ヘルツを彼女に合わせたら

高津すぐり

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第二章

14.「One」

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 翌日のことである。私は部屋で一人、後悔をしていた。
 自室の目前にあるのは、進まない台本の原稿と常温の麦茶。
 父のおさがりノートパソコンは暑さのせいか挙動が鈍い。不便さは前々より強く感じていたが、とうとう異常音を吐くようになった。最初は部屋にアブラゼミでも入り込んだのかと思ったが、パソコンのモニターに浮かんだ「Fan Error」の文字列がその音の正体だった。
 鳴き声をあげるようになって数日すると、いよいよ電源すら入らなくなった。正しくセミの成体のように呆気ない最期だった。
 
 手持ち無沙汰になった私は、椅子に座ったままのけ反る。銅鑼声を出して目線を下にやると、自分のリュックの中で光っているものを見つけた。それはケースに入った一枚のCDだった。真っ白な円盤にはマジックで汚い字が殴り掛かれている。見覚えがあるマナカの字だった。いつかに渡された記憶はあるが、そのまま暗いカバンの中を泳いでいたようだ。
 私は、なんとなくそれを流してみた。マナカ達の荒れた演奏と声をスピーカーに乗せると、その青さは一層光った。歌詞を聞き逃し旋律を見失っても、それでもなお聴いていたくなる引力がこの曲には在った。
 マナカは阿呆だ。しかし、見どころのある阿呆だ。私の引き出しにあるどんな言葉を持ち出しても、アイツという人間の本質を表すには足りない。でもきっと、ライブハウスに行き、あの狭い箱でアイツの叫びやストロークを聞けばそれが瞬時に伝わると思う。音楽はやはりいいものだ。
 パソコンの前の文字列と睨めっこをしていると、言葉の外にあるものの魅力を再認識するようになった。それはマナカのギターであり、イガラシの剣道であり、カナタのキーボードであり、ハルカのラジオだろう。
 羨ましい、という感情はない。
 ただ、その誰に共通して言えるのは、私が持っていないということ。そしてそれは、もうどうしようもないことだ。私は彼らに敵わないし、それを羨ましいとも思わないようにしているのだから。

 私は乱暴なギターソロの中、先週末、イガラシとマナカと喫茶店でした会話を思い出した。バイト代の使い道についての話だ。
 四月から始めたバイト代はどのぐらい入っているのか。私はふと思い立ち、携帯アプリで自分名義の預金通帳を眺めた。僅かなお年玉と定期的に書き込まれる「アールエーアール キュウヨ」と五ケタの数字。取引残高には十万といくらかの端数が記されている。
 この数字を見るたび、不思議な気持ちになった。「R-MIX」のADとして稼いで得たお金だったが、私がとてもこの額に見合うだけの働きをしているとは思えない。正直、こんな大金をもらっていいのだろうかという罪悪感に近い感情があった。だから、作家として私を起用したいというシイナの頓珍漢な提案を固辞できなかったのかもしれない。今になって俯瞰した考えがまとまってきた。

 私は灼熱地獄の中、ノートパソコンを背負って家電量販店に向かった。
 すると、修理に出すよりも買い替えることを薦められた。メーカー保証はとうのむかしに切れていたらしく、修理代は新品価格の倍近くかかるらしい。しかも、保証が切れると同時に、メーカーがサポートを打ち切ったため、初期不良も直る見込みがないとのことだ。店員は「今時、こんな骨董品みたいなパソコン使っている方はいないですよ」と冗談交じりで笑っていた。
 私は、自分の貯金と店頭に並ぶ値札の数字を何度も比較する。それは、高校生にとっては決して低いものではなかったが、アルバイト代を足場にすればなんとか手の届く金額だった。
「……では、こちらのパソコンでお間違いないでしょうか」
「はい。大丈夫です」
 七世紀、インドの数学者ブラフマグプタはゼロの定義付けをし、ゼロと他の整数との加減乗除を論じた。その後、十二世紀にフィボナッチが『算盤の書』でゼロの概念を紹介したことでヨーロッパにも伝来した。そして二十一世紀、巡り巡って遂に私の預金残高にまで辿り着いた。
 その代わりにピカピカの新型パソコンが手に入った。
 ラジオ局で働いて得た金でラジオ局での仕事のために使う道具を買う。それは滑稽でもあるように思えたが、それでも、今ここで新しいパソコンを買わないという選択肢はなかった。

