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第一章
7.「Burn」
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土曜の午前十一時半、地下鉄駅の古い階段を上る。
世間的には休日というのに忙しそうに端末を触る、死んだ顔のサラリーマン達とすれ違う。その一人一人の背中に、黒い塊が付きまとうようにも見えた。
長い横断歩道をいくつか渡って、二日振りのラジオ局に入った。
守衛はもはや一人の子供の侵入ごときで動じなくなったのか、受け流すように改札機を上げた。
私はそそくさとエレベーターに乗り、いつもの五階まで昇る。
扉が開いてフロアに出ると、私は縁起の悪いものを見かけた。
其処に転がっていたのは、着ぐるみの生首だった。
殿様の髷が電波塔になっているところを見ると、恐らくラジオ局のキャラクターだと思われた。
余りにも気味が悪かったので、見て見ぬふりをして五〇五スタジオに向かおうとしたところで、ソレの視線が強くなるのを感じた。
呪われたくなかったので、生首を立てて邪魔にならない隅の方に置いてやった。
「どうも」
スタジオに入ると、既にバンドの五人はブースで準備に取り掛かっていた。マナカはギターとエフェクターの回しを交互に操作し、カナタはキーボードに着いた無数のボタンを慣れた手つきで触る。
ハルカもスタジオ側で台本の確認に精神を注いでいたので、私の小さな挨拶は誰にも届かず、地に落ちて消えた。
私は二畳ほどの領地に鞄を置き、「イシイマニュアル」を広げた。
そこでハルカはようやく私の存在を認知して、「よ」と声を掛けた。
「あの人はいつ来るの?」
私はハルカに尋ねた。
「さぁ、来るかどうかも知らないけど」
強がりなのか本心なのか、彼女は余裕そうな素振りを見せたが、その手元にある台本は筆圧の強い鉛筆の文字で、真っ黒になっていた。
彼女は深く息をついて、もう一度台本の海に潜っていったから、私もCDを取りに出かけた。
音源管理室前、扉の横の装置にイシイから渡されたICカードを当てる。
こんな工夫で私をここに通してしまう、ラジオ局もイシイも不用心過ぎるのではないかと感じた。
部屋に入ってから、今日のプレイリストを確認するため、台本をめくった。
ハルカによると、今日スタジオにカメダを呼び、マナカ達の演奏を聞かせ、カメダの考えを変えさせるらしい。
勿論、私はそんなご都合主義バンザイな展開が実現可能とは思えなかった。
それは、ハルカやマナカ達の、更に言えばカメダの問題でもなく、彼が「大人」であるからだ。
しゃがみ込んで古いバンドのアルバムを手に取る。
味気のないリマスター版のベストアルバムだ。
イシイによると、少し前まではカセットやレコードなんて化石も揃っていたが、こういった便利な代物が増え、お役御免になったらしい。
私は、そんな宝探しを十五分ほど行い、帰路に就いた。
五〇五スタジオに戻ると、シイナとミキサー席を取り戻したミヤモトが加わっていた。
楽隊とハルカの位置が入れ替わり、リハーサルをしていた。
演奏のためか、ハルカの机はいつもに比べ、隅の方に追いやられていた。
「少年、こんにちは」
シイナは目線をブースのハルカから逸らさないまま、私に話しかけた。
「こんにちは」
私は、挨拶が返ってこない悲しみを知っているので、丁寧に返した。
「……前は、情けない所を見せたわね」
「いえ」
前、というのは、ホウオウビールのカメダとの話し合いの場のことを差しているのだと分かった。
「……どのぐらい前から打ち切りの話はあったんですか?」
「ハルカに代わったときから少しはね……。まさかこれほど話を急に進められるとは思わなかったけど」
リハーサルが一通り終わり、ハルカはヘッドホンを外す。
シイナは台本を見つめて「うぅん」と唸った。
「大丈夫、ですかね」
私は主語を外して言った。
「……なるようになれ、ってとこよ」
シイナは諦念を含んだ笑いを見せた。
♪♪♪
十四時になり、放送は始まった。
しかし、ここにカメダ達の姿は無かった。
「……この年はオリンピックも開かれて、日本が本格的に国際社会に復帰するきっかけにもなりました!」
