和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

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《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『二人の妹』

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「そういうこと、でしたのね。天井花イナリさん、和鼓たぬこさん……」
 ようやく泣き止んだところで、ひづりは《和菓子屋たぬきつね》で働く二人の《悪魔》のことと、そして最近その経営姿勢が変わったことを少々誇らしげな私情を挟みつつだが語って聞かせた。千登勢は終始戸惑ったり驚いたりしていたが、母が原因であるということが分かっている以上、「そんなまさか」とは一度も口にしなかった。理解しているのだろう。こんな馬鹿で無茶なことをする姉だということは、十分に。それがちょっとひづりには可笑しかった。自分とちよこの事を思うようでもあったからだ。
「どうしてイギリスへ行ってしまったのか、何が目的だったのか、姉さんは話してくれませんでしたけど、今日、ようやく分かりましたわ」
 天井花イナリの話を聞き終えると、千登勢は少し緊張の抜けた肩で言った。
「千登勢叔母さんも教えて貰っていなかったんですか?」
 一方、ひづりにはそれが意外で、思わず聞き返した。少なくとも、夫である幸辰と妹の千登勢にだけは話していたに違いない、とひづりは考えていたからだ。
「ええ。『やらなきゃいけないことが出来た』とだけ言って、夫の幸辰さんと生まれたばかりのちよこさんを残して、わたくしには何も言わず……。幸辰さんは全て了承していた様子でしたけど、やっぱり教えてはくれませんでしたから……」
 叔母が母から《ヒガンバナ》という《悪魔》を受け取ったのは一九九四年の冬の事で、今から二十三年も前のことだったという。凍原坂さんの件より更に九年も前の事だった。
 彼女の口からはだいぶ万里子を褒めるような言葉選びが目立ったが、しかしやはりそれらも実験の一つだったのだろう、とひづりは捉えていた。天井花イナリと和鼓たぬこという、ほとんど自分の自由に出来る《悪魔》を手に入れるための実験の一つ……。
 だが、《ヒガンバナ》は《下級悪魔》で、しかも姉の万里子から《契約印》ごと譲ってもらった、という部分には、ひづりは少々、母から妹への配慮があったことを改めて感じていた。
 いわく、凍原坂の元へ呼び出された《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱である《フラウロス》は非常に獰猛で、しかもその際、《契約印》は万里子本人でなく、凍原坂春路に刻まれていたという。失敗すれば死んでいたのは凍原坂だったのだ。そうして獰猛な《フラウロス》を呼び出す実験には他人である凍原坂の命を平気で使った。しかしその前段階の九年前に行われた実験では、たとえ《下級悪魔》が相手だとしても、万里子は自らに《契約印》を刻み、命という責任を負って呼び出し、そして使役に成功すると、それらの《契約印》を妹の千登勢に譲ったのだと言う。
 今日、足をくじいたことや、パニックになってあることないこと喋ってしまうような千登勢を見て、ひづりは母の気持ちが少し分かったような気がしていた。
 実験とはまた別に、こんな、少々どころかだいぶ危なっかしくてどんくさい妹を守ってくれる存在が、母はずっと欲しかったのではないか。自身はまだイギリスでやることがあるから。

『我が願いは、この千登勢という女性がこれよりその寿命によって亡くなるまで、あなたがそばで全身全霊を以って守り続ける事。ただ、それは事故などから守るだけではない。彼女が病魔によって倒れないために彼女の健康管理にも全身全霊を以って取り組み、愛情を注ぎ、彼女と話し合い、協力することも含まれる。そしてそのためにあなたが《人間界》で体を維持することが出来るよう、必要な栄養を人間の食料でまかなう事が出来るよう、私があなたの肉体に《魔術》による施術を行う事を、あなたは許可すること。これら契約が全て果たされしのち、我が魂とこの千登勢の魂の二つを差し出す事をここに誓う』

