Parasite

壽帝旻 錦候

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episode 17

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 飛行場を出て、北へと真っ直ぐ進みだした日野浦さんが運転する軽装甲機動車。
 左手に港らしき景色、そして、高圧電流が流れていそうなフェンス越しに見える軍事施設が目に入った後に、延々と続く雑木林。
 散々疑惑の目を向けられ、追及を受けていた日野浦さんが案内人役である車内は、けっして居心地のいい雰囲気ではない。
 楽しい世間話がされるわけでも、和気あいあいといった感じで、今後の行動を話し合うわけでもなく、皆、無言でピリピリとした空気が流れていた。

 助手席に座る神崎さんにしても、この微妙なムードを打ち壊したい気持ちはあるようだが、自分よりも遥かに上の立場である日野浦さんへは、むやみやたらに話しかけるのもおこがましいと思うらしく、かといって、後ろを向いて本郷さんに話しかけるのも、隣で運転している上官に気がひけるようだ。

 結局、気まずそうな表情を真っ直ぐ前に向けて、固まっている。
 僕は、そんな彼を斜め後ろから観察しつつ、その向うに見える景色を眺めていた。
 車は一度も曲がる事なく、真っ直ぐ走ること数十分。
 バックミラー越しに日野浦さんの目と僕の目が合い、声をかけてきた。

「百瀬君と言ったかな。気分でも悪いのかい? さっきから眉間に皺を寄せて、黙り込んでいるけれど」

 台詞自体は、こちらを気遣うようなものではあるが、ミラーに映る彼の目も、ねちっこい話し方も、何か探るような雰囲気が感じられた。 
 こういう場合、大概、やましいことがあるものだと相場は決まっている。
 腹の中で思っていることは、隠すようなものでもないし、むしろ、彼の言動を見て、自分の考えは正しいと確信を持ったので、ここでハッキリさせようと口を開いた。

「この車両。どこに向かっているのですか?」

 ここは駆け引きなく、ストレートに聞こうと思い、子供だからとはぐらかされないよう、なるべく冷静に落ち着きを払った言い方をすると、彼は、僕が自分を疑っているのかと思ったらしく、こちらの警戒心を解こうと、目尻の皺を深くして、人のよさそうに見えるように作った笑みを浮かべて答えた。

「勿論、研究所に決まっているじゃありませんか」

 自分よりも下の立場であろうと、相手がたとえ子供であろうと、丁寧に話すところは立派だとは思うが、一度化けの皮が剥がれた後なので、それ以上にうさん臭さが増す。
 嫌悪感から、ピクリと目の下が痙攣した。

「それは嘘ですよね」

 既に、彼の嘘は見抜いている。
 僕は自信に満ちた声で否定した。
 途端に彼は表情を歪ませるものの、ここで慌ててしまえば、僕の言っていることが正しいのだと言っているようなもの。
 コホンッと咳払いをし、「何を言っているんだい? 君は、この島のどこに何があるかを知らないだろう? わたくしは、この島を統括している身。隅々まで知っているのだから、この道で間違いない」と、僕のことを貶めつつ、間違いなく研究所に向かっていると断言した。
 これには他の二人も、日野浦さんに対して疑惑の目を向けるよりも、不思議そうな顏をして僕を見つめた。
 日野浦さんの言っているように、僕はこの島に一度も訪れたこともなければ、島内に何があるか知っているはずもない一般人。
 それなのに、何を根拠に自分達が乗っている車が、研究所の方向に向かっていないと言い切っているのか、興味をひかれた様子だ。

「はぁ――っ」

 大きく息を吐くと、好奇の目で自分を見る二人の視線を気にせず、ミラーに映る苦々しい顏をした日野浦さんだけを見据えて、背筋を伸ばした。

「僕達が乗って来たヘリは、何故か中々着陸許可がでなくて島の上空を何回も旋回していたんですよ。その時、僕はしっかりと脳に刻み込んでいたんです」
「何をですか?」
「おまえ……まさかっ」

 とぼけたような声で問いかける日野浦さんに、真横で大きく目を見開いて驚いたような声を出す本郷さん。
 この二人は、態度こそ正反対ではあるが、僕がこれから言おうとしている内容を大体想像出来ているようだが、後ろを振り向いたまま、キョトンとした顏で、本郷さんと僕の顏を交互に見つめている神崎さんだけは、話しが見えていない様子。

「何をって……勿論、島の全体図ですよ。航空写真のように、僕の脳にはしっかり焼き付けてあります。この島は、南北に僅かに長い楕円形のような形。中央に銀色に輝く高いタワーのような建物があり、そこから東西南北、十字に伸びる幅の広い道路。これが主線道路。そして、主線道路と主線道路の間。きっちりと45度の角度でバッテンのような形状で造られた人工河川」

 ハンドルを握る日野浦さん手が白くなっていくのを、隣に座る神崎さんの目が捉えていた。
 明らかに動揺し、彼の肩や手に力が篭っているのを示している。
 彼の変化に気が付いているのは、神崎さんだけではない。
 ミラー越しにずっと目や口元、表情筋を観察している僕だって察知しているが、彼に反論の余地を与えない為にも、僕は、自分が島の中の位置情報を正確に把握していることを説明していく。

