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21.氷雨

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マンション前の街灯の灯りがちかちか点滅し、切れかかっている。正面玄関を覆う植え込みは影を深くしていた。その影がすーっと伸びて、人一人分の影が切り離された。
豊高はぎょっとする。人影がくっきりと現れた。顔はまだ見えない。ゆらゆらと輪郭は揺らめき、こちらに近づいてくる。
豊高は身の危険を感じ、玄関に駆け込もうとする。しかし、思ったよりも長い腕に捕まった。振り払おうとする豊高の手を、静かな声が静止した。

「今日は帰るな」

その声は、久しぶりすぎて、懐かしさすら覚えた。
豊高は声の主の方を見る。黒い髪、恐ろしいほど端正な顔立ち。深い茶色のトレンチコートに包まれた体は少し痩せたようにも見えた。驚きすぎて口をぱくぱくさせる豊高に

「もう名前を忘れたのか?」

楓はくすりと柔らかく笑った。

「なんで、家知ってんの?」

豊高は怖くなる。久しぶりに見る楓の顔は美しかった。月も、街灯も、彼と一緒に写ればまるで絵画の背景になったようで、現実感を失わせていく。

「話は後だ。見つかる前に行く」
「は?誰に?」
「立花康平に」
「はあ!?てか何で親父のこと知ってんだよ!」
「それも後だ」
「ふざけんなよ、何でお前の言うこと聞かなきゃなんないんだよ!」
「殺される」

豊高は耳を疑った。

「このままでは、立花康平に殺される」

咄嗟に反論しようとしたが、顔半分目掛けて飛んでくる拳を思い出し何も言えなくなる。
楓の手は、声は、小さく震えていた。弱々しい部分を目の当たりにした豊高は戸惑う。楓は大人しくなった豊高の手を引いていった。
楓の家は、あの洋館は最後に訪ねた時となんら変わっていなかった。ほっとすると同時に、苦しんでいた時期に戻ってしまいそうで、どこか落ち着かなかった。楓は戸棚に手を掛けるが、お茶はいらないと伝える。

「そんなことより、何で連れてきたんだよ」
「ん」

豊高の腕に、タオルとパジャマが押し付けられた。

「風呂、先に入れ」
「は?!」
「すまない、少しだけ、休ませてくれ」

楓は椅子にどさりと乱暴に座り、背もたれに身体を預けた。
豊高は頭に血が上りそうになり、浴室に向かった。熱いシャワーで身体を温めた後、キッチンに戻ると楓は椅子に座ったまま寝息を立てていた。
豊高はため息をつく。起こそうと身体を揺らすと、わずかにコートとシャツがはだけて素肌が覗く。滑らかに流線型を描く鎖骨とすっとした首筋が妙に艶かしく、思わず目を逸らす。
しかし、僅かに見えた青あざが目に止まった。こんなところ、何処で打ったのかと呆れて少しシャツの襟元をめくり上げる。すると、もう一つ痣が見つかった。
豊高はそれを凝視する。足先が、冷たい床に冷えていく。コートの胸元を開くと、その下のシャツはボタンが弾け飛んだ跡があった。その奥を暴くと、赤や青、紫といった、色鮮やかな痣が散らばっていた。
楓は、何者かに、暴行を受けたのだ。