 《ヒガンバナ》を召喚した時、万里子はそういう内容で彼と《契約》したという。これは要は『花札千登勢が正しく寿命で亡くなるまで付きっきりで彼女のその身を守り、健康にも配慮するために自ら学び、彼女と相談、また助言しろ』ということであったが、それと同時に『お前の体は私の今後の計画のために実験材料にさせてもらうからな』という、万里子の明確な今後の活動への意思が示されていた。
 そして、このやたらに長い契約内容に関する説明は、ひづりは当の《ヒガンバナ》自身から教えて貰っていた。
 ひづりがその手を握り、千登勢が泣き止むのを待っていた時、《ヒガンバナ》はまたにわかに《魔方陣》から現れた。最初ひづりは驚いたが、彼はそばで立ち止まると千登勢のその頭をとても繊細な動きで撫で始めた。その鋭そうな爪で傷をつけないよう、細心の注意を払いながら。
 そうして、《悪魔》と姪の精神的なケアによって千登勢は泣き止んで、《悪魔》に関する話に移れた、という訳なのだった。
「《ヒガンバナ》は、《悪魔》と《契約》なさっているひづりさんたちには見えていますけれど、いつもこうして姿を出す時には、常に《認識阻害魔術》で人の目には見えなくしてありますの。でも、こうして体がとても大きいでしょう? ですから、普段は《魔方陣》の向こうに隠れてもらっていますの」
 わき道とはいえ堂々とその姿を現した《ヒガンバナ》にひづりが戸惑っていたため、泣き止んだ千登勢は最初にそう教えてくれた。
「では、やはり天井花イナリさんというあの狐耳の方は、《ヒガンバナ》の王様だった方なのですわね?」
 天井花イナリの話を聞き終えたところで、千登勢は改めてそばの《ヒガンバナ》に問うた。
「はい。あのお方は《ソロモン王の七二柱の悪魔》の一柱。勇猛で尊大な王であらせられながら、また王国の民の未来を想う、素晴らしきお方でございました。そして本日、幸運にも謁見が叶い、直々にお言葉を賜ったことで更にその確信はわたくしの胸を熱く掻きたてました。…………ですが天井花イナリ様は、かつてのあの強力な《魔性》を、今は完全に失っておられるのですね、ひづり様」
 不意に訊ねられひづりは少々気後れしたが、聞いている限りの知識で彼に答えた。
「ええ。《魔性》がそのまま《神性》に置き換わった、とかで……。だから、その《神性》の由来であるところの白狐、稲荷神社の使いの、《ウカノミタマの使い》……だったと思います、それになってしまったせいで、自分用の食料として、また今まで手に入れては《魔界》に送っていたっていう人間の魂を、《人間界》の稲荷寿司でまかなえるようになってしまったんだそうで。だから、今は留守にしているその天井花さんの《魔界》の王国にも、ちゃんと毎日栄養が届けられているみたいですよ」
 少々、口に出して説明すると本当に「何言ってるんだこいつ?」という内容でひづりは思わず歯切れが悪くなってしまったが、《ヒガンバナ》はともかく、千登勢はそれほど驚かなかった。やはりそういうむちゃくちゃな話も、あの母の妹として生きてきたら耐性もつくのだろう。そういう面では同じ妹という立場の人間として共感と、そして尊敬を覚えた。
「……そうですか。やはりあのお方は、今でも王国のために……」
 感極まった様子で《ヒガンバナ》はその狐の面に手を当てて静かに泣き始めたが、隣の千登勢はまた違った反応を見せた。
 彼女はにわかにその表情を暗くするとうつむいて指先をいじり始め、やがておもむろに白状した。
「……わたくし、あの時、嫉妬してしまいましたの……。《ヒガンバナ》は強くて、ずっとそばで守ってくれる、すごい《悪魔》なんだ、って。姉さんはそんなすごい《悪魔》をくれた。姉さんにとって自分は特別扱いされてるって思えて、それが嬉しくて……。……だから、娘の、あのちよこさんにも……あの人にも《悪魔》が姉さんから与えられていて、それもその《悪魔》が《ヒガンバナ》より偉い《悪魔》さんだって知って……わたくし、耐えられなくなってしまって……」
 千登勢はまた泣きそうな声になり、《ヒガンバナ》はハッと顔を上げると彼女の手に自身のその大きな手を優しく乗せた。
 そうか……それは確かにつらかっただろう……、とひづりも思わず胸が苦しくなった。
 ちよこは母の葬儀の時、泣かなかった。そもそも、悲しんでいるような演技を片手間程度にするくらいで、姉が母の死を本当に少しも悲しんでいない事は、ひづりにははっきりと分かっていた。姉は本当に、そういう人だったから。
 そして一方の千登勢はあれほどの泣きようだったのだ。悔しくない訳がないだろう。母の死に少しも泣かなかった長女の方にこそ、優秀な《悪魔》を与えていた事が。妹の自分より、娘の方をこそ大事に想っている、それが普通なことだとしても、それは納得できても、あのちよこに与えられていたことが千登勢には悔しかったのだろう。
 それに今言ったように、千登勢が知っている《悪魔》は《ヒガンバナ》だけだったのだ。その巨体から成せる人間離れした力を、姉からの贈り物、愛情だと捉えていた。それを否定されたように思えてしまったのだ。
 ――けれど、と千登勢はにわかに顔を上げて、言った。
「先ほどのお話……。凍原坂様という方や、その小さな猫の《悪魔》たちがいらっしゃったというその日、ひづりさんがちよこさんを言い負かして、言う事を聞かせたこと。《契約者》がちよこさんでも、けれど天井花イナリさんが気に入っているのはひづりさんの方で、ひづりさんも天井花イナリさんを尊敬なさっていること。それが聞けて、何だか、本当に、少々はしたないとは分かってますが、まるで胸が空いたような気分でした」
 千登勢は少々赤く腫らしつつも、ふにゃりとした笑顔でひづりにそう言った。彼女の手は《ヒガンバナ》の手をきゅっと握っていた。
「ええ、それは正しい感情です。大事にしてください。姉にはこの世のどんな悪党へ向けられる罵倒罵声を掻き集めて梱包して着払いで送りつけてもきっと足りないですから」
 千登勢の上品な物言いに対し、ひづりは思わず脊髄反射で心の底からの本音を返していた。
 少しの間、二人の控えめな笑い声が商店街の狭い路地に静かに流れた。


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