小雪さんの深夜の一杯

蒼月柚希

文字の大きさ
4 / 5

二年後の小雪さん

しおりを挟む
 雨の匂いがした。
 夜の住宅街は静かで、窓の内側だけが別世界みたいに明るい。

 社長夫人は寝室のドアを閉めると、鍵を指先で確かめた。
 その仕草だけは、いつも完璧だった。

「……来て」

 会計士が入ってくる。
 スーツの襟元を崩しながら、当たり前みたいに部屋の空気を自分のものにしていく。

 下着姿の夫人はドレッサーの前に腰掛け、鏡の中で自分を見た。

 赤い口紅。
 光る爪。
 艶めいた肌。

「七海ちゃんは?」

「隣でぐっすり眠っているわ。それにあの子、気味が悪くて。」

 夫人の声は軽い。
 子どもの存在さえ“背景”にしてしまう声。

「可愛げがないのよ、あの子。」

「可愛げがないどころか、作り物みたいだよね。……ほんと、誰の子?」

 会計士が笑う。
 夫人も笑う。

 それから二人は、互いの体温を確かめ合うみたいに近づき――言葉が要らなくなった。
 漏れ出てくるのは、男女の狂ったような激しい吐息のみ。
 
 だが。
 二人は、見落としているものがあった。

 夫人が普段使うドレッサーの脇。
 七海のお気に入りのクマのぬいぐるみが、ちょこんと座っている。
 それは、七海が眠る夜にはいつもそこにいる“背景”だった。

 そのクマの片目に仕込まれた小さなレンズが、無音で瞬いていることに――二人は気づかなかった。

 そして映像は――
 そのまま、社長のスマホへと送られていた。

 *

 社長は、画面を見つめたまま動けなかった。

 怒りが燃えるより先に、失望が沈殿していく。
 胃の底が冷えた。

 口の中が乾く。

 手が震える。

 呼吸が浅くなる。

 信じていた。
 信じたいと思っていた。

 ――だから、裏切りはいつも、重くのしかかる。

 きっかけは、娘の七海だった。
 自分にも妻にも似ていない、整いすぎた顔。
 泣き皺ひとつない。

 七海は、母親に懐かない。
 父の腕の中では笑うのに、母に抱かれると表情が消える。

 その無表情が――いつも“同じ形”だった。

 仕事を理由に、妻は娘を人に預けっぱなしだった。
 それでも――それが理由だと、思いたかった。
 
 社長は画面を止めた。
 止められなかったのは、心臓の方だった。
 胸の奥が、どくどくと嫌な音を立てる。

 そのまま震える手で、電話をかける。

 震えが止まらない。

 理由を考えるのは、あとでいい。

 深夜の呼び出し。
 相手はすぐに出た。

『……はい、社長』

 女の声は疲れているのに、丁寧だった。
 社長は息を吐き、言葉を選ばずに言った。

「楠葉さん。夜分にすまないが、すぐに会社に来てくれないだろうか。タクシー代は出す。」

 自分の声が、他人のものみたいに冷たかった。

『……はい』

「経理が……ここ三年ほどが特におかしい……だから」

 怒鳴られた方が、まだましだった――小雪はそう思った。

『……っ』

 小雪の息が止まったのが、電話越しに社長へと伝わる。

「身の潔白を証明したいなら、今、出せるものを全部持ってきてほしい。」

『……わかりました』

 言い訳もしない。
 泣きもしない。

 小雪は、“覚悟を決めた声”で答えた。

 *

 本社の社長室。
 机の上に並べられたのは、紙の束だった。

 コピー。
 元データの控え。
 承認の痕跡。
 入金のタイミング。
 細い糸をたどるみたいな証拠。

 どれもこれも二年前から集めたもの。
 あの廃病院で、女の霊に話を聞いてもらった――その少し前から。

 退職する勇気も、社長に相談する勇気もなかった。
 だからただ、流れ作業みたいに集め続けた。

 小雪は震える手で、それらを差し出した。

「……全部、私を守るために集めていました。誰にも言えなくて……でも、もし私が生贄にされるなら、せめて――」

 小雪は、それ以上を言わなかった。
 社長室の空調の音だけが、やけに大きい。

 一年と半年前に社長の元に、娘が生まれた。
 守るものができた。

 それからは、社長はますます精力的に働き、本社には顔を出す回数が減った。
 産休も取らずに子どもをベビーシッターに預けたままの夫人は、会社で好き放題をしていた。

 不利なことを口にしかけた社員ほど、次の日から席が空いた。
 引き継ぎもなく、机だけが片づけられている。
 社長はずっと、それが気味悪かった。
 
 社長は一枚ずつ目を通した。
 指が止まる。
 目が冷たくなる。

 小雪は書類の束から、あの廃病院の湿った匂いが立ち上る気がした。

 数字は嘘をつかない。
 嘘をつくのは、人間だ。

「……ありがとう。」

 社長がそう言ったとき、小雪は初めて泣きそうな顔をした。
 でも泣かなかった。
 泣く余裕がない。

 書類をめくる音だけが、いまだに社長室に響いている。

 金の流れが「娘の口座」に触れていると分かった瞬間、社長はその書類をぐしゃりと強く握った。