「大丈夫だ、ユタカ」

暖かさが体を包む。豊高は楓に抱き寄せられていた。強い力だった。

「大丈夫じゃ・・・・・っ!」

もがく豊高に腕を緩めるも、離しはしなかった。
楓は深く息を吐き、豊高の匂いを確かめるように鼻で大きく息を吸った。

「・・・・・・会いたかった」

豊高はキュッと胸が締めつけられ、何も言えなくなってしまう。

「少し、変わったな」

楓は豊高の顔を華奢な掌で包み込む。そして大きな瞳を覗き込んだ。

「力がある。前に、進もうとしている」

嬉しそうな口調とは裏腹に、悲しそうな笑みだった。

「・・・・・置いて、いかれる気がする?」

豊高がそう言うと、楓は少し目を見開いた。

「俺も、そんな気がするんだ」
「誰に?」
「先輩とか、友達・・・・・?」
「周りを見ている証拠だ。下を向いていた頃とは、違う」

自分が少しずつ、前に進んでいることが確かめることができ、嬉しさが広がっていく。

「・・・・・風呂に入る」

楓はふらつきながら立ち上がる。

「・・・・・大丈夫?」
「ああ」
「誰に、やられたんだよ」

一瞬肩がぴくりとしたが、振り返り微笑を浮かべる。

「大丈夫だ」
「嘘だ」
「嘘ではない」
「じゃあっ、これっ・・・・・!」

豊高は楓の胸倉を掴む。その内側には痛々しい暴行の痕がはっきりと残っている。

「また階段から落ちたとか言う気かよ!この大嘘つき!」

豊高の手は震えている。目が熱い。充血し涙が溜まり始める。

「言いたくない。駄目か?」

無表情でそう返す楓に、一気に脱力感に襲われた。怒りは一瞬で奪われる。

「そうかよっ・・・・!」

豊高は突き飛ばすように楓を振り払った。

「・・・・・すまない」

そう言う楓を無視し、豊高は椅子に腰掛け、楓から顔を背けた。楓はしばらく豊高を見つめていたが、やがてキッチンを後にした。

楓がキッチンに戻ってくると、豊高の姿はなかった。
パジャマが脱ぎ散らかされ、床に落ちていた。
楓は慌てて勝手口に駆け寄る。靴がない。
まさか、と思いドアを開ける。冷たい風が顔を殴り髪を逆立てた。顔をしかめ辺りを見回すが誰もいない。風だけが激しく吹き荒ぶ。

「・・・・・ユタカ・・・!」

楓も豊高と同じように、寒風の中に飛び出して行った。

ーーーーーーーーーーーーー

ーーーー殺される
立花康平に殺される

豊高は恐怖心を押し殺し、玄関のドアを開けた。
どこもかしこも暗かった。物音一つしない。真夜中なので当たり前のことだろう。
廊下をなるべく静かに進む。最初は動悸が止まらなかったが、何事もなく安心し始めていた。楓の杞憂、または勘違いだったのではないか。
ほっとして、自室のドアに手を掛ける。

ーーードアを開けると、父親が佇んでいる。怒りに目をギラつかせ、悪鬼のごとく拳を振りかざす。

そんな想像が一瞬よぎったが、漫画のような馬鹿馬鹿しいことがあるものかと、一気に、しかし音を立てずにドアを開ける。
一瞬恐怖がピークに達し目の前が真っ白になったが、すぐ暗闇に包まれた視界が戻ってきた。深く息を吐き、ベッドに倒れこむ。
なんだ、何もないじゃないかと、豊高は心底安心し、眠りについた。
その日は、楓の夢を見た。スーツを着て豊高に背を向けて座っている。
夢の中の豊高は楓が誰なのか分からなかった。見たことはあるのだが、どうしても思い出せない。声も聞いたことがあった。まごうことなき楓の声だ。
しかし、夢の中の豊高には分からない。父親が、初めて家に連れてきたのだから。

豊高は深夜、目が覚めた。
夢を見たことは覚えている。しかし、どんな夢だったか思い出せない。誰か、知っている人物が出てきていた気がする。思い出そうとすればするほど、その内容は遠ざかって行く。
豊高はあきらめ、携帯電話を開き時刻を確認する。画面を見た途端、目を見開いた。
3桁を超える、母親や父親からの着信が入っていた。
一気に目が覚めたが、気味が悪くなりかけ直す気になれなかった。留守番電話の件数も相当な数であり、内容を見ずにすべて消去した。
すると、再び母親から電話がかかっててきた。豊高は不信感を募らせる。母親は、深夜だと言うのに自宅にいないのか。恐る恐る、電話に出る。

「もしもし!ーーーですが、立花ーーさんの息子さんですか?」

知らない女性の声であり、早口で最初の方が聞き取れなかった。

「あの、どちら様・・・」
「ーーーー病院です!お母ーが昨日ーーこちらに搬送され」

豊高の手から携帯電話がすべり落ちた。携帯電話からは、女性の声が響いている。手先が冷たくなってきた。思考も凍りついて行く。
追い討ちをかけるように、玄関の呼び出し音が鳴った。その音で我に返る。
何度も何度も押され、ノックする音から拳を叩きつける音に変わった。父親だろうか、と恐怖に凍りつくが、父親ならチャイムなど鳴らさないだろうと思い至る。

