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わたしが学生の頃、猛烈にある乙女ゲームにハマっていた時期があった。
 当時、学校から帰宅して勉強は二の次でやることといえば、乙女ゲーム『精霊乙女と九人の聖騎士』をプレイすることで、平日は元より休日には寝食を忘れてのめり込み、テスト期間中にこっそり遊んでいたのを親に見つかってこっぴどく怒られるなんてこともあった程だ。
 今では当時の自分を若気の至りとはいえ、随分とまあトチ狂っていたものだと思い出すたびに呆れてしまっている。
 それでも、多数のイケメンキャラが登場しヒロインと甘く切ない恋模様を繰り広げるストーリーや、戦略性の高い戦闘パート、重厚で泣けるストーリーは完成度が高く、発売から十数年経つ現在も傑作と名高い神乙女ゲー『精霊乙女と九人の聖騎士』を夢中になってプレイしていた頃はとても楽しかったのだ。
 ヒロインと攻略対象のイケメンたちの甘酸っぱい恋愛イベントにニヤニヤしながら、恋愛イベントスチル回収に余念がなかった。
 シビアなイベントフラグ管理や膨大なイベント量、分岐ルートの多さ、果てはセリフ差分などやりこみ要素が半端なく、フラグを建てるのをミスって何度叫び声を上げたことか。
 それというのも、ゲームプレイのお供だった公式攻略本に重大な誤植があり、そのおかげで何周も周回プレイを強いられていたのだ。
 今では数々の失敗もいい思い出ではあるけれど、当時は怒りが収まらずよくコントローラーを床に叩きつけていたっけ。
 公式攻略本という大きな落とし穴で攻略対象キャラのフラグ管理をうっかりミスしてしまうと、ヒロインは攻略対象のイケメンキャラから有無を言わさずフラれてしまう。
 休日のデートタイムで選択肢を一つでも間違おうものなら強制的にデート終了する仕様といい、相当シビアな難易度のゲームだったなと思う。
 で、イケメンキャラに塩対応されたヒロインはしょんぼりして数日行動不能になってしまう訳なのだが、ヒロインの心情を知ってか知らずか、絶妙なタイミングにあるキャラクターがヒロインに再起を促すため発破をかけに来るのだ。

『おーほっほっほっ!いつまでそんな辛気くさい顔をしているつもりかしら?底抜けに明るいだけが取り柄の貴女がその様では精霊乙女の名が泣くのではなくって?』

ヒロインがプレイヤーの選択ミスで落ち込むたびに現れるお助けキャラ……
もとい、ヒロインのライバルキャラ『悪役令嬢アナスタシア』が。
 
今日も彼女の蜜色《ハニースイート》の長い髪は縦ロールに巻かれ、意志の強そうなヒヤシンスブルーの切れ長の瞳でじっとヒロインを見据えている。
 蜂のようにくびれた腰、レースで覆われた谷間からこぼれ落ちそうな豊満な胸、最高級のシルクタフタの生地をふんだんに使ったルージュ・アルダンのドレスをなびかせて、彼女は今日も颯爽と現れるのだ。
毎度おなじみの登場シーンを尻目に、ヒロインはアナスタシアを親しみを込めて「アニアちゃん」と愛称で呼んでいるが、アナスタシア自身は「気安く呼ばないで下さる!?」なんて若干照れながら反論している。
 そもそも悪役令嬢アナスタシアはヒロインの恋路とゲームの進行を妨害する厄介な敵キャラのはずが、落ち込むヒロインを毎回どこからともなく現れては彼女なりの檄を飛ばし、帰り際には「別に貴女のことが心配で様子を見に来たわけではありませんことよ!くれぐれも勘違いしないでくださる!?」と言って捨て台詞を吐いて去って行くという、絵に描いたようなツンデレキャラな一面があるのだ。
 『悪役令嬢アナスタシア』――またの名を悪の美姫。
 彼女はヒロインのライバルキャラにも関わらず、ヒロインのサポート役も兼ね、おまけにツンデレキャラの萌え要素もあるという属性の過積載にも程があるキャラクターである。
 そんな訳で、アナスタシアはライバルキャラだというのにゲームの公式人気投票で常に上位をキープする程の人気キャラだったりするのだ。
 キャラクター単体の人気もさることながら、ヒロインとの百合カップリングがゲームファンの間で根強い人気を誇っているなど、乙女ゲー界隈でも異色の存在感を放つキャラといえる。

「……さま、…て、ます……か?」

 わたしはこの『悪役令嬢アナスタシア』が大のお気に入りで、アナスタシア関連の公式グッズが発売されれば即買い集め、念願のキャラクターソングの発売が発表された時は、嬉し過ぎて膝から崩れ落ちた程である。
 ファンが待ち望んだアナスタシアのキャラクターソングは、ファンの贔屓目から見ても素晴らしいとしか言い様がない出来で、アナスタシア役の担当声優が曲の収録中に感極まって泣いてしまったという逸話が語り草となっている。
 キャラクターの心情を見事に昇華した歌詞、担当声優の美しい歌声と壮大な曲は聴く者を魅了する名盤中の名盤であり、今もわたしがカラオケの十八番で歌う定番曲である。