それでも、その日のハルカは、一層気の入った語りを聞かせていた。
「今回のオリンピックはどうなるんでしょうか! 以上、『リメンバー・タイム』でした!」
ジングルが掛かり、放送はコマーシャルに入った。
それと同時に、シイナが合図を出す。マナカ達はせかせかとブースに入っていった。
窮屈そうな小部屋で、年に何度かだけ拝むことができる神妙な顔のマナカが両手で顔をパン、と叩いて気合を入れていた。
その時、キィとスタジオの扉がゆっくり、静かに開いた。戸を開けたのはイシイで、その後ろにカメダがいた。
すぐに、コマーシャルが明け、歪んだギターのジングルが流れる。
「さぁ。次は地元の若いロックバンドを紹介する『スーパー・ソニック』のコーナーですが、今回は特別編です!」
カメダとイシイが、シイナに小さく会釈をした。
それから、カメダは落ち葉のような煙草の匂いを振りまき撒いて、ソファーに座した。
「今回はなんとスタジオで生演奏してもらいます!」
ハルカがマナカに目配せをした。
「えっと、どもっす。T区で活動している『ザ・ムーン』です」
マナカがスタンドマイクに話す。その緊張がスタジオ中に広がって、防音ガラスが震えているように見えた。
ミヤモトは集中してミキサー機に指をかける。
カメダはソファーで足を組み、表情一つ変えずにブースをじっと凝視していた。
「今日はスタジオで演奏させてもらえるってことで……」
顔を上げたマナカは、来訪者二人に気付いた様子だったが、すぐに目を逸らして一つ、大きく息をした。
「聴いてください。ディープ・パープルのカバーで、『Burn』」
メンバー達はドラムの男に目線を集める。合図の拍の後、スネアのリズムに軽快なギターリフが乗る。そこに、同じメロディーを奏でるキーボードと、リスナーを乗せるためのリズムギターとベースが合流した。
テーマが完成したところでイントロが終わり、マナカが歌い出す。ロックスターがそのまま憑依したかのような切迫した顔をして、流暢な英語で太く歌っていた。
サビの終わりになって全員がマイクに声を近づける。
「……イズバーン!」
厚くて青いコーラスは、街を覆う炎のように熱く、どこまでも広がっていた。
曲の中盤、最初の間奏でギターソロに移った。すぐさまマナカの両手が六弦の上下を飛んで動き回る。
西洋剣を振り回したように、尖った音だった。それでも、バックのリズムとメロディーがそれを支え続け、心地よいメロディーにまとまっていた。
ひとしきり暴れて歌に戻る。そして次はキーボード、カタナのソロに移った。
彼らは、音で、楽器で会話をしていた。
マナカ達も、恐らくハルカも、きっとカメダのことなんかほとんど考えてさえいなかった。
この街の一角に在るビルからアンテナを辿って、電波に乗って届いた先。このラジオを聞いている人に向けて、この音を届けることに必死だった。
――この音がもつ魅力の、どこまでがリスナーに伝わるのだろう。
私はその伝達の実現を望んでいる自分に気が付いた。
意識が戻ると、イントロと同じリフに戻ってきて、曲が終わりを迎えていた。
ドラムが最後に叩いたライトシンバルの余韻が五〇五スタジオを満たしていた。
「……ありがとうございました! 『ザ・ムーン』の皆さんで、『Burn』でした!」
ハルカが捕まえたのは、演奏の余韻が鎮まり切るちょうどの隙間。番組の進行に戻った。
そして、もう一度コマーシャルに入ると、楽隊は緊張を携えたままでブースから生還していた。
六分間に及ぶ演奏を終えた彼らは、ライブハウスで見た時と同じように汗を光らせていた。
私も我に返って端末を使い、SNSの更新作業に取り掛かる。
すると、横柄に座っていたカメダがボソっと「分かったよ」と呟いた。
「十月の番組再編まで待つよ」
男は不貞腐れた様子で頭をぼさぼさ掻いた。
イシイとシイナと、もちろん私も面を食らった顔をした。
「ど、どうしてですか」
イシイが忍び声で迫った。
「いやぁ。感動しちゃったからね」
男のわざとらしい笑顔や言葉が本心とはとても思えなかった。
「じゃあ。そういうことで!」
それだけ言って、カメダは部屋を出て行った。それに付き添うように、イシイも忙しそうに礼をして去った。
「さて、今週もお付き合いしていただきありがとうございました!」
