幽かな君に捧ぐ奇譚

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第一章

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「でさ? 僕、思ったんだけど」
 机に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せながら、ノエルは口を開いた。
「あの場面だけモノクロだったのって、『あの場所が彼にとって退屈な環境だった』っていうのを、表現したかったんじゃないかな?」
 彼は得意げにそう語った。細めた瞳に長いまつ毛の影を落とし、ふっくらとした血色の良い唇を片側だけ引き上げ、不敵に笑みを浮かべている。
「いや、俺も気になって調べたけど、単純に『色のない惑星』って設定だったらしいぞ」
 俺は背もたれに左腕を掛け、廊下側の壁に背中を預けたまま、そう言った。すると彼は一転して、不機嫌そうに頬を膨らませながら俺を睨みつけた。
「……まあでも、面白い考察だとは思う。そういう印象を与えたいって思いもあっての演出なのかもな」
 軽くフォローを入れてやると、途端に彼は目を輝かせ、弾けるような笑顔を見せた。
「だよね! 薫くんならわかってくれると思ったよ!」
 表情豊かに話すその顔立ちは高校生とは思えないほどに幼く、女子と見間違うほど可愛らしい。その見た目と愛嬌ある言動から、彼――桝原聖夜マスハラノエルはクラス内でも人気が高く、男子からはアイドル的な、女子からはマスコット的な扱いを受けていた。
「ただ、そうまでしてキャラ立ちさせたにも関わらずソッコーで退場させたのは、さすがにどうかと思ったけどな」
 片や俺――笹ノ間薫ササノマカオルは、本来であれば教室の隅で机に突っ伏して寝ているだけの、いわゆる『陰キャ』である。一見すると不釣り合いな俺たちだがなぜか波長が合うらしく、休み時間のたびにこうして共通の趣味である映画の感想や考察を語り合う仲となっていた。
「わかる! せめて決闘は次回まで引き延ばしてほしかったよね! やっとかっこいい敵キャラが出てきたなって思ったのに、あれはもったいないよ」
 腕を組み、うんうんと頷きながら彼は言った。
「……っと、先生来たよ。……あれ?」
 視線を入り口のほうへと向けたノエルは、きょとんとした顔で言った。
 黒板のほうへ顔を向けた俺の視界で、一人の男が教室中を見回していた。
「えー、知ってる人もいるかもしれませんが、英語担当の高時先生が急病により、少しの間お休みとなります」
 教卓の向こうに立っていたのは、若手俳優のように整った顔の青年。年は二十代半ばといったところか。
「先生が戻ってこられるまでの間、代理を任されました、倉橋國彰クラハシクニアキです。短い間かもしれませんが、よろしくね」
 そう言って、彼ははにかんだ。そのあまりの好青年っぷりに、教室中がざわめき立つ。
「えーそれから、先日の件でまだ気持ちが落ち着かない人もいるかもしれません。僕でよければいつでも話し相手になるので、みんな、無理しないようにね」
 優しげにそう微笑んだ彼を、女子からの黄色い声が包み込んだ。
「じいちゃん先生休みなんだ、心配だね」
「参ったな、居眠りチャンスが減った」
 ため息まじりにそう呟いた俺に、ノエルは苦笑いを返した。

