小雪さんの深夜の一杯

蒼月柚希

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女の幽霊と小雪さん

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 女は、廊下の奥――床が少し沈んで見える場所を指した。
 ライトの光が届かず、闇だけが溜まっている。
 床板の隙間から入り込んでくる風が、より冷たいものに感じた。

『最初は、覚えてなかった。ずっと。ここは“うるさい場所”ってだけで……静かに寝たいのに、遊び半分の奴らが来る。腹が立って、呪って……それだけだった。』

 女は苺ミルク飴を見つめる。

『でも、それを見たら……記憶が戻ってきたの。』

 声が掠れる。

『結婚資金だって言われて、毎月入れてたの。彼と同棲した記念に一緒に作った、共通の通帳に。』

 女は、笑った。
 けれど、その笑みはどこか歪んでいて、温度がない。

『「二人の未来」って。しかも私だけ。バカみたいでしょ。』

「……大変だったね。」

「……それ、不公平だよね。」

 女の表情が沈む。
 小雪はそれ以上、言葉を足さなかった。

『使われてた。全部。私じゃなくて、あの女に。』

 女の目が冷たく光った。

『親友だったの。ずっと一緒にいたの。なのに、私の男も、私のお金も、笑って奪って……』

「それ、酷くない?」

『でしょ。』

 女は一度、目を伏せる。
 次に顔を上げたとき、声はさらに平らだった。

『最初は、分からなかった。私、信じたかったから。親友が彼に笑いかけても、「仲良くしてくれてる」って思った。彼が私の話を途中で切っても、「疲れてるのかな」って思った。』

 女の視線が、床の一点に落ちる。

『でもね。少しずつ、私だけ置いていかれた。私が席を外すと、二人は急に小声になる。戻ると、何もなかったみたいに笑う。……私の目を見ないで。』

 小雪が息を呑む。

『親友は、私の物を勝手に使った。口紅。服。アクセサリー。「ごめん、私の方が似合うと思って」って。私が嫌だって言えないの、知ってて。』

 女は淡々と言った。
 だから余計に刺さる。

『私、あの子しか友達がいなかったの……』

「そうなんだ。」

 小雪は、その一言しか言うことができなかった。

『彼も、同じ。「お前って優しいよな」って言って、私の優しさを当然にした。通帳に入れるのは私だけ。彼は「来月から」って言って、毎月、言うだけ。一度だって入金したことがない。』

 女は笑った。
 笑っていない笑い。

『私が入金すると、彼は「ありがとう」って言った。それで終わり。その「ありがとう」の後に、親友が「苺ミルク飴ちょうだい」って笑った。』

 女の唇がかすかに震える。

『私の知らないところで、親友は彼に言ってた。「あの子、重いよね」って。「尽くすのが好きなだけだよね」って。私はただ、本当に彼が好きだった。それだけだったのに……。』