最後のコマーシャルが明けた。ハルカが話す間、マナカ達は音を立ててはいけないと思って律儀に息を殺していた。
「それでは、来週またお会いしましょう! さようなら!」
尺の都合で、最後の曲紹介は省略されて番組が終わった。
ミヤモトがミキサー台のボタンを仰々しく押し、「はい、オッケー」と言う。
ヘッドホンを外したハルカは一目散にスタジオに戻り、カナタと手を取ってはしゃいでいた。
それから、シイナに「カメダは?」と尋ねて、説明を受けていた。その後、彼女も、なんとも腑に落ちない顔をしていたのが見えた。
バンドメンバーやスタッフが撤収作業をしている間、私はマイマイのように縮こまりながらホームページの書き込みをしていた。
すると、楽器を手にしたマナカが横に座った。
「なぁ。どうだった?」
漠然とした言葉を投げてきた。
「なんか、十月まで待ってくれるらしい」
私が端的な説明をすると、彼の顔は曇った。
「そういうことじゃなくて、フクチはどうだった? 俺らの曲」
「……お前そんなにナイーブなやつだったか」
私は茶化して返した。
「いや、お前の評価ってなんか気になるんだよな」
「良かったんじゃないか。燃えてたぞ」
素直に褒めるのは、面映ゆいので、余計な一言を加えた。
それでも、マナカはそんなことを気にせず「そうか!」と笑った。
私は、演奏をしている彼らの、一番キマっている写真をホームページに一枚載せた。
♪♪♪
日が暮れる頃、私はハルカとバンドの彼らとラジオ局横のファミリーレストランで打ち上げをした。
マナカがドリンクバーで独自の配合を行い、灰色の液体を精製していたが、他人の振りをしてやり過ごした。
その帰り道、私はハルカと二人になった。
駅までの通りでは、酒という水を得た大人達と車体の低い独逸車が騒いでいた。
喧噪の信号待ちで、ハルカが切り出した。
「アレ、どう思う?」
私が「アレって?」とわざとらしく返すと、彼女は嫌な顔をした。
「カ・メ・ダよ。どうして急にスポンサー降りるのをやめたと思う?」
「感動させたんじゃないの?」
ハルカのしかめ面は呆れ顔になった。
「本音は?」
「……なんかもっと偉い人から圧力をかけられたとか」
「誰?」
「知らないよ」
信号が青になり、さぁ通れと親切な信号の音響が鳴る。
横断歩道を渡りながら、彼女は「そういえばさ」とつぶやいた。
「来月の終わりの日曜、局のイベントあるから空けといて」
「……何でそんな強引に」
「さっき決まったから。まさか私達に枠を貰えるとは思わなかったけど」
「え、何かするのか」
私は聞いたが、彼女は「未定だけど」とだけ言った。
等間隔で客引きが並ぶ夜の街道には、もはや黒がほとんど無かった。
♪♪♪
次の木曜は、六月の群雨が学校の窓ガラスを叩いていた。
返ってきた中間テストの結果は、平常通りであった。すなわち、目を見張るような出来の文系科目と、地の底を這うような点数の理系科目で二分した。
化学の教師は答案を返しながら眉を顰め、数学を教える担任は昼休みに説法を説いた。
「良いところに行くつもりなら、努力の先を選り好みするな」
口を酸っぱくして言っていたが、目標を持たぬ人間が好きでもないことに邁進できる道理がない。
湿っぽい学校に居ても鬱気が育つばかりなので、私は足早に帰路に就いた。
「おかえり」
誤算だった。家に入ると、早上がりだった父親が暗いキッチンでコーヒーを淹れていた。
私は脱衣所でタオルを一枚取って、雨に濡らされた体を拭く。
「テスト、どうだった?」
コーヒーを香らせた父が、どこで仕入れたのか時にナイフとなり得る言葉を投げてきた。
「ぼちぼち」
「そうか」
父はカップに口を付けた。
雨足が強くなって、点けっぱなしのテレビから出る音と混ざる。
「もしアレだったら、塾とかに入ってもいいぞ」
父は言った。
私は、届けるつもりもない声量で二つ返事をして、雑音達にかき消してもらう。
「ほら、そろそろ進路とかも考えた方がいいんじゃないか。何がやりたいのか知らないけど」
父は、きっと善意で、勢いを増して話を続けた。
「部活も別にやってないなら今からでもさ」
「分かったから」
今度は、ちゃんと意思を伝えるつもりで声を発した。
父は少し驚いた様子だったが、すぐ下手な苦笑いをして、「そうか」と言った。