 パンフレットの束を眺めながら、袋に残った最後のひとかけらを口に放り込んだ。
「もうすぐ公開だね、薫くんの気になってるやつ」
「そうだな。予習は順調か?」
 パンの入っていた袋をくしゃくしゃに丸めながら、俺は問いかけた。
「もちろん! あと十巻ぐらいだから、来週には読み終わると思うよ!」
 フルーツサンドの生クリームを頬に付けたまま、ノエルは答えた。
「もう百巻読んだのか、早いな」
 そう言って、俺は自分の頬を指差す。彼は不思議そうに俺を見つめながら、自らの顔に手で触れた。そして指に付着したクリームを見るなり、顔を赤らめ視線を逸らしながら、指先を口に含んだ。
「で、でも、ほんとによかったの? 薫くんの言うとおり、事件の部分ほとんど読み飛ばしてるけど……」
「いいんだよ。あの漫画はキャラ同士の絡みのほうが面白いんだから」
「推理漫画なのに……?」
 怪訝そうに眉をひそめるノエルを尻目に、俺は教室の隅に向かってゴミを投げた。ほんの四メートルほどの距離、綺麗な放物線を描いて落ちたのは、ゴミ箱の少し手前だった。
 持っていたパンフレットの束をノエルの机に置き、立ち上がる。落ちたゴミと、ついでにポケットに入っていた謎のレシートを取り出し、まとめてゴミ箱の中に放り込んだ。
 席に戻り、背もたれに腕をかけた俺の顔を、彼はニヤケ面で見つめていた。
「珍しいね、外すなんて。雪でも降るんじゃない?」
「雨なら降ってるぞ」
「そういうことじゃなくて!」
 とぼけたフリをしながら、俺は眼鏡を外して彼に見せた。
「これのせいかもな、微妙に度あってないし」
「メガネ変えたの?」
「いや、壊れたから母さんのを借りてきた」
 つい今朝のこと、顔を洗うため外した拍子に手元が狂い、うっかり床に落としてしまった。慌てて拾い上げたが当たりどころが悪かったのか、レンズが外れてしまっていた。直し方もわからぬまま途方に暮れ、仕方なく母親の眼鏡を借りることにしたのだった。
「乱視用じゃないからちょっと見にくいんだよな……」
「よく見えないままだと危ないよ?」
「度はほぼ一緒っぽいし、大丈夫だろ。日曜にでも新しいの作りに行くし」
 首元から肌着を引っ張り出し、レンズを軽く拭きあげたあと、俺は眼鏡をかけ直した。
「ってか、お母さんはメガネなくても大丈夫なの? 同じくらい目が悪いってことだよね?」
「んー、まあ、大丈夫」
 少しだけ返答に詰まった俺の顔を、ノエルは不思議そうな顔で見つめていた。

 バッグを肩にかけ立ち上がり、振り返った俺の視界にノエルはいない。いつものように教室の真ん中、人だかりの中で彼はニコニコと愛想を振りまいている。あれこそが彼が本来属するべき、いわゆる『陽キャグループ』というやつだ。耳を澄ませ、かろうじて聞き取れた会話の断片から察するに、彼らはこのあと駅前のカラオケでパーティをするらしい。
 ……羨ましい、とは思う。学生という多感な時期に、大人数で愉快に遊ぶ。その楽しさが理解できないほど捻くれてはいない。ただ、自分からそこへ飛び込んでいけるほどの積極性も、勇気も、俺には備わっていなかった。それだけだった。
 無意識のうちに溢れた、僅かなため息も喧騒にかき消され、俺は足早に教室を出た。

「薫くん!」
 投げ落としたスニーカーが昇降口のタイルに転がった、ちょうどそのとき、背後から声が聞こえた。
「よかった、間に合った……!」
 人混みを縫うように駆け寄ってきたノエルは、俺のすぐそばで立ち止まり、そう言った。膝に手を突き、肩で息をしながら見上げるその頬に、大粒の汗が伝っている。
「あ、あのさ……! 昨日、配信されたばっかりの……! 面白そうな映画が、あって……! 薫くんさえよければ、またうちで……!」
 ぜえぜえ、という荒い呼吸音が、言葉の合間に混じる。教室から玄関までの距離を考えると……さすがに体力なさ過ぎじゃないか?
「……カラオケ、行くんじゃなかったのか?」
「あー……えと、断っちゃった」
 目を逸らし、彼は気まずそうに笑う。
「みんなが好きそうな歌とか、全然わかんないし……。大勢ではしゃぐのも、あんまり得意じゃないっていうか……」
 腕で顔の汗を拭い、シャツの襟元をつまんでパタパタと風を送りながら、彼は言った。
「そ、それで! その……一緒に、どう……?」
 身長の関係で、立ったままの会話ではどうしても俺が見上げられる形となる。必然的に上目遣いとなるノエルの、長いまつ毛に残った汗の雫が、蛍光灯の光を反射してキラキラと輝く。……元より断る理由もないが、これを断れる人間は居るまい、と思う。
「……じゃあ、そうするか」
「やった! じゃあ、一緒に帰ろ!」
 梅雨時の、鬱々とした雰囲気すらかき消してしまうような、そんな笑顔だった。靴を取りにまた走り出したその背中を、少しの優越感とともに見守っていた。

 ――そして今、俺はひどく後悔している。

 ノエルの家にはシアタールームがある。六畳ほどの小規模なものだが音響にこだわりがあるらしく、俺個人の感想ではあるが、音質に関しては映画館で観るのと遜色ないほどの環境と言えるだろう。
 ひと月ほど前に初めてノエルに誘われて以来、そこでの映画鑑賞会はもはや恒例となっていた。動画配信サービスによって不朽の名作から話題の新作まで、ほとんどの作品がネット上で楽しめるようになったこの時代は、俺たち映画好きにとってまさに黄金期と言えるだろう。テスト期間中はさすがに自重していたが、それでも放課後はほぼ毎日、彼の家へと押しかけていたほどだった。

