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「どこか具合が悪いのですか?」
背後から声をかけられ、ハッとしたマデリーヌが振り向くと、三角帽を目深に被った長身の男が目の前に立っていた。
目元を黒い仮面で覆っていて表情は分からないが、そっと気遣うような眼差しを注がれ、マデリーヌは潤んだ瞳で男を見上げる。
舞踏会に招待された客の一人だろうか。たしか今日は仮面を着ける催しではなかったはずだが――。
「不躾に声をかけたこと、お詫びします。ですが、ひどく取り乱した様子の貴方を放っておけなかったのです」
「そんな、こちらこそ見ず知らずの方に心配させてしまって申し訳ありません。私ったらなんて恥ずかしい……」
「貴女のような美しい方が涙を流すなど罪深いことです。たとえ神が許そうと私が許しはしない」
「えっ?」
男の思いもよらぬ言葉にどきりとする。
通りすがりの、それも初めて会ったばかりだというのに、男にじっと見つめられ、マデリーヌは胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
仮面から覗く深い海の底を思わせる二つの青い瞳がマデリーヌを捉えて放さない。
(まるで宝石のような神秘的な輝き……。この瞳に見つめられていると全てを見透かされているよう。けれど、目を逸らすことなんて出来ない。心まで捉えられているようだわ)
男の謎めいた光を放つ瞳に吸い寄せられ、マデリーヌは惚けたように男に見とれてしまっていた。
「……貴女はここでとても思い詰めた表情で泣いていました。なにか悩み事があるのですか?」
男の羽織るマントにすっぽり包まれ、ぼーっとしていたマデリーヌだったが、彼の何気ない一言で現実に引き戻される。
「私の悩み事なんてたいしたものではありません。それであの・・・なぜ見ず知らずの、こんなにみすぼらしい身なりの私に優しくしてくださるのですか?それに私はあなたがおっしゃるような美しい容姿ではないのに」
マデリーヌの言葉を聞くと男はフフ、と口元に甘い微笑を浮かべる。
「ご冗談を。ご自身の美しさに気づいていないのですね。貴女はたとえるならそう・・・野に咲く可憐な花でしょうか。慎ましやかであり、愛らしくいじらしい」
「そんな・・・んんっ・・・」
低く抑揚のついた穏やかな声で語りかけられ、そのあまりにも官能的な響きに身を震わせてしまう。
それと同時に身体の奥から経験したことのない甘い疼きがじわりと込み上げ、その妙な感覚に驚いたマデリーヌは思わず目を瞑り、唇を噛みしめる。
「純な方だ。そんな初々しい反応をされたら男はみな貴女の虜になってしまう。――この世のどんな大罪よりも罪深く可愛い人……」
マデリーヌの無意識の媚態に男の口角がつり上がり、白い歯が剥き出しになる。
鋭く尖った犬歯がキラリと光り、そのどこか禍々しい光景にマデリーヌは心がざわめき波立つのを感じた。
もしかしたら――この人は危険な人物なのかもしれない。
しかし危険だと頭では分かっているのに、どうしてもこの男から目が離せない。
優雅な笑みを浮かべる艶やかな唇ひとつにさえ、思わず喉が鳴ってしまう。
男の挙動一つ一つに、マデリーヌは胸騒ぎに似たときめきを感じてしまっているのだ。
なにより初対面の相手にこれほど心を動かされ嫌でも男というものを意識してしまう自分のはしたなさに愕然としてしまう。
自分は親に決められた結婚相手がいる身だというのに……。
「可愛い人・・・貴女の虜にされた哀れな道化に、どうか慈悲を」
葛藤するマデリーヌをよそに男は低く呟くと、するりと自然な動作で腰を抱き、もう片方の手でそっとおとがいを持ち上げる。
「あっ……!」
微かな抵抗の声を上げるも、唇を塞がれてすぐにかき消えてしまう。
初めて触れる異性の唇の感触に心臓が早鐘のように鳴り響き、緊張と不安からか軽い目眩に襲われる。
「接吻は初めてですか?フフ、貴女はどこまで私を魅了すれば気が済むのか……」