「いつでも、その気になったら言いなさい」
また、コーヒーを口に運んだ。
全身を拭いたタオルは、絞れそうなほど水を含んでいた。
私は、自室に入って布団に倒れた。
外の雨は、強弱の波を不規則に繰り返していた。
雨の日、私は真面目に考えるべきでないことを真面目に考えてしまうきらいがあった。その思考は、今までは自らの内で完結することがほとんどだった。漠然とした未来のことであったり、過去のことであったり、果ては死のことであったり。
しかし、ここ最近は、人との関係について思慮するために割かれているように思えた。
ラジオ番組「R-MIX」に参加して二ヶ月弱。怒涛の日々だった。
突然手首を引かれてADになって、ラジオのイロハを叩き込まれた。ラジオ局に通うようになって、音楽を流す側になった。音楽について考えて、一生縁もなかったかもしれないライブハウスに行った。そして――。
「この番組からスポンサーを降りる」
カメダがそう言ったとき、この役割から解放されるという安堵が生まれた。だが、それと同時に、私の中で確かに拒絶感も生まれていた。
気持ちの悪いマグマが膨れ上がっているのを感じて、くだらない堂々巡りを続けた。
どうやら一寸眠っていたようで、目が覚めると窓の外は暗く……それどころか、日を跨いでいるようだった。
部屋を出てダイニングに行くと、ラップの掛けられた料理が置いてあった。
両親はもう寝ているようだ。
私は、其れらを電子レンジの円盤で回しながら、携帯を触った。
シイナから今週の予定が送られていた。
先週に引き続き六十年代のロックと社会を振り返るテーマが中心だった。
また、同一のグループ上では、ラジオ局についてのイベントについて話すハルカのアイコンが見えた。
彼女は高校を出た後、どうするつもりなのだろう。彼女のことだから、恐らく明確な計画があるのだろう。
イガラシも、イシイも、マナカでさえも、きっと彼らなりの青写真を描いているのだろう。
私は今に生きることで精一杯なのに、彼らは何故そんなことができるのか。
また脳味噌が要らないことを煮詰めだしたので、飛び切りに熱い茶を飲むことにした。
暗いキッチンで、電子レンジと電気ポットの鳴き声だけが響いた。
世間的には休日というのに忙しそうに端末を触る、死んだ顔のサラリーマン達とすれ違う。その一人一人の背中に、黒い塊が付きまとうようにも見えた。
長い横断歩道をいくつか渡って、二日振りのラジオ局に入った。
守衛はもはや一人の子供の侵入ごときで動じなくなったのか、受け流すように改札機を上げた。
私はそそくさとエレベーターに乗り、いつもの五階まで昇る。
扉が開いてフロアに出ると、私は縁起の悪いものを見かけた。
其処に転がっていたのは、着ぐるみの生首だった。
殿様の髷が電波塔になっているところを見ると、恐らくラジオ局のキャラクターだと思われた。
余りにも気味が悪かったので、見て見ぬふりをして五〇五スタジオに向かおうとしたところで、ソレの視線が強くなるのを感じた。
呪われたくなかったので、生首を立てて邪魔にならない隅の方に置いてやった。
「どうも」
スタジオに入ると、既にバンドの五人はブースで準備に取り掛かっていた。マナカはギターとエフェクターの回しを交互に操作し、カナタはキーボードに着いた無数のボタンを慣れた手つきで触る。
ハルカもスタジオ側で台本の確認に精神を注いでいたので、私の小さな挨拶は誰にも届かず、地に落ちて消えた。
私は二畳ほどの領地に鞄を置き、「イシイマニュアル」を広げた。
そこでハルカはようやく私の存在を認知して、「よ」と声を掛けた。
「あの人はいつ来るの?」
私はハルカに尋ねた。
「さぁ、来るかどうかも知らないけど」
強がりなのか本心なのか、彼女は余裕そうな素振りを見せたが、その手元にある台本は筆圧の強い鉛筆の文字で、真っ黒になっていた。
彼女は深く息をついて、もう一度台本の海に潜っていったから、私もCDを取りに出かけた。
音源管理室前、扉の横の装置にイシイから渡されたICカードを当てる。
こんな工夫で私をここに通してしまう、ラジオ局もイシイも不用心過ぎるのではないかと感じた。
部屋に入ってから、今日のプレイリストを確認するため、台本をめくった。