 入金履歴はある。
 だが、残っていない。
 四桁の残高¥3,9××が、そこに残っていた。

 社長は、声を落として言った。

「……楠葉さん。今から、君に頼みがある。」

「……はい。」

 小雪は息を呑んだ。
 社長の目が、鋼みたいに固い。

「今すぐだ。……見せたくない。」

 *

 社長の車に乗り、急ぎ自宅へと向かう。
 車内はまるでお通夜のように、静まりかえっていた。

 お互いに一言も発することのない、重苦しい空気が漂う。

 社長の自宅に着いてすぐ、小雪は子ども部屋に入った。

 部屋の中は覚えのある、甘い香りがした。
 あの飴の袋を開けたときの甘さが、ここにあった。

 薄明かりの中で、七海がすやすやと眠っている。
 小さな胸が、規則正しく上下していた。

 社長は部屋の入口に立ったまま、動かなかった。
 足音を殺してここまで来たのに、最後の一歩が踏めない。

 眠っている。
 それだけのことが、今は奇跡みたいに見える。

 社長は喉の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。

 泣きそうだった。
 泣きたいはずだった。

 けれど――泣けなかった。

 目は乾いたまま、まばたきだけが増える。
 涙の代わりに、胃の底が冷たくなる。

 あの愛らしい寝顔を守るためなら、何でもできる。
 そう思うのに。

(俺は、何を守っていた?)

 夫人の赤い口紅。
 会計士の笑い声。
 さっき見た画面の光が、目の奥に貼りついたままだった。

 社長は拳を握る。
 握りすぎて、指の関節が白くなる。

 重い足を引きずるように、ゆっくりと歩みを進めた。

 娘の寝息だけが聞こえる、真っ暗な部屋。

 月明かりを頼りにベッドの中をのぞけば、七海は微かに寝返りをうった。
 小さな指が、布団の端を掴む。

 その手を見た瞬間、社長はようやく息を吐いた。

「……楠葉さん。」

 声が、思ったより低く出た。
 震えを押し殺した声。

「連れて出てくれ。今すぐだ。」

 社長は七海から目を逸らせないまま、続けた。

「……見せたくない。」

 何を、とは言わなかった。
 言ったら、壊れる気がした。

 小雪はそっと抱き上げた。
 七海が寝ぼけたように、小雪の服をつかむ。

「……おね、ちゃ……」

「うん。大丈夫。ちょっとおでかけしようね。」

 小雪は七海を抱いたまま、なるべく急ぎ足で外へ出た。
 すぐそばに止めてあった社長の外車のドアを開ける。

 七海を抱いたまま、小雪はドアを音を立てないよう、静かに閉じた。

 *

 中で何があったのか。
 小雪は、聞かなかった。

 聞けるわけがない。
 後部座席で並んで座っている小雪の横で、七海は目をこすっている。

 少し住宅街から離れた、静かな場所にただ一件だけぽつんとある、社長の豪邸。

 しばらくして、車の中から見える家の中のカーテン越しの人影が、激しく動くのが見えた。
 周りが静かすぎて、車の中にまで怒鳴り声が、人の言い争う声が、かすかに漏れ聞こえてくる。
 割れた音――何かが床に落ちた音。

 小雪は慌てて七海の両耳を、自分の手で塞いだ。
 でも七海は泣かなかった。

 ただ、静かに外を見ていた。
 まるで、止まったみたいだった。

 動かない。
 瞬きさえしない。

 家のドアが開き、社長が出てきた。
 肩が少し落ちている。
 でも目だけは、怒りに激しく燃えていた。

 その後のことは早かった。

 社長はすぐに離婚に切り出し、夫人を家からたたき出して会計士を解雇し、二人を訴えた。
 二人には八桁の慰謝料と、合計九桁超えの横領した会社の金の返金を請求したと聞く。

 会社の信用を守るための、容赦のない処理。

 社長は満身創痍だった。
 でも倒れなかった。
 倒れられなかった。

 そのとき、社長の横にいたのは小雪だった。

 あの日からずっと、小雪は社長と七海と共にいた。

 七海はなぜか、小雪に異常なまでに懐いた。
 指先で小雪の袖をつまみ、当然みたいにくっついてくる。

 小雪は不思議だった。
 自分は、人に好かれるタイプじゃない。

 ――それなのに。

 七海は小雪を見上げると、安心したみたいに笑った。
 くっついた指先が、子どもの体温とは思えないほどに冷たかった。

 七海の握りしめている苺ミルク飴の袋が、カサ、と鳴った。
 袋の外に、飴がひとつだけ落ちていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

側妃契約は満了しました。

夢草 蝶
恋愛
 婚約者である王太子から、別の女性を正妃にするから、側妃となって自分達の仕事をしろ。  そのような申し出を受け入れてから、五年の時が経ちました。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

処理中です...