「かえ・・・で・・・?」

豊高は玄関に駆け出した。楓の名前を頭の中で連呼する。勢いよくドアを開け放つ。

「楓っ!母さんがっ・・・・・」
「こんな時間まで何をしてたんだ!行くぞ!」

豊高は目を丸くする。玄関の外に居たのは、30代後半の浅黒い男だった。手を引かれ走り、地上に着くと黒いハイエースの助手席に押し込められる。
男は乱暴にエンジンを駆け、車を発進させた。街頭やネオンが彗星の如く尾を引いて窓を流れていく。それに照らされる横顔をじっくり確かめ、ようやくこの男が母親の恋人だと思い出すことが出来た。確か三村といったはずだ。

「・・・・・母さん、何があったんスか?」
「・・・・・暴行を受けて、意識不明の状態だ」
「誰から・・・・・?」
「まだ、わからない。だけど、恐らく・・・・・」

三村は豊高をちらりと見た。恐らく、の後にどんな言葉が続くのか予想できた。

「なんで、母さんまで・・・」
「やっぱり、君のお父さんなんだな」

豊高は唇を噛んだ。

「俺の、せいだ・・・・」
「違う」
「俺が、夜中までふらふらしてたから・・・側に、いなかったから」
「それは確かに褒められたことで無いけど、君のせいじゃない」
「違うんだよ・・・・」

自分を責めずにいられなかった。責めていた方が、いくらか不安が和らぐ気もした。殺される、と忠告されていた。
母親に危害が及ぶことも充分想像できたはずだ。しかし、側にいることが、できなかった。膝の上に置かれた拳が固く結ばれる。

「・・・カエデって、君の恋人?」

豊高の目が見開かれる。

「いや、違います」

早口で素早く答える。

「そう。カノジョ?カレシ?」
「えっ・・・・」

背筋がすうっと冷えた。

「お母さんから聞いてる」
「えっ・・・・・え!?」

豊高は混乱する。

「最初は、自分の息子が同性愛者だって認めたく無かったみたいだ。でも、変わってきたんだよ。君が変わってきたから」
「・・・俺?」
「少しずつ、声をかけてくれるようになって、勉強もがんばり始めて、表情も明るくなってきたって。友達も出来たみたいだって、自分のことみたいに喜んでた。
同性愛者ってことに囚われずに、君自身に向き合えるようになってきたんだよ」

豊高は目が覚める想いだった。
気恥ずかしさ、申し訳なさ、嬉しさが湧き上がり、胸がいっぱいになっていく。母親が、そこまで自分のことを考えていたなど、全く知らなかった。家族のことを分かっていなかったのは、自分も同じだったと初めて気付いた。

「さ、降りて」

病院に着くや否や、また手を引かれて地下駐車場のエレベーターに乗り、迷路の様な院内を連れ回される。ある病室の前で、三村は足を止めた。
個室の扉を開けると、包帯だらけになった女性がベッドに横たわっていた。
こんなに小さかったっけ?と思いながら豊高はふらりと中に入る。女性は目を開けた。包帯の隙間から母親の顔だと判別できた。

「ユタカっ・・・大丈夫!?」

母親は起き上がろうとするが、看護師に慌てて止められる。三村は深く息を吐いた。

「意識戻ったのか・・・よかった・・・」
「母さん、ごめん・・・・・」
「何言ってるの!?お父さんに何かされなかった!?大丈夫!?」
「出かけてたから、大丈夫。ていうか、父さんは?」
「・・・・・えっ・・・」

母親の顔が、みるみるうちに青ざめていく。

「わから・・・ない」
「俺も・・・・・」

母親はガタガタ震え始めた。

「どうしよう・・・・・・・・・あの人・・・っ!
もうダメ!もういやぁっ!」

取り乱しのたうちまわる母親を、看護師が必死に呼びかける。取り乱しのたうちまわる母親を、看護師が必死に呼びかける。豊高も、大丈夫だから、と訴えるが、母親の方が気が狂わんばかりだった。