ハルカによると、今日スタジオにカメダを呼び、マナカ達の演奏を聞かせ、カメダの考えを変えさせるらしい。
勿論、私はそんなご都合主義バンザイな展開が実現可能とは思えなかった。
それは、ハルカやマナカ達の、更に言えばカメダの問題でもなく、彼が「大人」であるからだ。
しゃがみ込んで古いバンドのアルバムを手に取る。
味気のないリマスター版のベストアルバムだ。
イシイによると、少し前まではカセットやレコードなんて化石も揃っていたが、こういった便利な代物が増え、お役御免になったらしい。
私は、そんな宝探しを十五分ほど行い、帰路に就いた。
五〇五スタジオに戻ると、シイナとミキサー席を取り戻したミヤモトが加わっていた。
楽隊とハルカの位置が入れ替わり、リハーサルをしていた。
演奏のためか、ハルカの机はいつもに比べ、隅の方に追いやられていた。
「少年、こんにちは」
シイナは目線をブースのハルカから逸らさないまま、私に話しかけた。
「こんにちは」
私は、挨拶が返ってこない悲しみを知っているので、丁寧に返した。
「……前は、情けない所を見せたわね」
「いえ」
前、というのは、ホウオウビールのカメダとの話し合いの場のことを差しているのだと分かった。
「……どのぐらい前から打ち切りの話はあったんですか?」
「ハルカに代わったときから少しはね……。まさかこれほど話を急に進められるとは思わなかったけど」
リハーサルが一通り終わり、ハルカはヘッドホンを外す。
シイナは台本を見つめて「うぅん」と唸った。
「大丈夫、ですかね」
私は主語を外して言った。
「……なるようになれ、ってとこよ」
シイナは諦念を含んだ笑いを見せた。
♪♪♪
十四時になり、放送は始まった。
しかし、ここにカメダ達の姿は無かった。
「……この年はオリンピックも開かれて、日本が本格的に国際社会に復帰するきっかけにもなりました!」
それでも、その日のハルカは、一層気の入った語りを聞かせていた。
「今回のオリンピックはどうなるんでしょうか! 以上、『リメンバー・タイム』でした!」
ジングルが掛かり、放送はコマーシャルに入った。
それと同時に、シイナが合図を出す。マナカ達はせかせかとブースに入っていった。
窮屈そうな小部屋で、年に何度かだけ拝むことができる神妙な顔のマナカが両手で顔をパン、と叩いて気合を入れていた。
その時、キィとスタジオの扉がゆっくり、静かに開いた。戸を開けたのはイシイで、その後ろにカメダがいた。
すぐに、コマーシャルが明け、歪んだギターのジングルが流れる。
「さぁ。次は地元の若いロックバンドを紹介する『スーパー・ソニック』のコーナーですが、今回は特別編です!」
カメダとイシイが、シイナに小さく会釈をした。
それから、カメダは落ち葉のような煙草の匂いを振りまき撒いて、ソファーに座した。
「今回はなんとスタジオで生演奏してもらいます!」
ハルカがマナカに目配せをした。
「えっと、どもっす。T区で活動している『ザ・ムーン』です」
マナカがスタンドマイクに話す。その緊張がスタジオ中に広がって、防音ガラスが震えているように見えた。
ミヤモトは集中してミキサー機に指をかける。
カメダはソファーで足を組み、表情一つ変えずにブースをじっと凝視していた。
「今日はスタジオで演奏させてもらえるってことで……」
顔を上げたマナカは、来訪者二人に気付いた様子だったが、すぐに目を逸らして一つ、大きく息をした。
「聴いてください。ディープ・パープルのカバーで、『Burn』」
メンバー達はドラムの男に目線を集める。合図の拍の後、スネアのリズムに軽快なギターリフが乗る。そこに、同じメロディーを奏でるキーボードと、リスナーを乗せるためのリズムギターとベースが合流した。
テーマが完成したところでイントロが終わり、マナカが歌い出す。ロックスターがそのまま憑依したかのような切迫した顔をして、流暢な英語で太く歌っていた。
サビの終わりになって全員がマイクに声を近づける。
「……イズバーン!」
厚くて青いコーラスは、街を覆う炎のように熱く、どこまでも広がっていた。
曲の中盤、最初の間奏でギターソロに移った。すぐさまマナカの両手が六弦の上下を飛んで動き回る。
