男はそう告げ、杖を床に叩きつけた。
 スタジオは沈黙のまま、ただ状況が転換することを待つしかなかった。
 やがて、ドタドタと五月蠅い足音が聞こえて、扉が勢いよく開いた。
 二人目の来客は、イシイだった。
「はぁ、はぁ。やっぱりここに……」
 一通り見渡したあと、イシイは汗をぬぐうようにして頰に触れた。
 すると、フルタは私たちに背を向け、またコツコツと歩きだした。重い扉を開き、バタンと勢いよく閉める。
「ちょっと、フルタさん!」
 イシイもバツ悪そうに一礼して、そそくさとフルタの後を追って出て行った。

 あっという間に嵐は過ぎ去った。
 男の纏っていた、朽ちた木のような煙草の香りだけが漂っていて、私たちはしばらくの間、呆然とするほかなかった。
 しばらくしてから、シイナは何事もなかったように鞄に荷物をまとめた。私もそれに倣い支度を進めた。
「気にしなくていいのよ。あの人の言うことなんか」
 シイナがハルカと私に説くように声を掛けたが、ハルカにその声が届いている様子はなかった。
 彼女は扉を向いたまま、血が出そうなほど奥歯を噛み締めている。その拳が震えている。
 それから少し経って、彼女は振り返った。
 ハルカは、私の見たことがない、路傍の石のような顔をしていた。
 屈辱や憤怒、あるいは失望。私が持った戸惑いとは懸け離れた負の感情を、百六十センチメートルそこらの体いっぱいに詰めこんでいた。
「帰る」
 私が声を掛けるよりも早く、彼女はそう言って歩き出した。
「ちょっと……」
 なんとか引き留めようとする私に目もくれず、彼女は入口のドアノブを摑むと、部屋を出て行った。
 その場には、私とシイナが残された。私と目が合った後、シイナは軽く頷いてから「ごめんね」と言った。
 彼女がどんな感情を抱いているのかは全く想像できなかったが、その瞳にはどこか温かいものが宿っていた。

 ♪♪♪
 
 五月の中旬。紫陽花がその生命を膨らませる頃、昼休みの教室で、イガラシは小言を発していた。
「おい、マナカ。俺はお前が教科書を開いている瞬間を一度も目に入れてないぞ」
「いやぁ、まぁどうにかなるだろ」
 親切心から講釈を垂れるイガラシをよそに、マナカは窓の外を眺め宙でギターを弾く素振りを見せた。
「中間試験はもう来週なんだぞ……フクチも何か言ってやれ」
「イガラシもそんなに言わなくても良いだろ」
 私は言う。
「流石、フクチ!」
「ちゃんと補修は出席するだろうし」
「おい!」
 これだけの説教を受けて危機感を覚えない男の姿勢を、肝が据わっていると捉えるかただの阿呆と捉えるかは受け手に依るだろう。
 マナカがエアギターに陽気な鼻歌を乗せ始める。温かみを増した春風が、彼の手元にカントリーギターの幻を作っていた。
「ほら見ろイガラシ。マナカは余裕たっぷりだぞ」
「……もう痛い目を見ないと分からないんだろうな」
「日本には『馬鹿は死ななきゃ治らない』と言う言葉もあるぞ」
 すると、教室の引き戸が勢いよく開いて、「マナカ!」と阿呆の名を呼ぶ声がした。
 その声に教室の全員が目を向ける。そこには、ジャージを着た担任教師が顔を赤くして立っていた。
「マナカ。ちょっと職員室にこい。楽しいお話がある」
「え、俺ですか? いや大丈夫ですよ! 言葉を交わさなくても先生の言いたいことは分かりますから! イガラシ! フクチ! 助けて!」
 男は半ば引きずられる形で連行されていった。
 もはや見慣れた光景だったので、連行ショーが終わると生徒たちはそれまでにしていた行動を再開する。
「……そういえば、ラジオ局でアルバイトを始めたらしいな」
 不意のイガラシの言葉に、私は口をつぐんだ。
「……何の話だよ」
「お前、前にラジオの本滅茶苦茶読み込んでいただろう。というか、マナカから聞いた」
 あの時、あの場所であの阿呆と出会ったことが全て運の尽きであったと悟った。
「四月から何かやってると思ったらまさかラジオADとは思わなかったな。さしずめ、はがき職人でも始めたのかと」
 小馬鹿にされた気がしたので、私は沈黙を続けた。
「前も言っただろ。俺は嬉しいんだぞ。お前が何かに熱量を注いでいることが」
「そんな大層なものじゃない」
 イガラシは「そうか」と言って、持っていた緑茶を一度口に運んだ。
「ま、いいけど。お前は口足らずなところがあるからな。ちゃんと口に出して会話しないと伝わらないこともあるぞ」
 こんな聡明そうなアドバイスも私の汚れたフィルターを通れば、才色兼備の人間が言う嫌味にしか聞こえない。
 俯瞰しながら哀しい生き物だと感じた。
「お前ほど器用じゃないんだ」
 昼休みを終える鐘が虚しく響いた。