 女の目が細くなる。

『彼は否定しなかった。むしろ、うなずいていたんだと思う。私は、たまたま聞いただけ。壁が薄いアパートでね。』

「……それ、」

『うん。それでも、私は信じた。信じたかった。だって、大好きだったから。』

 女は喉を押さえた。
 息が詰まるというより、言葉が詰まるみたいに。

『決定的だったのは、私が仕事で遅くなった日。親友が「先に行ってて」って彼に連絡した。私には、「急用」ってだけ送ってきた。』

 女の声は変わらない。

『鍵を開けたら、二人がいた。私が借りた部屋。私が買ったベッドで二人は……私の生活の中で、私だけが邪魔だった。』

 小雪は言葉を失う。

『彼は言った。「誤解だ」って。「違う」って。その次に、「お前が忙しすぎるから」って。』

 女の目が冷える。

『親友は泣いた。私に向けて泣いたんじゃない。彼の手を握って泣いた。』

 女は、ゆっくり息を吐く。

『私が怒ったら、二人は同じ言葉を使った。「落ち着いて」「話し合おう」……話し合いって、裏切った側が言う言葉なの?』

 女の唇が震える。

『彼と言い争いになって……私、後頭部に強い衝撃を受けて……。』

 言葉が途切れる。
 女は喉を押さえた。
 思い出すだけで息が詰まるみたいに。

『最後は、床下。冷たくて、暗くて、痛くて、苦しくて……。』

 小雪は何も言えなかった。
 言葉が、薄っぺらくなる気がした。

 女は、ぽつりと続ける。

『彼もその場にいたはずなのに。……私、助けてって言ったのかな。言えたのかな。』

 女の目が、小雪を見る。

『でも、あの男は……見なかった。見ないふりをした。私がまだ、息があると分かっていたのに……。』

「……」

『土が口に入ってきて……反射的に咳をしたの。咳が出たら、生きてるって分かるでしょ。なのに、止めなかった。』

「それ、悔しかったね。」

『私、最後に言ったの。……「惨めな男……」って。』

 小雪の喉が、ごくりと鳴った。

 女は一度だけ笑う。
 笑っていない笑い。

『それで、私の記憶は終わり。終わりのはずだったのに。……終わりにしてもらえなかった。』

 小雪は、息を吐いて、やっと言葉を絞り出す。

「……それは、怒るわ。」

 女は頷いた。
 そして、ふと小雪の顔をまじまじと見る。

『……あなた、顔色悪いのね。目の下、すごいことになっているわよ。』

「……よく言われます。」

『よく言われるで済ませないでよ。あなたも何かあるなら言って。不公平でしょ。』

 小雪はぎくりとする。
 幽霊に叱られている。

「……私のは、たいしたことじゃ……」

『はい出た。そういうの一番ずるい。不公平よ。』

 女の声が強い。
 けれど、それは責める強さではなかった。
 引きずり出すための強さ。

 小雪は唇を噛む。
 そして、渋々、口を開いた。

「会社で……社長夫人が、経理を任されてるんですけど。仕事、全部私に押しつけて……」

『それ酷くない?』

「……うん。酷いです。私が作った資料も、締めた数字も、全部、自分の手柄みたいに言って……」

『それは怒るわ。』

 女の幽霊が、先ほどの小雪の返答をなぞるように言った。

「……怒れないんです。」

 小雪は笑ってしまいそうになる。
 笑えないのに。
 声が震える。

「夫人、ホストに大金を……たぶん会社の金も……でも、言えない。社長は正しい人なのに、正しい人だからこそ怖くて……私が疑われる未来が見えるから。」

 女は黙って聞いていた。
 それが、小雪には救いだった。

 話を遮らない。
 正論を言わない。
 解決策を押しつけない。
 
 ただ、黙って聞いてくれた。

 小雪は最後に、強く言った。

「……だから、証拠だけ集めてます。帳簿のコピーとか。自分が生贄にされないための、保険としてですが。」

 女の目が、少しだけ穏やかになる。

『……あなた、偉いわね。』

「偉くないですよ。ただ、怖いだけなんで。」

『怖くても、やっていることは偉いわ。』

 女が、目を細めた気がした。

 ふと窓の外へ視線を移せば、外の闇が薄くなってきた。
 夜明けの気配が、空気の色と空気を変えていく。

 女は小雪の苺ミルク飴を見て、ほんの少し微笑んだ。
 それは、さっきまでの冷たい笑いじゃなかった。

『……ねえ。』

「はい。」

『聞いてくれてありがとう。』

「私こそ、お付き合いいただき、ありがとうございました。」

 小雪は女に向かって深く頭を下げた。

 そんな小雪に対し、女は自分の胸元に手を当てる。
 そこに心臓があるみたいに。

『すっきりした。だから……行くね。』

 小雪は目を瞬く。

 女の輪郭が薄くなる。
 朝の光が、彼女の白さを透かしていく。

 晴れ晴れした顔。
 救われた顔。

 小雪は、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

「……ありがとう。おやすみなさい。」

 小雪がそう言うと、女は一度だけ頷いた。
 そして、最後に小さく笑う。

『不公平は、嫌いなの。』

 その一言を残して、女は消えた。
 光の中に溶けるみたいに。
 そこにいた気配さえ、ふっと抜けていく。

 廃病院には、小雪の呼吸と、冷えたおでんの匂いだけが残った。

 小雪はしばらく動けなかった。
 三個目の空になったワンカップを見つめながら、胸の奥の何かが静かに沈んでいくのを感じる。

(……今日は、なにもしないでゆっくりと休もう)

(酔ったせいじゃなくて)

 幽霊と話したなんて、誰に言っても笑われる。
 けれど小雪は確かに、救われていた。

 鞄を持ち上げ、立ち上がる。

 足はまだ重い。
 それでも、さっきより引きずっていない。

 出口へ向かう途中、背中にもう一度だけ風が触れた気がした。
 誰かが通り過ぎたみたいに。

 小雪は振り返らない。
 振り返ってしまったら、さっきの「成仏」が嘘になる気がしたから。

 そのまま、朝の薄い光の中へ歩き出した。
 苺ミルク飴の袋が、鞄の中でもう一度かさりと鳴った。
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