小雪さんの深夜の一杯

蒼月柚希

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コンビニと小雪さん

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 社長の離婚が成立し、会社の体制は一変した。
 小雪は何故か、社長秘書に昇進していた。

 元社長夫人と会計士は今、警察の世話になっている。
 元夫人と関係のあった男性社員は全員、懲戒解雇となった。

 いろいろな改革が次々と始まり、仕事がやっと落ち着いた頃。
 小雪は七海を抱っこして、あのコンビニへ入った。

 いつもの蛍光灯。
 いつもの床の白さ。
 違うのは、自分が一人じゃないこと。

「あんめー」

 突然、七海は苺ミルク飴の袋をにぎりしめた。

「これを食べるの?」

「んー! そー!」

 七海はにっこりと微笑んだ。

「じゃあ、今日はこれだけ。いいかな?」

「あい!」

 元気よく返事をする七海を連れて、レジへと向かった。

 そこにいたのは、二年前の男。
 痩せ細って、疲れ切った目をしている。
 コンビニの制服が、やけに大きく見える。

 男は七海と小雪を見て――七海の握りしめるものを見て、ほんの一瞬だけ固まった。
 すぐに作り笑いを貼りつける。

「……いらっしゃいませ。」

 会計は、何事もなく進んだ。
 男の手は震えていない。
 
 ……少なくとも、表面上は。

 小雪が「ありがとうございました」と頭を下げる。
 七海も小さく会釈する。

「……」

 男は、七海の年齢にそぐわない規則正しい会釈に、背筋が寒くなるのを感じた。

 視線だけが縫い止められたみたいに、二人から外れない。

 小雪がドアに向かって歩き出し、抱っこしていた七海が、ふいに男へ顔を向けた。

 男の視線が、七海のそれと交差する。

 瞬間。

 七海の唇が――音もなく動いた。

「……」

 空気が、沈んだ。
 男の顔色が、瞬時になくなった。

 分かったのではない。
 喉が、先に“その言葉”の形を覚えていた。

「……惨めな男……」

 声は、男のものだった。
 けれど、男の声じゃなかった。

 男の体が、どくん、と跳ねた。
 顔から血の気が引く。
 声にならない悲鳴だけが喉の奥で引っかかる。

 自分が今、何を言ったのか。
 分かっているのに、止められない。

 七海は、笑わない。
 ただ、口元だけが静かに閉じる。

「え? どうし……」

 小雪が尋ね終わる前に、店の自動ドアが鳴った。

 制服の警官が二人。
 入ってきた瞬間、空気の重さが変わる。
 いつもの蛍光灯が、急に冷たく感じた。

「あ……」

 小雪は、彼らに見覚えがあった。

(確かこの前、社長に話を聞くために会社に……)

 小雪は、その場に立ち止まった。

 そして男――レジの男も、同じように動けないでいた。
 口を開けたまま、息をしていないみたいだった。

 まるで、何かを悟ったかのように。

 警官の片方が、男に近づく。
 声は丁寧で、だから怖い。

「中西 拓哉さんですね。」

 男の喉が、ひゅ、と鳴った。
 返事が出ない。

 警官は視線を落とす。

 男の名札に、一度。
 そして――苺ミルク飴の袋に、一度。
 そこで視線が、ほんの一秒だけ止まった。

 警官が続ける。

「お時間を少し、いただけますか。」

 男の唇が震える。
 作り笑いの形のまま、顔色だけが抜けていく。

「……な、なんの……」

 声がやっと出た。
 けれどそれは質問じゃなく、抵抗の音だった。

 警官は、言葉を選んでいるふりをしない。
 淡々と、短く言った。

「○×△町の、廃病院跡で遺体が見つかりました。」

 男の膝が、わずかに折れる。
 倒れないのが不思議なくらいに。

 小雪は、自分の手が七海の手を強く握りすぎていることに気づいた。
 七海は痛がらない。
 ただ静かに、男を見ている。

 警官が、もう一歩近づく。

「七年前の行方不明の件で、確認したいことがあります。」

 それだけで十分だった。
 説明はいらない。
 男の顔が、もう答えになっている。

 警官のもう一人が、手元のメモを一度だけ確かめる。
 その紙の端に、見覚えのある名字がちらりと見えた気がして、小雪の心臓が跳ねた。

 ――辰川。

 社長夫人が、離婚届に書いた名前。
 あまりにも珍しい名字なので、覚えていたのだ。

 警官は、抑揚のない声で続けた。

「……すでに、こちらにも資料が届いています。弁護士を通して。」

 男の喉が、ひゅ、と鳴る。
 逃げ道が塞がっていく音だった。

 警官は、次の言葉をほんの少しだけ遅らせた。
 その“間”が、いちばん怖い。

 警官の視線が、七海の顔を一度だけ掠めた。
 それから、名前が落ちてきた。

「辰川 真理子さん……覚え、ありますよね。」

 小雪の背中が冷たくなる。

 辰川 真理子。
 先日まで“社長夫人”だった頃は、有栖川 真理子。

 反射的に七海の様子を見た。

「……」

 七海が一度だけ、眠い子みたいにまぶたをこすり、次の瞬間には笑みだけが残った。
 口元の笑みがほんの少しだけ深くなる。
 その笑みが、あの日の女の霊と重なり、背筋が冷たくなるのを感じた。

「彼女が狂ったように繰り返すんですよ。「あの女がいる、いつも見張っている……」と。どういう意味か分かりますかね? ヒステリックに怒鳴ったり、何かに怯えて叫んだりして、我々も証言を得ることが出来ず、困っているのです。」

(まさか社長夫人が……)

 小雪は息を止めたまま、七海の手を握り直す。

「な、なぜそれでオレに……?」

 男は、震える声でそれだけを問う。

「彼女から、貴方の名前が出ておりまして。」

 その警官の一言に、男は笑おうとした。
 でも口角だけが動いて、声にならない。

 警官は淡々と、もう一つだけ言った。

「……詳しい話を聞けるのは、あなただけだと言っているのですが。それと、「あの女がいる……」と。」

 男の肩が、びくりと跳ねた。

『惨めな男……』

 彼の頭の中で、何故か突然、彼女の言葉がよみがえった。

「ひ、ひひひ……」

 突然、男は喉に舌がくっついたような、変な笑いを響かせた。

「……違う。ちが、う……」

「……見てない。見てないんだ……」

 それから、ひ、ひひひ……と不気味な笑い声へと戻る。

 そんな男の姿を見て、小雪は慌てて自分の胸元に七海を隠す。

 すると――。
 小雪の耳の奥で、あの夜の声がよみがえった。

『惨めな男……』

 七海の手は、あの二年前と違って温かい。
 でも、その温かさが、なぜか逆に怖かった。

「七海ちゃん、大丈……」

 慌てて七海の顔を確認する。

 その顔は、まるで能面のように表情がなかった。
 ……はずなのに、口元だけが笑っていた。

 苺ミルク飴の袋が、かさりと鳴った。
 中で、ひとつだけ――ころり、と転がった。

 その音だけが、いつまでも耳に残った。
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