 放課後、私はいつも通り図書室で時間を潰した。
 イガラシの話によると、五月から六月にかけて大会が行われる部活動が多く、三年生達は有終の美を飾るべく情熱を注いでいるようだった。
 彼らの熱い気持ちは分からないが、早く上級生達が姿を消して伸び伸びと練習できる環境が得られることを心待ちにしている下級生達の感情は想像に容易かった。
 それから、夏の日が西の山々に沈む頃、私も帰路に着いた。
 鍵を開けて灯りのない家を進むと、食卓の上に一枚のメモ用紙を見つけた。
「友達と食べてきます。弁当を買ってきたので、勝手に食べてください」
 母親の字だった。書き置きを読むのとほぼ同時に、ガチャリという音が聞こえる。
「ただいま」
 低く抑揚のない声は父親のものだった。
 
 その日の夜、私は父親と小さな食卓を囲んだ。
 口数の多くない男二人の食卓では、リビングのテレビの音が大きく聞こえる。
 知らないゆるキャラ達のコンテストに、かつて有名だったミュージシャンの復活、どこかで誰かの拳銃が奪われたというニュース。
 そのどれもが自分におよそ関係のない話題で、脳に何も留まらず通過していく。
 対面の父親も同様のようで、テレビに目線の一つもやらずに箸を進めている。
 私は親、とりわけ父親という生き物と上手く会話のできた覚えがない。
 他の人間がそうでないのに対し、父は「私」を話題にして「私」と向き合おうとする。
 私にはそれが酷く苦痛だった。なぜか? 自分でさえその行為を避けているからだ。
 テレビがコマーシャルに入ると、父はそれを待っていたかのように口を開いた。
「そろそろ、進む大学は決めたのか?」
「……いや、まだ」
 父は「そうか」と小さく言った。
「やりたいこととかは決まっているのか?」
「いや」
 父はまた「そうか」と小さく言った。
 いつもならそれで暗いキャッチボールは終わりを迎えるが、この日は珍しくまだ球を投げ返してきた。
「お前は子供の時から、「こうしたい」というものが感じられない。たまには自分で選んで、行動することもいいものだぞ」
 なんとなく父の言葉が昼間に受けたイガラシの説法と被り、気持ち悪さを感じた。
「周りを頼るというのも一つ大きな能力だぞ」
 そう言う父の顔は少し不安そうにも見えた。自分が父親としての責務を果たすために言っているような痛ましい言葉だった。
 相手がイガラシであればいくらでも嫌味を返すことができたであろう。しかし、父親 このひと相手に私は、小さい声で「そう」と返答することが精一杯であった。
 手早く食事を済ませて自室に戻ると、名前も姿も知らない謎の虫の声色が聞こえてきた。
 私は何かに倒されるようにベッドに打っ伏した。
 すると、枕の横で近頃うるさい携帯電話が光った。
「今週の打ち合わせは、木曜日の十八時から局で集まってやります」
 そのメールと立て続けに同じ差出人から、どこかで見たような文体のメールが届いた。
 全体向けではなく、私個人宛てのメールだった。
「アス。ゴゴ五ジ。キョク一カイ。カフェニテマツ。 シイナ」