からかうような口調ではあるが、その目には隠しようもない欲望の火が灯り、触れるだけの優しいキスから一転して荒々しいものに変化していった。
「んんっ・・・ふぅっ!?」
湿った唇の生々しい感触や男の体温が直に伝わることに戸惑っていたマデリーヌだったが、ふいに唇を割ってぬめりを帯びた舌が差し込まれ、あまりの衝撃に身体が強張ってしまう。
男の舌先が口内を這い回り、思考を乱していく。
性的体験に乏しく経験のないマデリーヌにとって、この強烈すぎる嵐のような接吻は当初果てしのない苦悶の体験でしかなかった。
だが、男の腕の中でなすがままに身を委ねているうちに嫌悪感は次第に薄れ、先ほど感じた蕩けるような甘い陶酔感に満たされていくのを感じていた。
このままどうにかなってしまいそうな艶めかしい感覚に気が遠くなり、泣き出してしまうのではないかとさえ思えてくる。
「――貴女は男を堕落させる術を、乙女の身でもうすでに熟知しているのですね」
身震いするマデリーヌの耳元で男が囁きかける。
「この蜜のように甘く甘美な唇に一度でも触れたなら、どれほどの代償を払ってでも貴女をもっと深く欲してしまうでしょう……。たとえそれが、我が身を滅ぼす運命であろうとも――」
男の情熱的な言葉にマデリーヌは胸を突かれ、息の飲む。
大抵の女ならばこのまま身を焦がすような一晩の行きずりの恋にのめり込み、恥も外聞もなく身も心も明け渡してしまっていたことだろう。
だが、親の決めた婚約者がいるマデリーヌがそんな危ない橋を渡る事など出来るはずがない。
ここで一時の快楽に押し流されれば家名に泥を塗るばかりか淫蕩な娘と烙印を押され、あとに残るのは一生の後悔と破滅だけなのだから。
己を待ち受ける危険の大きさに青ざめながらマデリーヌはそっと男から身を引くと、出来るだけ冷めた口調で別れの挨拶を切り出そうと努めた。
「私のようなつまらぬ身をひとときの間慰めていただき、まこと感謝に耐えません。どうかまたいつかご縁がありますように」
思っていたより突き放すような物言いをしてしまった――そう思った時にはすでにマデリーヌは男の腕に抱き取られてしまっていた。
「なぜそのようなつれない態度で私を翻弄するのです。こんなにも貴女に惹かれ、身も心も捧げるのも惜しくないというのに」
「だからです……!」
男が哀しげに訴えるも、マデリーヌは突き放すようにすげなく言い放つ。
「私は婚約者のある身。一時の気の迷いに流され貴方と関係を持てば醜聞となり、たちまち家名や婚約者方に悪評が流れてしまいます。今は大事な時期、節度を持たなければならないのです。ですから――」
「今だけは」
己を納得させようとするように言いつのるマデリーヌを、男の真摯な声音が遮った。
「貴女をこの胸に抱くことをお許し下さい。この短い逢瀬を、貴女と触れ合えたこの一夜を永遠に記憶に留めておきたいのです。どうか――」
それ以上、マデリーヌは止めなかった。
男が名残惜しむのと同様に――それ以上に、この名も知れぬ仮面の男に惹かれてしまっていたからだ。
資産のない没落貴族の娘として今まで誰からも見向きもされなかった自分に、こんなにも情熱的な言葉を投げかけてくれた男などいなかった。
おそらく、これから先の人生でも。
この先愛の芽生えることのない政略結婚を強いられ、少女時代に夢見た甘い恋の味を知ることなく囚人のようにただただ夫に順々な妻であるとこを求められ、過ごさなければならないだろう。
ならば、今だけでもこの甘く幸福な夢に浸っていよう。
月はすでに傾き、夜も更けようとしていた。
傍らで迸る噴水の水がひときわ高く跳ね上がり、飛び散った飛沫がキラキラと瞬き幻想的な風景が広がっている。
この美しい夜が永遠に続けばいいのに――。
いたわるように優しく頭を撫でてくれる男の胸にうっとりと頬を寄せながら、深い安らぎを感じていた。
「貴女が愛おしい・・・」
男の低く深みのある囁く声を聞きながら、短い逢瀬の終わりを迎えようとしていた。
