悪役令嬢アナスタシア~腹黒執事は悪の美姫に恋い焦がれる~

月見月まい

文字の大きさ
3 / 3

しおりを挟む
 夕暮れの薄闇がインク壺から垂らした一滴のようにじわりと滲み、空を次第に黒く染め上げていく。
 ヨアヒムの仕打ちに、彼への怒りをぶつけるように平手打ちをしたアナスタシアは、涙を浮かべたまま逃げるようにやしきに戻っていた。
 彼女の居室には悪役令嬢の名に違わぬ豪奢な家具や調度品が備え付けられ、豪華絢爛を絵に描いたような一室だ。
 いつもならアナスタシアはこの時間、邸の外にあるテラスで高笑いを響かせながら優雅にアフタヌーンティーを堪能しているはずなのだが、今日はしんと静まりかえっている。
 それもそのはず、部屋の主であるアナスタシアは自室に入るなり無造作にドレスを脱ぎ捨て、綺麗にセットしていた髪も乱暴に下ろしてしまっていたのだった。
 完璧主義者で慣例やしきたりを重んじる普段の彼女からは考えられないような行動だが、今のアナスタシアの頭にはもはやいつも心がけている淑女の作法などは、とうに消え去っていた。
 ベッドにシュミーズ一枚だけの姿で潜り込み、絹の掛布を頭から被った所謂ひきこもりの状態になってしまっている。
 アナスタシア本人がこの姿を見たら、「なんてはしたないのかしら!淑女の慎みの一切を放棄してこの有様…?獣にも劣る愚物ですわね」と、鼻で笑いながら一蹴していることだろう。 
 しかし、今のアナスタシアには普段のようにノリノリで辛辣に毒舌を吐く気力などなかった。
 光のない虚ろな目を瞬かせながら、胸にかき抱いた人形を強く抱き締めるばかりだ。
 彼女が胸に抱く人形。年代物なのか、あちこちに修繕の後があるその少女の姿をした人形は、アナスタシアの思い人、メリーナを模したものだ。
 アナスタシアがまだ幼い頃、ヨアヒムに作ってもらったもので、いつも大好きなメリーナを側で感じられると、肌身離さず大事にしていたのだった。
 ――森の湖でヨアヒムから受けた淫らな行為。
 それだけでも屈辱的なのに、彼の手で惨めに快楽を感じ、あまつさえ絶頂させられるなんて。
 それも、メリーナがいる前で、だ。
 幸い木々に囲まれた立地や、川のせせらぎで二人の痴態がバレることはなかったが、たとえ気付かれていないとしても、アナスタシアにとっては針のむしろという他なかった。

「メリーナ…許して…。わたくしを許して…」

 目尻に涙を浮かべながらアナスタシアが悔恨に震えていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。

「アナスタシア様……失礼します」
「ッ……!?」
 
 急なヨアヒムの出現にビクリと身体をこわばらせながら、アナスタシアはベッドの中で身動ぎする。
 さっき彼の無礼な振る舞いに怒って平手打ちをしてそのまま黙って帰ってきたが、まさか彼がこんなに早く帰ってくるとは思わなかったからだ。

「アナスタシア様、お茶の用意が出来ましたのでテラスへどうぞ。今日はいつもより遅いアフタヌーンティーになりますが、どうかご容赦下さいませ」

 ――いつものように、ヨアヒムは主のために午後のアフタヌーンティーの用意が出来たと報告しに来たようだ。
 いつもとなんら変わらない、テキパキと手際よく仕事をこなすヨアヒム。
 彼の声色からは感情の動きは読み取れず、つい先ほど森の湖でアナスタシアに対して酷い仕打ちをした男とは到底思えなかった。
 彼の平静ぶりから、あれはまさか自身の見た白昼夢だったのではないかと思えてくるほどだ。
 だが、あれは決して白昼夢などではない。白昼夢ならば、この暗澹たる気持ちにどう説明がつくというのか。

「……今日はやめておくわ。下げて頂戴」

 掛布を頭から被ったまま、アナスタシアが素っ気なく言い放つ。
 彼に森の湖での件について、あれは一体どういうつもりなのかと詰め寄りたい気持ちはあるが、今はヨアヒムと直接会って話したいという気力など、アナスタシアには残っていなかった。
 体調がよくないからもう休むと伝え、ヨアヒムに退室するよう命じた。
 だが、待てど待て一向に彼が部屋から出て行く気配はなく、主の指示を無視して沈黙を貫くヨアヒムに、アナスタシアは次第に気味の悪さを感じ、再度退出を命じようとした時だった。

「貴女様は私に出て行けと…そう、仰るのですか?」

 冷たく感情のない彼の吐き捨てるような呟きに、またもやアナスタシアは掛布の中で身を縮めてしまう。
 それはまるで獣が低く唸るような、黄泉の底から響いてくるような恐ろしげな声音だったからだ。
 ヨアヒムの様子がおかしい。
 本能的に身の危険を察知したアナスタシアが咄嗟にベッドから這い出ようとするが、遅かった。
 アナスタシアの動きを読んでいたのか、ヨアヒムがすぐに間合いを詰めてきたかと思うと、あっと言う間に被っていた掛布を剥ぎ取られてしまったのだ。
 二人の攻防に決着が付き、アナスタシアが呆然としながら大きく目を見開いている様を、ヨアヒムがじっと見据えている。
 この時アナスタシアはヨアヒムの行動に驚いて忘れていたが、今彼女はシュミーズ一枚だけ着ただけの、恐ろしく無防備な姿なのだった。
 ベッドにうつ伏せになった彼女の全身に、男の焼け付くような視線が注がれていることなど、アナスタシアは知るよしもなかった。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

悪役令嬢が美形すぎるせいで話が進まない

陽炎氷柱
恋愛
「傾国の美女になってしまったんだが」 デブス系悪役令嬢に生まれた私は、とにかく美しい悪の華になろうとがんばった。賢くて美しい令嬢なら、だとえ断罪されてもまだ未来がある。 そう思って、前世の知識を活用してダイエットに励んだのだが。 いつの間にかパトロンが大量発生していた。 ところでヒロインさん、そんなにハンカチを強く嚙んだら歯並びが悪くなりますよ?

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

処理中です...