 されど、筆は進まない。
 それどころか、パソコンのデータ移行が難航し二重苦を背負っていた。死に体の旧ノートパソコンに保冷剤を当て、最後の力を振り絞らせる。
 私は一向に目途の立たない緑色のグラフを視界の片隅に置きながら、携帯端末で『R-MIX』に届いたメールを眺めた。
 
 今週、私に任を放り投げられたのは「ライブ・リクエスト」だった。
 ライブ・リクエストは、先週分の放送でハルカがテーマを設定し、その趣旨に沿った楽曲を視聴者がリクエストするオープニングコーナーだ。
 私には、読み上げるメールの選別とリクエストされた曲についての情報収集が求められた。先週のテーマは「私にとっての夏ソング」だった。
 メールボックスを開くと、ざっくりしたテーマへのリクエストは五十から六十通にも及び、熱のこもった推薦文が添えられている。邦楽ではTUBEの『あー夏休み』やフジファブリックの『若者のすべて』、洋楽ではWeezerの『Island In The Sun』にJack Johnsonの『Upside Down』などがリクエストされている。もちろん、その全てを知っているわけではないが、全体的に夏らしい爽やかさを持った曲と懐かしさや寂しさを歌った曲に二分されている印象を受けた。
 その中に一曲だけ毛色の違う手紙を見つけた。メールでリクエストされた曲はU2の『One』。知っている曲だったが、とても夏というイメージは持てない。それどころか、土曜日の真昼間のラジオ番組、それも冒頭に流すような曲ではなかった。
 この曲と夏にどんな関係があるんだと、そのメールに付記されたコメントに目をやる。その文は、友好的な文体な他のメールとは違う、懺悔交じりの日記にも似た書きぶりだった。
 痛々しいほど丁寧に言葉を選んで書かれた文を暫く読み進めていくと、最後にこの曲と夏の関係が綴られていた。私は心臓を掴まれたように、その文から目が離せなくなった。
「長文失礼しました。おそらく、ハルカさんや『R-MIX』のスタッフの方もこういった趣旨のリクエストを求めているのではないことは承知しています。深夜にふと思い出して、どこかでこの気持ちを形に残したいと思ってしまったので、こうして送らせていただきました。ハルカさんに代わってからの『R-MIX』も大好きです。応援しています」
 メールの末尾はこう結われていた。優しく、弱い声が聞こえてくるような文章だった。
 私は今週分のテーマをもう一度確認する。
「私にとっての夏ソング」
 私はデータ移行の済んだ新しいパソコンを、自分の正面に置いた。

 ♪♪♪

「……これどこが夏なの?」
 木曜日、学校で会ったハルカに『One』をライブ・リクエストの曲にすると伝えた時、彼女はごもっともな反応を見せた。
「イギリスにはこういうことわざがあるらしい。『本を表紙で判断するな』」
 私は台本をハルカの前にちらつかせて見せる。
「まぁ読まないなら読まないでいいけど」
 ハルカはそれをバスケのガードのように盗んで私の書いた台本を読み始めた。
 彼女の顔色を窺う。彼女は台本に目を落としたまま動かない。その沈黙の長さと目つきから、彼女の中の迷いや逡巡を感じた。きっと彼女は、私がこのメールを初めて読んだ時と同じ気持ちでいるのだと思った。しかし、それは私にとっては期待の裏付けでもあった。
 やがて、ハルカは静かに台本を閉じた。そして、私が口を開くよりも早く言った。
「これ、番組の初っ端に読んだとして、そのあとの空気どうするつもりなの」
「さぁ」
「さぁって貴方」
「……一流ラジオパーソナリティのハルカさんならどうとでもできるんじゃないですか?」
 私が嫌みったらしく言うと、ハルカは不満げな表情を露骨に浮かべた。このごろ、彼女とはこんなやりとりしかしていない。
「でも、これを貴方が読ませたい気持ちも分かる」
 ハルカが私の台本をパタパタとなびかせながら言う。
「これ、シイナさんはなんて?」
「良いと思うけど、ちょっと電話の終着点と構成を考えないとって言ってた」
 私が答えると、彼女は睨んだとおりといった様子で首を軽く振る。
「でしょうね。ちょっとシイナさんと考えるわ。お疲れ様」
 ハルカはそう言うと、教室をコツコツと鳴らして出て行った。