背後から声をかけられ、ハッとしたマデリーヌが振り向くと、三角帽を目深に被った長身の男が目の前に立っていた。
目元を黒い仮面で覆っていて表情は分からないが、そっと気遣うような眼差しを注がれ、マデリーヌは潤んだ瞳で男を見上げる。
舞踏会に招待された客の一人だろうか。たしか今日は仮面を着ける催しではなかったはずだが――。
「不躾に声をかけたこと、お詫びします。ですが、ひどく取り乱した様子の貴方を放っておけなかったのです」
「そんな、こちらこそ見ず知らずの方に心配させてしまって申し訳ありません。私ったらなんて恥ずかしい……」
「貴女のような美しい方が涙を流すなど罪深いことです。たとえ神が許そうと私が許しはしない」
「えっ?」
男の思いもよらぬ言葉にどきりとする。
通りすがりの、それも初めて会ったばかりだというのに、男にじっと見つめられ、マデリーヌは胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。
仮面から覗く深い海の底を思わせる二つの青い瞳がマデリーヌを捉えて放さない。
(まるで宝石のような神秘的な輝き……。この瞳に見つめられていると全てを見透かされているよう。けれど、目を逸らすことなんて出来ない。心まで捉えられているようだわ)
男の謎めいた光を放つ瞳に吸い寄せられ、マデリーヌは惚けたように男に見とれてしまっていた。
「……貴女はここでとても思い詰めた表情で泣いていました。なにか悩み事があるのですか?」
男の羽織るマントにすっぽり包まれ、ぼーっとしていたマデリーヌだったが、彼の何気ない一言で現実に引き戻される。
「私の悩み事なんてたいしたものではありません。それであの・・・なぜ見ず知らずの、こんなにみすぼらしい身なりの私に優しくしてくださるのですか?それに私はあなたがおっしゃるような美しい容姿ではないのに」
マデリーヌの言葉を聞くと男はフフ、と口元に甘い微笑を浮かべる。
「ご冗談を。ご自身の美しさに気づいていないのですね。貴女はたとえるならそう・・・野に咲く可憐な花でしょうか。慎ましやかであり、愛らしくいじらしい」
「そんな・・・んんっ・・・」
低く抑揚のついた穏やかな声で語りかけられ、そのあまりにも官能的な響きに身を震わせてしまう。
それと同時に身体の奥から経験したことのない甘い疼きがじわりと込み上げ、その妙な感覚に驚いたマデリーヌは思わず目を瞑り、唇を噛みしめる。
「純な方だ。そんな初々しい反応をされたら男はみな貴女の虜になってしまう。――この世のどんな大罪よりも罪深く可愛い人……」
マデリーヌの無意識の媚態に男の口角がつり上がり、白い歯が剥き出しになる。
鋭く尖った犬歯がキラリと光り、そのどこか禍々しい光景にマデリーヌは心がざわめき波立つのを感じた。
もしかしたら――この人は危険な人物なのかもしれない。
しかし危険だと頭では分かっているのに、どうしてもこの男から目が離せない。
優雅な笑みを浮かべる艶やかな唇ひとつにさえ、思わず喉が鳴ってしまう。
男の挙動一つ一つに、マデリーヌは胸騒ぎに似たときめきを感じてしまっているのだ。
なにより初対面の相手にこれほど心を動かされ嫌でも男というものを意識してしまう自分のはしたなさに愕然としてしまう。
自分は親に決められた結婚相手がいる身だというのに……。
「可愛い人・・・貴女の虜にされた哀れな道化に、どうか慈悲を」
葛藤するマデリーヌをよそに男は低く呟くと、するりと自然な動作で腰を抱き、もう片方の手でそっとおとがいを持ち上げる。
「あっ……!」
微かな抵抗の声を上げるも、唇を塞がれてすぐにかき消えてしまう。
初めて触れる異性の唇の感触に心臓が早鐘のように鳴り響き、緊張と不安からか軽い目眩に襲われる。
「接吻は初めてですか?フフ、貴女はどこまで私を魅了すれば気が済むのか……」
からかうような口調ではあるが、その目には隠しようもない欲望の火が灯り、触れるだけの優しいキスから一転して荒々しいものに変化していった。