「……アナスタシア様。お一人でブツブツとなにを話していらっしゃるのですか?」
「はい!世界観とキャラ説明終了!本編入りまーす!!」

 壁に向かって推しキャラの素晴らしさをオタク特有の早口&マシンガントークで語りまくる――――控えめに言って、いや、かなり気まずい状況を目撃されてしまい、取り繕うように両手をパンパンと叩きながら、『わたし』はこちらへ横やりを入れてきた闖入者と急いで向き直った。
 
 彼は悪役令嬢アナスタシアの執事兼世話係役を務める、通称万能執事ヨアヒムだ。
 アナスタシアの腹心にして補佐役であり、常にアナスタシアの傍で影のように付き従う存在。
 彼には謎が多く、ゲーム中は元より公式設定資料にさえ詳しいキャラクターの背景や情報が記載されていない。 
 やや青みがかかった長いアッシュグレイの髪を後ろで束ね、漆黒の執事服を優雅に着こなした端正な美丈夫の彼は、その抜群のルックスからファンの間でよくゲームの隠し攻略対象キャラなのでないかと議論されているキャラクターだ。
 だが、ゲームの続編であるファンディスクにも彼が攻略対象に解禁されることはなく、ゲームの発売から十数年経つ現在も謎が多い存在と語られている。
 噂によるとゲーム内の没データにヨアヒムの攻略データがあるという話だが、真偽は定かではない。
 そんな彼が、青玉色サファイアブルーの切れ長の瞳を怪訝そうに細め、こちらを見つめてくる。 

「……コホン。ただの、ただの!独り言ですわ。それよりヨアヒム、メリーナはどうでしたの?なにか変わった動きはなくて?」
「メリーナ様は現在、聖騎士の一人バルトロメオ様と森の湖で逢い引き中のようです。お二人とも親しげな様子で森の奥の滝のある方角に向かって行きましたが」
「ハア!?それならもっと早くに報告しなさいよ!早く二人を追いかけないと……!」
「では……アナスタシア様、私につかまって下さい。お二人のいる森の湖まですぐ向かいましょう」

 一刻も早く二人を追わなければと両腕を彼の腰に回し、身体を密着させると、一瞬ヨアヒムが息をのんだ気配がした。
 数秒の間の後、こちらには聞き取れない言葉(この世界でいう転移の術らしい)を呟くと、視界がぐにゃりと歪み、次の瞬間わたしたちは目的地の森の湖へと立っていたのだった。


 ——もう察しがついていると思うが、『わたし』は乙女ゲーム「精霊乙女と九人の聖騎士」に登場する悪役令嬢アナスタシアに転生してしまった、しがない乙女ゲームユーザーだ。
 アナスタシアに転生する前の『わたし』は仕事に忙殺される零細企業に勤める会社員で、当時は残業続きの毎日や人間関係に相当疲れていたのを覚えている。
 あの日は深夜に仕事から帰宅して、普段は呑まない酒を無理矢理呑んでから風呂に入ったところで記憶が途切れているから、多分あれが異世界転生へのきっかけだったのだろう。
 この状況はいわゆる異世界転生――ネット小説ではもはや定番と化したジャンルで、その世界では乙女ゲームのヒロインや悪役令嬢に転生する筋書きはテンプレと呼ばれているらしい。
 とはいえ、まさか自分が推しキャラであるアナスタシアに転生するとは夢にも思わないから転生した当初はずいぶん混乱したし、頭の中がパニックでなかなか状況を理解出来ずにいた。
 だが、異世界転生した現実を受け入れるためなのか、脳裏に“あるはずのない記憶”が有無を言わさずにどっと流れ混んできたことで、わたしは一気に自分の置かれている状況を理解し、把握することが出来たのだった。
“あるはずのない記憶”―――
 それは、悪役令嬢アナスタシア……彼女自身の記憶だ。
 一瞬でアナスタシア本人の記憶が脳裏に流れてきたおかげで、わたしはこのゲーム内世界に即順応することが出来た。
 なにより、ゲームの推しキャラであるアナスタシアの思考を共有したことで、いままで分からなかった彼女の心の内を知ることが出来た。これが一番の収穫だったといえよう。
 公式設定資料集にもはっきりと書かれていなかった彼女のゲーム内での目的、それはヒロインであるメリーナ(愛称メリーちゃん)に近づく悪い虫たちを排除すること――――だった。
 もうはっきり言うと、アナスタシアはメリーちゃんのことが大大大好きで、メリーちゃんを妨害するのも他の男とイチャつくのが気にくわないとか癪に障るとかそんな理由からだ。
 これがネット掲示板で公になったなら、公式で百合設定推しかよ!?と炎上モノな案件だが、元からアナスタシア×メリーナ推しのオタクだったわたしは、公式との解釈一致と大手をあげて狂喜乱舞したのだった。
 ……あの時はヨアヒムの冷たい視線が背中に突き刺さってくるのを察知してから、急いでオホホホと取り繕うのが精一杯だった。
 アナスタシアの本心を知ってから、わたしはゲームのヒロインであるメリーちゃんが攻略対象たちと恋愛イベントが発生するたび邪魔をしに奔走した。
 推しの望みはプレイヤーの望み、アナスタシアに転生したからには彼女の望む未来を叶えてあげたい。
 推しキャラが大勝利するルートに導きたい。
 そんなささやかな願いだったのに、背後から注がれる仄暗い視線に全く気づかないわたしは、後にこれがとんでもない事態になるとは夢にも思わなかった――。





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