 その二日後。八月の第二週の土曜日、私は放送開始前の五〇五スタジオで電話を掛けていた。
「では、この後、十五時四十分ごろに同じ番号から電話を掛けさせていただきます。よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
 電話の相手は私よりも少し年上の男性、『One』のメールの送り主だった。
 変わらない低い姿勢と丁寧な言葉遣いはメールでの文体と変わりなかった。
 アポ電話を終わらせた私は、続いて、別の番号に電話を繋げる。コーリング音が鳴る間もなく電話が取られる。
「も、もしもし……」
「すみません。『R-MIX』番組スタッフのフクチです」
「あ、あ、はい。も、もうすぐですね。よろしくお願いします」
 次の電話の相手は、マイ・プレゼンでメールを選ばれたリスナーの女性だった。
 結局、今週の放送では、番組の冒頭に置かれるライブ・リクエストと、後半に行っているマイ・プレゼンの順番を入れ替えることになった。
 そのため、こうして放送の直前にマイ・プレゼンの電話を繋いでおき、待機してもらう。
 放送を数分後に控えたスタジオでは、シイナとミヤモトがじっと時間を計っている。アクリルの先のブースでは、ハルカが台本の最終確認をしている。この景色を見るようになって、もう半年にもなる。
 唯一の変化は、彼女の持つ台本の中に私の書いた文が加えられたことだ。
 今から、私の選んだ言葉や紡いだ文が、電波に乗って街中を走る。とても受け止め切れない現実に手が震えた。シイナとハルカから放たれた白羽の矢は、私の家の壁を貫通して私の心臓にまで届こうとしている。
 それでも、幕は上がる。秒針が頂上を指す。ジングルが掛かった。
「ダブルセブンポイントセブン、アールエーアールエフエム……ホウオウビールプレゼンツ、アールミックス……」
 ハルカの肺が膨らむ。
「R-MIX!  みなさんこんにちは!  ラジオパーソナリティのハルカです!」
 彼女の明るい声が、またミキサーの前の私を震わせる。
「さて、本日は『ライブ・リクエスト』……ではなく、『マイ・プレゼン』から行きましょう!」
 ハルカは何の滞りもない運びで滑り出した。