「んんっ・・・ふぅっ!?」
湿った唇の生々しい感触や男の体温が直に伝わることに戸惑っていたマデリーヌだったが、ふいに唇を割ってぬめりを帯びた舌が差し込まれ、あまりの衝撃に身体が強張ってしまう。
男の舌先が口内を這い回り、思考を乱していく。
性的体験に乏しく経験のないマデリーヌにとって、この強烈すぎる嵐のような接吻は当初果てしのない苦悶の体験でしかなかった。
だが、男の腕の中でなすがままに身を委ねているうちに嫌悪感は次第に薄れ、先ほど感じた蕩けるような甘い陶酔感に満たされていくのを感じていた。
このままどうにかなってしまいそうな艶めかしい感覚に気が遠くなり、泣き出してしまうのではないかとさえ思えてくる。
「――貴女は男を堕落させる術を、乙女の身でもうすでに熟知しているのですね」
身震いするマデリーヌの耳元で男が囁きかける。
「この蜜のように甘く甘美な唇に一度でも触れたなら、どれほどの代償を払ってでも貴女をもっと深く欲してしまうでしょう……。たとえそれが、我が身を滅ぼす運命であろうとも――」
男の情熱的な言葉にマデリーヌは胸を突かれ、息の飲む。
大抵の女ならばこのまま身を焦がすような一晩の行きずりの恋にのめり込み、恥も外聞もなく身も心も明け渡してしまっていたことだろう。
だが、親の決めた婚約者がいるマデリーヌがそんな危ない橋を渡る事など出来るはずがない。
ここで一時の快楽に押し流されれば家名に泥を塗るばかりか淫蕩な娘と烙印を押され、あとに残るのは一生の後悔と破滅だけなのだから。
己を待ち受ける危険の大きさに青ざめながらマデリーヌはそっと男から身を引くと、出来るだけ冷めた口調で別れの挨拶を切り出そうと努めた。
「私のようなつまらぬ身をひとときの間慰めていただき、まこと感謝に耐えません。どうかまたいつかご縁がありますように」
思っていたより突き放すような物言いをしてしまった――そう思った時にはすでにマデリーヌは男の腕に抱き取られてしまっていた。
「なぜそのようなつれない態度で私を翻弄するのです。こんなにも貴女に惹かれ、身も心も捧げるのも惜しくないというのに」
「だからです……!」
男が哀しげに訴えるも、マデリーヌは突き放すようにすげなく言い放つ。
「私は婚約者のある身。一時の気の迷いに流され貴方と関係を持てば醜聞となり、たちまち家名や婚約者方に悪評が流れてしまいます。今は大事な時期、節度を持たなければならないのです。ですから――」
「今だけは」
己を納得させようとするように言いつのるマデリーヌを、男の真摯な声音が遮った。
「貴女をこの胸に抱くことをお許し下さい。この短い逢瀬を、貴女と触れ合えたこの一夜を永遠に記憶に留めておきたいのです。どうか――」
それ以上、マデリーヌは止めなかった。
男が名残惜しむのと同様に――それ以上に、この名も知れぬ仮面の男に惹かれてしまっていたからだ。
資産のない没落貴族の娘として今まで誰からも見向きもされなかった自分に、こんなにも情熱的な言葉を投げかけてくれた男などいなかった。
おそらく、これから先の人生でも。
この先愛の芽生えることのない政略結婚を強いられ、少女時代に夢見た甘い恋の味を知ることなく囚人のようにただただ夫に順々な妻であるとこを求められ、過ごさなければならないだろう。
ならば、今だけでもこの甘く幸福な夢に浸っていよう。
月はすでに傾き、夜も更けようとしていた。
傍らで迸る噴水の水がひときわ高く跳ね上がり、飛び散った飛沫がキラキラと瞬き幻想的な風景が広がっている。
この美しい夜が永遠に続けばいいのに――。
いたわるように優しく頭を撫でてくれる男の胸にうっとりと頬を寄せながら、深い安らぎを感じていた。
「貴女が愛おしい・・・」
男の低く深みのある囁く声を聞きながら、短い逢瀬の終わりを迎えようとしていた。
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