西洋剣を振り回したように、尖った音だった。それでも、バックのリズムとメロディーがそれを支え続け、心地よいメロディーにまとまっていた。
ひとしきり暴れて歌に戻る。そして次はキーボード、カタナのソロに移った。
彼らは、音で、楽器で会話をしていた。
マナカ達も、恐らくハルカも、きっとカメダのことなんかほとんど考えてさえいなかった。
この街の一角に在るビルからアンテナを辿って、電波に乗って届いた先。このラジオを聞いている人に向けて、この音を届けることに必死だった。
――この音がもつ魅力の、どこまでがリスナーに伝わるのだろう。
私はその伝達の実現を望んでいる自分に気が付いた。
意識が戻ると、イントロと同じリフに戻ってきて、曲が終わりを迎えていた。
ドラムが最後に叩いたライトシンバルの余韻が五〇五スタジオを満たしていた。
「……ありがとうございました! 『ザ・ムーン』の皆さんで、『Burn』でした!」
ハルカが捕まえたのは、演奏の余韻が鎮まり切るちょうどの隙間。番組の進行に戻った。
そして、もう一度コマーシャルに入ると、楽隊は緊張を携えたままでブースから生還していた。
六分間に及ぶ演奏を終えた彼らは、ライブハウスで見た時と同じように汗を光らせていた。
私も我に返って端末を使い、SNSの更新作業に取り掛かる。
すると、横柄に座っていたカメダがボソっと「分かったよ」と呟いた。
「十月の番組再編まで待つよ」
男は不貞腐れた様子で頭をぼさぼさ掻いた。
イシイとシイナと、もちろん私も面を食らった顔をした。
「ど、どうしてですか」
イシイが忍び声で迫った。
「いやぁ。感動しちゃったからね」
男のわざとらしい笑顔や言葉が本心とはとても思えなかった。
「じゃあ。そういうことで!」
それだけ言って、カメダは部屋を出て行った。それに付き添うように、イシイも忙しそうに礼をして去った。
「さて、今週もお付き合いしていただきありがとうございました!」
最後のコマーシャルが明けた。ハルカが話す間、マナカ達は音を立ててはいけないと思って律儀に息を殺していた。
「それでは、来週またお会いしましょう! さようなら!」
尺の都合で、最後の曲紹介は省略されて番組が終わった。
ミヤモトがミキサー台のボタンを仰々しく押し、「はい、オッケー」と言う。
ヘッドホンを外したハルカは一目散にスタジオに戻り、カナタと手を取ってはしゃいでいた。
それから、シイナに「カメダは?」と尋ねて、説明を受けていた。その後、彼女も、なんとも腑に落ちない顔をしていたのが見えた。
バンドメンバーやスタッフが撤収作業をしている間、私はマイマイのように縮こまりながらホームページの書き込みをしていた。
すると、楽器を手にしたマナカが横に座った。
「なぁ。どうだった?」
漠然とした言葉を投げてきた。
「なんか、十月まで待ってくれるらしい」
私が端的な説明をすると、彼の顔は曇った。
「そういうことじゃなくて、フクチはどうだった? 俺らの曲」
「……お前そんなにナイーブなやつだったか」
私は茶化して返した。
「いや、お前の評価ってなんか気になるんだよな」
「良かったんじゃないか。燃えてたぞ」
素直に褒めるのは、面映ゆいので、余計な一言を加えた。
それでも、マナカはそんなことを気にせず「そうか!」と笑った。
私は、演奏をしている彼らの、一番キマっている写真をホームページに一枚載せた。
♪♪♪
日が暮れる頃、私はハルカとバンドの彼らとラジオ局横のファミリーレストランで打ち上げをした。
マナカがドリンクバーで独自の配合を行い、灰色の液体を精製していたが、他人の振りをしてやり過ごした。
その帰り道、私はハルカと二人になった。
駅までの通りでは、酒という水を得た大人達と車体の低い独逸車が騒いでいた。
喧噪の信号待ちで、ハルカが切り出した。
「アレ、どう思う?」
私が「アレって?」とわざとらしく返すと、彼女は嫌な顔をした。
「カ・メ・ダよ。どうして急にスポンサー降りるのをやめたと思う?」
「感動させたんじゃないの?」
ハルカのしかめ面は呆れ顔になった。
「本音は?」
「……なんかもっと偉い人から圧力をかけられたとか」
「誰?」
「知らないよ」
信号が青になり、さぁ通れと親切な信号の音響が鳴る。
横断歩道を渡りながら、彼女は「そういえばさ」とつぶやいた。