 その後もハルカは番組をテンポ良く進行させた。
 フルタと交代した当初から堂々としていた彼女のパフォーマンスは、近頃、より落ち着きを増したように感じる。コーナー内のリスナーとの対話一つをとっても変化があった。持ち前の意気軒昂の勢いで相手を引っ張っていく会話の手法は影を潜め、今は相手のテンションや声色、呼吸に合わせて言葉のパスを渡すようになっていた。そして、時間内でほどよい落としどころを探り、ゴールまで運んでいく。その様は、さながらマンU時代のロナウドとルーニーのようだった。
 そして、その変化はリスナーにも伝わっているようだった。ハルカのキャラクターと話術に心酔するような感想も増えている。彼女を語るのにもう前任者を持ち出す人間もほとんどいない。
 この変化を一言で表すのなら「風格」だと思う。毎週の放送や局のイベントに全力でぶつかっていく過程で。彼女は何周りも大きくなっていた。そこにはフルタの面影すらも重なって見えた。
「……それでは、CMの後、ライブリクエストです!」
「フクチ君」
「はい」
 シイナから合図を受けるのとほぼ同時に私は電話を掛けた。
「もしもし、『R-MIX』のフクチです」
「もしもし……あ、そろそろ出番ですね。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
『One』の彼は、落ち着いていた。
 シイナとハルカは私の方を見て、オーケーという目配せをした。
 コマーシャルが開ける。コーナー用のジングルが流れる。
「今週のライブリクエスト、テーマは『私にとっての夏ソング』です! 今回選ばれたのは、ラジオネーム『サレンダー』さんのリクエスト。では、さっそく電話を繋いでみましょう。もしもし!」
「もしもし。サレンダーです」
 電話の彼は、先ほどと同じトーンで話す。
「こんにちは! ではさっそく、サレンダーさんにとっての夏ソングを教えてください」
「はい。私の夏ソングはU2の『One』です」
 その答えに、ハルカが少しだけ反応する素振りを見せる。
「なるほど。U2の代表曲の一つですけど、あんまり私には夏っていうイメージはないですね」
「えぇ。私以外は、そうだと思います」
 彼は、聞かれて当然だという風に答える。
「でも、この曲は私にとってとても大事な曲で、夏になると決まってよく聞くんです」
「何かこの曲に纏わるエピソードがあるんでしょうか?」
「……そうですね。少し長くなるんですけど、大丈夫ですか?」
「はい。時間制限越えたら番組終わりますけど、気にしないでください!」
 茶化すようにハルカが返すと、彼はふふっと弱く笑う。間を持たせるためにハルカが
「冗談です。どうぞ!」
 彼が「はい」と気を取り直すと、ハルカの顔は真面目なものに戻る。私の横にいるシイナもより険しい顔になる。
 きっと、ここであの話になるからだ。
「……実は、私は男なんですけど、恋愛対象も男の人なんです」
 私の読んだ、私の選んだメール通りの話になった。
 サレンダーは淡々とした様子で続ける。
「気づいたのは中学ぐらいの頃なんですけど、親が結構厳しい家だったので、そういう相談もできなくて」
「はい」
 エピソードの内容についてはハルカも承知済みなので、茶化さずそれでいて深刻な空気にもならないように、絶妙な抑揚で相槌を打っている。
「ただ、専門学校に通っているときに、恋人ができて」
「それは同性の方だったんですか?」
「ええ、そうです」
「なるほど」
「それで、ちょうど五年前の夏だったんですけど、その人が音楽好きだったのでU2を薦めてきて、この曲にも行きついたんです」
「『One』ですね」
「はい。最初はただボノの歌声っていいなって思っていたんですけど、歌詞について調べてみたら、この曲の解釈の一つとして『父親とエイズになった同性愛者の息子の話』という見方があったんです」
「はぁ。なるほど」
「それがなんだか、私の中でスッと腑に落ちる読み方だったんです」
「そうなんですね」
「ええ。で、感化されて行動しなきゃと思って、私は父にゲイであることを告白したんです」
「頑張って伝えたんですね」
 ハルカの相槌のトーンが段々と落ちてくる。それに合わせて、ミヤモトも流れているBGMの音量を少し絞っていく。
「でも、うまくいかなかったんです」
 彼は、少し笑ったような声で打ち明けた。それは、諦めというよりも、何かを懐かしんでいるように見えた。そして、次の言葉を出そうとしないサレンダーを察してか、ハルカが口を開く。
「あまり、理解してもらえなかったんですかね」
「……そうですね。結局私もそのあと家を出てしまって、もうずっと疎遠なんですけど」
 彼の声は少しだけうわずって聞こえる。
「そんな苦い思い出があるから、サレンダーさんにとってこの曲こそが夏なんですね」
「はい」
 ハルカは同情も揶揄いもせず、まとめに入る。このまま曲に行くと思ったのか、ミヤモトがミキサーに触れる。
「サレンダーさん」
 彼女は、一転して勇壮とした声で彼の名前を呼んだ。
「はい」
「貴方の告白が良い選択だったかどうかは、私には分かりません。私は貴方よりもずっと人生経験は浅いですし、あまり親とも上手に付き合えてはいないので」
「……はい」
「でも、ボノはきっとそれで良いというはずですよ」
「え」
「ボノはケネリーという詩人を引用してこう言ってました。『目を背けたくなる真実と向き合え』と。真っ向から自分やお父さんと向き合った貴方を否定することは、誰にもできないはずです」
 サレンダーが息を呑む。
「もし、気が向いたときにでも、家族の方に電話をしてはいかがでしょうか。きっと、お父さんも夏が来るたびに貴方を想っていますよ」
 電話が繫がっているのに、誰も喋らない時間が数瞬あった。それは、私にとってはとても長く感じたし、きっとハルカやシイナは私よりもそう感じていたはずだ。しかし、間違いなく大きな意味のある沈黙だった。
「……ありがとうございます」
 感極まった様子で、彼は言った。
「こちらこそ、ありがとうございました。それでは、サレンダーさんのリクエストで、U2の『One』」
 U2のギター、エッジの優しい旋律が、感情の入り口を開くようにして響き出した。
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