 今日、ノエルが俺に提案してきたのは、五年ほど前に流行ったという、ある映画だった。「ちょっとだけ怖いやつみたいなんだけど……」と、伏し目がちに俺をチラチラと見ながら、彼は言った。
 ハッキリ言って俺は、ホラーというジャンルが嫌いだ。なぜなら『吃驚』や『恐怖』といった感覚は、元来『不快』なものだからだ。
 じっとりと、肌にまとわりついて離れない冷や汗。心拍数の上昇に伴う、疲労感や倦怠感。無数の小さな虫が全身を走り回るかのような、鳥肌の立つ感覚。それら全てが、ひどく『不快』で気持ちの悪いものだからだ。
 それをわざわざ享受しようだなんて、正気の沙汰とは思えない。故に俺はホラーというジャンルを嫌い、避け続けてきたのだ。決して怖がりなわけではない。断じて、ない。

 ともあれ、ビビっていると思われるのもマズイので仕方なく首を縦に振ったが、それが間違いだったようだ。
 概要欄には、「ジャパニーズホラーに影響を受け製作された、映画史に残る怪作」などと大仰な煽り文句が付いていたが、蓋を開けてみればとにかく不快な作品だった。どこかリアリティに欠けた設定に、気色の悪い言動を繰り返す登場人物たち。そして彼らを襲う、『幽霊』などという非科学的極まりない胡乱な存在。隣で食い入るように画面を見つめるノエルがいなければ、すぐにでも視聴を止めていただろう。
 何よりも許せなかったのは、「ジャンプスケアのないホラー」だとかレビューされてたにもかかわらず、終盤に思いっきり大きな音でびっくりさせてきやがったことだ。念のため再生前にトイレを借りるふりをして、ネタバレ注意のレビューサイトまで見に行ったが、俺が見た四本のレビューはどれもはっきりと「突然驚かせるような演出はないので初心者にも安心ですね!」だとかなんとかほざいていた。すっかり信じ込まされた俺は、まんまと奴等の策略にハメられ、隣で観ていたノエルに心配されるほど無様に驚き、声を上げさせられたのだった。
 帰り際、ノエルはずっと申し訳なさそうな顔をしていたが、俺は平然とした態度で彼の家をあとにした。悪いのはレビューサイトだ。適当なことばっかり書きやがって、全部に低評価付けてやろうか。そんなことを考えながら、俺はトボトボと帰路についた。

「とはいえ、あそこで断るのもなぁ……」
 さっきまでの雨音はどこへやら。雲間から顔を出した夕日が空をオレンジに染め上げている。濡れたアスファルトの匂いと、体にまとわりつくジメジメとした空気。湿ったぬるい風が、肌を舐めるように通り過ぎていった。
 水溜まりを避けようと出した右足の、靴紐がほどけているのに気付いた。俺はため息を一つ吐いてから、縁石に足を乗せ身を屈める。摘まんだ紐は過分に水気を含んでおり、結び終えた指には少し泥が付いていた。またため息をつき、立ち上がる。手を洗いたいという衝動をも払い落とすように、両手を軽くはたいてまた歩きだした。
「はぁ……しんど……」
 どんよりとした気分を全て出し切るかのように、三度目のため息をついた。
 トボトボと歩きながら、ふと視線を横へ向ける。歩道脇の公園内、滑り台の上に佇む一人の少女が目に留まった。少女といっても、うちの制服を着ているところを見るに同年代だとは思うが。
 それにしても、なんと絵になる光景だろうか。夕焼けに染まる公園に、空を眺める女子高生が一人。肩まで伸びた髪が風に揺れている。後ろ姿しか見えないのが実に感傷的だ。
 その光景は、まるで青春映画のワンシーンのようだった。例えるなら、恋に破れた少女がその悲哀と孤独感を噛み締め、それでも前を向こうと、胸の内で必死に戦っているような、そんな場面だ。カメラが切り替わり、彼女の頬を涙が伝っていくという流れまでもが、はっきりと想像できた。
 思わずその場に立ち止まり、ほんの少しの間だけ見惚れていた。それに気付いてか、彼女は不意にこちらを振り返る。知らない男にジロジロ眺められるのも、あまり気分の良いことではないだろう。そう思い、俺は慌てて顔を逸らし歩きだした。一瞬目が合ったような気もするが、彼女の顔はぼやけていて、よく見えなかった。
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