 ♪♪♪
 
 シイナに指定された木曜日の学校終わり。私の体はRAR-FM局の前にあった。
 重々しい正面の扉から二人のスーツを着た男性が出てきた。恐らくラジオ局の職員だろう。
 首に名札をぶら下げた男性達は、不思議そうな様子で私の方を一瞥した。おそらく、私の纏う制服が嫌な存在感を出していたのだろう。
 求め続けていた安寧の領地から、自身の指先が飛び出てしまった感覚があり、妙な気分になった。
 例に倣い、微塵の勇気を振り絞って守衛に自分の身元を説明し、同階にあるカフェまでたどり着いた。
 昼には賑わう店内も、夕方になると閑散とした雰囲気に変わる。このラジオ局において、悪い意味でどのみち存在が際立つ私にとっては、その方がかえって居心地が良かった。
 まだ店内にシイナの姿は見えなかったので、私は奥の方の席に座り、ジンジャーエールを頼んだ。
 小腹が空いていたので軽食も注文しようとしたが、不意に巨大なサイズのハンバーガーを食べるハルカの姿がフラッシュバックし、想像だけでえずいたので止めた。
 店内では、RAR-FMの人気番組が流れている。それを聴きながら、忌み嫌うべき厚さの英単語帳を眺めていると、入り口の方にいつもの黒いスラックスを履いたシイナの姿が見えた。
 彼女も私を見つけると、小さく手を挙げ私のいる席の方に向かってきた。
「やあ。少年」
 彼女は私の向かいの席に座ると、この店の料理のを知ってかどうか、サンドウィッチとアイスティーを注文した。
 注文が終わるとすぐに私の方に向き直し、話しかけてきた。
「どう? 私たちと三回、一緒にラジオをやってみて」
「どうって……どうなんですかね」
 戸惑う私を見て、シイナは楽しむようにふふっと笑った。
「よく頑張ってくれてると思うわよ」
「……ありがとうございます」
「お待たせしました。こちらサンドウィッチとアイスティーになります」
 店員の手にあったのは二つ切りのサンドウィッチ。例に漏れず、軽食と呼ぶのは憚られる大きさであった。
 彼女は驚いた様子など見せず、手を合わせた後「失礼」と言ってそれを豪快に口に運んだ。
 なんだか直視しているのも申し訳なくなったので、私は結露を纏うグラス越しに目を泳がせていた。
 シイナはアイスティーのグラスに手を伸ばしながら、「ところで」と続けた。
「少年はハルカについて、どう思っている?」
「え」
 思いもよらないオープンクエスチョンに私の内臓が身震いする。消化器を登ろうとするジンジャーエールを、自慢の副交感神経でなんとか抑えて答えた。
「どうって……すごいとは思います」
 シイナは先よりも勢い良く「あはは」と笑った。
「確かに私もそう思うわ」
 彼女はアイスティーを一口飲んでから、「でも」と付け足した。
「あの子もまた、君のことを買っていると思うわよ」
「多分、気のせいですよ」
 今度は、「ふふ」とニヤけて笑う。
 笑い方一つとっても、様々な表情を作ることができるのは、その人生が簡単なものではなかったことを意味しているのだと勝手に思った。