「来月の終わりの日曜、局のイベントあるから空けといて」
「……何でそんな強引に」
「さっき決まったから。まさか私達に枠を貰えるとは思わなかったけど」
「え、何かするのか」
私は聞いたが、彼女は「未定だけど」とだけ言った。
等間隔で客引きが並ぶ夜の街道には、もはや黒がほとんど無かった。
♪♪♪
次の木曜は、六月の群雨が学校の窓ガラスを叩いていた。
返ってきた中間テストの結果は、平常通りであった。すなわち、目を見張るような出来の文系科目と、地の底を這うような点数の理系科目で二分した。
化学の教師は答案を返しながら眉を顰め、数学を教える担任は昼休みに説法を説いた。
「良いところに行くつもりなら、努力の先を選り好みするな」
口を酸っぱくして言っていたが、目標を持たぬ人間が好きでもないことに邁進できる道理がない。
湿っぽい学校に居ても鬱気が育つばかりなので、私は足早に帰路に就いた。
「おかえり」
誤算だった。家に入ると、早上がりだった父親が暗いキッチンでコーヒーを淹れていた。
私は脱衣所でタオルを一枚取って、雨に濡らされた体を拭く。
「テスト、どうだった?」
コーヒーを香らせた父が、どこで仕入れたのか時にナイフとなり得る言葉を投げてきた。
「ぼちぼち」
「そうか」
父はカップに口を付けた。
雨足が強くなって、点けっぱなしのテレビから出る音と混ざる。
「もしアレだったら、塾とかに入ってもいいぞ」
父は言った。
私は、届けるつもりもない声量で二つ返事をして、雑音達にかき消してもらう。
「ほら、そろそろ進路とかも考えた方がいいんじゃないか。何がやりたいのか知らないけど」
父は、きっと善意で、勢いを増して話を続けた。
「部活も別にやってないなら今からでもさ」
「分かったから」
今度は、ちゃんと意思を伝えるつもりで声を発した。
父は少し驚いた様子だったが、すぐ下手な苦笑いをして、「そうか」と言った。
「いつでも、その気になったら言いなさい」
また、コーヒーを口に運んだ。
全身を拭いたタオルは、絞れそうなほど水を含んでいた。
私は、自室に入って布団に倒れた。
外の雨は、強弱の波を不規則に繰り返していた。
雨の日、私は真面目に考えるべきでないことを真面目に考えてしまうきらいがあった。その思考は、今までは自らの内で完結することがほとんどだった。漠然とした未来のことであったり、過去のことであったり、果ては死のことであったり。
しかし、ここ最近は、人との関係について思慮するために割かれているように思えた。
ラジオ番組「R-MIX」に参加して二ヶ月弱。怒涛の日々だった。
突然手首を引かれてADになって、ラジオのイロハを叩き込まれた。ラジオ局に通うようになって、音楽を流す側になった。音楽について考えて、一生縁もなかったかもしれないライブハウスに行った。そして――。
「この番組からスポンサーを降りる」
カメダがそう言ったとき、この役割から解放されるという安堵が生まれた。だが、それと同時に、私の中で確かに拒絶感も生まれていた。
気持ちの悪いマグマが膨れ上がっているのを感じて、くだらない堂々巡りを続けた。
どうやら一寸眠っていたようで、目が覚めると窓の外は暗く……それどころか、日を跨いでいるようだった。
部屋を出てダイニングに行くと、ラップの掛けられた料理が置いてあった。
両親はもう寝ているようだ。
私は、其れらを電子レンジの円盤で回しながら、携帯を触った。
シイナから今週の予定が送られていた。
先週に引き続き六十年代のロックと社会を振り返るテーマが中心だった。
また、同一のグループ上では、ラジオ局についてのイベントについて話すハルカのアイコンが見えた。
彼女は高校を出た後、どうするつもりなのだろう。彼女のことだから、恐らく明確な計画があるのだろう。
イガラシも、イシイも、マナカでさえも、きっと彼らなりの青写真を描いているのだろう。
私は今に生きることで精一杯なのに、彼らは何故そんなことができるのか。
また脳味噌が要らないことを煮詰めだしたので、飛び切りに熱い茶を飲むことにした。
暗いキッチンで、電子レンジと電気ポットの鳴き声だけが響いた。
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