「警察。まず警察行こう」

三村の冷静な声に、母親の動きが止まる。それにつられ、病室は静かになった。

「歴とした傷害だよ。これは。それから、豊高君、お母さんの実家とか親戚の家ってこの辺?」

豊高は首を振る。いずれも県外だ。

「じゃあ、信頼できる人は?」

石蕗や吉野が思い浮かんだが、2人とは今微妙な関係であり受験生という立場だ。赤松はまだそこまで踏み込んだ関係ではない。
その他には、一人しか思い浮かばなかった。迷いながらも、いると答える。三村は豊高に、シェルターに母親と共に入るか、その人物の元に身を寄せるよう選択を迫った。
豊高は言葉を失う。長い時間をかけ、少し考えさせて欲しい、と答えた。

その日は病院の仮眠室に泊まった。
まどろみの中を彷徨うばかりで、眠りに入ることはできなかった。
もう、家族が元に戻ることはないだろうと感じていた。あって当たり前に思っていた家庭が、自分を形成して来た基盤とも言えるものが壊れかけている。不安だった。
亀裂だらけの地面の上に立たされている想像が浮かんだ。地面の裂け目は深く、底知れぬ闇が広がり、空も暗く黒い。歩けど歩けど黒の景色は変わらない。やがて疲労に視界が白く霞んでいく。自分の姿は、白い闇に呑み込まれていく。

豊高は目を覚ますと、ようやく自分が夢を見ていたことに気づいた。いつの間にか朝になっている。
疲労は酷かったが、明るさやひんやりした空気のおかげで少し落ち着きを取り戻す。窓から差す朝日が頭や胸の中で澱んでいたどす黒い靄をいくらか晴らしてくれた。
自動販売機で紙コップのコーヒーを買う。紙の匂いが鼻につくが温かさが身体に染み渡る。今頃になって眠気を覚えた。しかし、仮眠室をいつまでつかっていいものか迷い、我慢して起きていることにした。

「おはよ。早いね」

聞き覚えのある声に、重くなってきた瞼をこじ開けた。三村が隣に腰掛け、豊高の顔をちらりと見る。

「まだ寝てたら?すっげー顔」

でもまあ、眠れないか、とひとりごちた。

「・・・・・学校、行きたいから」

豊高の言葉に三村は目を丸くする。何気なく口走ったことだった。疲れ果てていたが、学校に行けば、日常に身を溶け込ませれば、いくらか落ち着く気がした。

「真面目だねぇ・・・・」

呆れたように、または感心したように三村は言った。

「着替えは?どうやって行くの?」
「取り敢えず駅までいって、家帰って、あ、それだと遅刻かも」
「送ろうか?」
「でも」
「・・・・・どうすんの?」

豊高は考えるが、一向にまとまらない。唇をもぞもぞと動かすのみだ。

「分かった。乗ってけ」

三村は来た時と同じように半ば強引に豊高を車に乗せ、自宅と学校の最寄駅に送り届けた。何度も礼を言う豊高に、いいから、と笑い、

「取り敢えず、なんかあったら連絡して。こっちも知らせるようにするから」

と言い残していった。
車が去った後、体を通学路の進行方向に向けた途端、いつもの風景が目に映った。スイッチが切り替わる。
非日常から日常へ。

学校では、いつも通りすごした。
退屈な授業や陰口を聞き流し、休み時間には空き教室で昼食を食べ、午後からは部活動に参加する。
以前と違うのは、赤松が隣にいた、ということだ。彼と話していると、余計な雑音は耳に入りづらくなり、かなり過ごしやすくなった。
豊高は一緒に過ごすうちに、一つずつ赤松のことがわかってきた。左利きであること、昼食は弁当であること、読書が好きで、ライトノベルをよく読むことーーーー。
そして、今日また一つ分かったことがある。観察眼が思いの外鋭いということだ。

「なんかあった?」

赤松は朝、豊高の顔を見るなりこう言っていた。
豊高は顔が引きつりそうになったが、「いや、別に」と答えると、それ以上何も言って来なかった。
しかし、帰り際に

「そういや、今更だけどメルアド教えて」

と言われた。

「なんで?」

と豊高が返しつつ、赤外線で連絡先を交換すると、

「夜メール来ても全然気にしないから。朝見るから」

赤松はそう言って携帯電話をポケットにしまった。

「だから、いつでもメールして」

コートに袖を通す、豊高より少し広い背中に頼もしさ、不器用な気遣いが見てとれ、

「・・・・・ありがと」

と思わず小さく呟いていた。
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