 それからシイナが担当する他の番組のことや、私とハルカの学校の話などをした。
 その間に、彼女は二つ目のサンドウィッチも塵も残さず綺麗に捕食した。
 彼女が紙ナプキンで口を拭ったとき、私は一つ質問を投げかけた。
「そういえば、ハルカとフルタさんはどういう関係なんですか?」
 かねてから気になっていた一つの謎だった。その謎は、先週末、この目で目撃した二人の対峙を受けて肥大化していた。
 問いかけに対し、シイナは珍しく「うぅん」と戸惑った様子を見せた。
「それは、あの子とあの人のことだからね」
 シイナは店のシーリングファンを見つめながら、誤魔化していった。
「それに、簡単には言い表せない関係でも、繋がってる人間はたくさんいるのよ」
「……どういうことですか?」
「ま、少年にもそのうち分かるさ」
 要領を得ない言葉に、口に運んだジンジャーエールの砂糖の甘さと生姜の辛さが強く感じた。
「あ、きたきた」
 シイナが入り口の方を向いて手を挙げたので、私も体を捻らせて其方を見た。
 そこには、不機嫌そうな顔をしたハルカがいた。
 ハルカはなんとも不服そうに私の横の席に着いた。と同時に店員を呼び、すかさずコーラとハンバーガーを注文した。
 日入の時間にもなり、夕食をとる人がまばらに席を埋めていた。
「お待たせしました。ハンバーガーとコーラです」
 ハルカが来るまでしていた話の延長線を辿っていると、が机に置かれた。
 その時、店員が注文になかったフライドポテトも置き、「サービス」と言わんばかりの目配せをした。
 ハルカはぱぁっと表情を明るくして、それらをクジラのように飲み込んでいった。
 その模様を見て、シイナは安堵を含んだ笑みを浮かべた。
「大丈夫みたいね」
「え?」
「前のことがあって、少年も心配してたみたいだし」
 彼女の嚥下えんげを見て、ハンバーガーの具材と一緒に食道を通過し、消化されかけた「心配」という言葉にハッとした。
「別に、大丈夫」
 その言葉を受けて、思わず「でしょうね」という言葉が口をいて出てしまった。
「あ?」と威圧するようにハルカがこちらを向いたので、私は反対の壁を見つめた。
 ハルカがハンバーガーを食べ終わると、シイナがホッチキスで止められた資料を三つ、机上に広げた。
「これが今週の予定ね」
 一ページ目にある全体のプログラムは、先週のものを踏襲した内容になっていた。
「まずいつも通り『ライブ・リクエスト』で、曲は……」
 シイナが淡々と説明を始めた。
 局を後にする人も多くなり、辺りがざわつき始めたが、シイナの通る声の前には些細な問題だった。
「エンディングの前に、あの少年たちの自信作を」
「あの」
 それまでポテトを口に運びながら話を聞いていたハルカが、顔を曇らせて遮った。
 カフェのテーブル上に不穏な空気が漂った。
「この方向に進んでいいのかな……」
「何が?」
 きっとその言葉の真意をのだろうが、シイナが不思議そうに聞いた。
「そのさ、先週のことだけど」
 ハルカは、明らかに言葉に詰まっていた。それでもシイナは、私にもそうしたように、彼女自身が自分の言葉を紡ぐのをじっと待っていた。
「……あの人はアレでも一応ラジオパーソナリティとしてはすごい人だし、それを無視して……」
「いいのよ」
 短く、強い言葉だった。
「貴方自身は手応えを感じているんでしょう。なら続けなさい」
 シイナは、ハルカの前にあった手頃なポテトを一つ手に取り、私達の方を指しながら続けた。
「今の『R-MIX』は貴方達の番組。なの。そして、それを認める人がいる」
 彼女はそう言うと、もう片方の手で資料をめくり、視聴者の反応をまとめたページを出した。
 決して多いとは言えない数だったが、マナカやカナタ達の曲を紹介する『SUPER SONIC』についても肯定的な文も紛れていた。
「ね? 少年」
 私は何の言葉も出せず、ただ強く、首を縦に振った。
「それに、あの人は素直じゃないだけだから」
 恐らくというのは、先週末スタジオに来ていたフルタのことを言っているのだろう。
 ハルカは少しだけ唇を噛みがら、じっとその資料を見つめ、その後「うん!」と納得したような声をあげた。
 それなりに大きな声だったため、食事をとっていた周りの人が何人か、こちらの方を向いた。
 私はまた「迷惑ですよ」と悪態をついてしまった。
「それは悪うございました」
 ハルカもまた私の方を睨み、シイナが「ふふ」と笑った。
 シイナの説明は続き、終盤に差し掛かった。
 常時は、木曜日にデータとして、土曜日の午前中には文書としてこれらの資料を渡される。
 その資料の分かりやすさに感心しながらページを捲ると、紙束の一番下に一枚、他のものとは色合いの違う、形式ばった文書が入っていた。
 何らかの契約書にも見えたが、勿論そんな専門知識など持ち合われていないので詳しい内容は分からなかった。
「これ、紛れ込んでましたよ」
 その紙を受け取ったシイナは一瞬焦った様な顔を見せたが、すぐにいつもの調子に還った。
「あ、ごめんなさい」
「何の紙?」
 ハルカが身を乗り出してそれを覗き込もうとした。
「貴方達には関係のないつまらないものよ」
 シイナは手早く荷物をまとめながら、腕を捻らせて手のひらの面につけた時計を見た。
「そんなことより、そろそろいい時間だから貴方達も帰ったら?」
 外は街頭が色をつけ始め、店内も席を立った人が残した空き皿を片付ける音が響いていた。
 シイナの見送りを受けて、私とハルカは最寄りの駅まで歩いた。
 局を出るとすぐに大通りになり、車の音の騒々しさがあり、またハルカも何かを考えている様子だったので、ほとんど会話はなかった。
 しかし、それほどまでの気まずさはなく、橙の空と灰色の塊達が、莫大な紫に食べられているのを感じながら歩いた。
 市営地下鉄の駅に着いたが、それに気づかないほどハルカは何か考え込んでいる様子だった。
 その堂々巡りはこの駅の環状線のように、半永久的に続くものにも思われた。
 そのため、私は気の利いた別れ言葉をかけるべく、「じゃあ」と口を開いた。
「明後日の放送には、ちゃんと切り替えてきてくださいね」
 全部言い終わってから、彼女はハッとして、下を向いたまま「うん」と言った。
 そうして、私は自分の乗る電車のホームに足を進めた。が、いつまでもハルカが後ろにいるのを感じた。
「……あの」
 改札前まで来たところで、振り返って聞いた。
「私、多分、貴方と乗る電車同じよ」
「え」
「……あんな恥ずかしい捨て台詞、よく言えたわね」
「逆向きの電車で帰る」
 私は言った。
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