「海岸沿いには、飛行場や港、それに国防軍の基地らしきものの他に、発電所。それに、何に使うかは分かりませんが、コンクリートで整備された広い広場。その内側に道路が円形に整備され、東西南北に伸びた主線道路と交わるようになっている。道路の内側には田畑や工場、それに一区画だけ、高い壁に囲われた敷地の中に大きな建物がいくつか立ち並ぶ場所。ここがきっと例の安全地帯でしょう」

 ヘリで島を真下に見下ろし、島の位置情報を把握しようと、太腿の上に指で図を描いていた時と同じように、その時の記憶を間違えることなく引き出す為、太腿の上を指でなぞる。
 太ももから伝わる感覚が、脳を刺激し、自分が目で見た景色が明確に蘇る。

「それらの区域の内側には今度は道路ではなく、河川。その内側には、今度は団地や病院、スーパーやちょっとしたデパート。それに映画館やスポーツ施設と言った、衣食住、医療、娯楽等の島民の生活スペース的部分。あぁ。当たり前ですが、主線道路以外にも、農道や路地などの生活道路は、進んで行けばいずれ主線道路と合流するように張り巡らされていましたけれどね」
「それで、君は一体何が言いたいのですか?」

 真っ直ぐ前を向いたままの日野浦さんは、僕がここまで説明しても、一向に車を停めることなく、自分が目指す目的地に向けて走らせたまま、感情を押し殺したような声で聞いた。
 頑固で融通のきかない彼に対し、困ったような笑みを浮かべて肩を竦めて続きを話す。

「要するに。主線道路と河川。それらによって分けられたブロックは合計16区。そして、そのブロックとは別に中央にある立派な建物。飛行場から出てから、僕はずっと、右手遠方に見えるあの建物を角度を変えながら見ていましたが、一向に近付く気配はない。あれこそが、この島で一番重要な施設。『paraiso』であり、重大な研究がされるのであれば、あそこしかない」

 ここで一旦区切ると、チラリとバックミラー越しにこちらを盗み見た日野浦さんと目が合う。
 彼の目は血走ったように赤かった。

「それで?」

 追い詰められ、後が無いのを分かっていながら、その悔しさを堪えるよう、奥歯を噛みしめて、自らとどめをさす言葉を口にした。
 彼の表情から余裕が消えている。
その様子が意味するのは、僕が語るものに間違いが無いということ。
 印籠を突きつけるかのように、胸を張り、堂々とした態度で僕は告げた。

「この車は、沿岸部と工場や田畑との間にある主線道路をずっと真っ直ぐ走っています。これでは、いつまでたっても『paraiso』施設に到着するわけがありません」

 ここで終わらせればいいものの、納得がいかないことに対しては、どうも理詰めで追及してしまう癖がある僕は、日野浦さんの言葉を待たずに、彼に誤魔化す余地を与えないよう問い詰めた。

「飛行場があるのはこの島の南西の西よりの外側にあります。が、僕の推測では、現在地は島の真北。このまま進めば、工場地帯、発電所、そして、コンクリートの広場へと進むことになりますが、あなたは一体――」

 悲痛な音と同時に、乗員全員の体がつんのめる。
 シートベルトをしているだけでなく、それぞれの反応も良かったので、座席から落ちることも、窓ガラスで頭をぶつけるような人もいなかったが、急ブレーキをかけられても、車体の重い特殊車両なだけに、タイヤをコンクリートの上で滑らせた後に停止した。

「あっぶね――」
「ひ、日野浦空将っ!」

 心臓をバクバクさせ、目をひん剥きながら、非難めいた言葉を発する二人のことなど、まるで眼中にないかのように、今までとは違う、やけに深刻そうな表情をした日野浦さんが、身体ごと捻って後ろへ向いた。

「本当に、君は賢い子だ。クイ……いいえ。『paraiso』研究チームの天才生物化学者・上田チーム長が言っていただけのことはありますね」
「上田って、もしかしなくても、直也さんのことですよね?」
「その通りです」

 軍事機密の研究をしているメンバーに選ばれているのだから、軍の幹部と克也の兄と面識があってもおかしくはないが、それにしては、やけに親しげな日野浦さんの話し方が気になる。
 しかも、直也さんから直接、自分の事を聞いたようなそぶりを見せる彼の言動に、僕は疑わしげな視線をやった。

「ふふふ。わたくしが何故、上田チーム長から君のことを聞いたのか不思議に思っているようですねぇ。実は、わたくしも上田チーム長も。あの、『paraiso』研究所で行われている実験や研究には反対しているのです」
「えぇっ?」
「なんだって!」
「なっ! 日野浦空将、それは、国家に対して……」

 思いもよらないカミングアウトに、三者三様、驚きの声を出す。

「国家云々よりも、人間として。いいえ、この世界に生きるモノとして、絶対に研究してはならないものなのですよ。正直、所長はどうお考えなのかは分かりませんが、アレは人間なんかがコントロール出来るものではありません」

 お国の為に命をかけることを職務としている日本国防軍の軍人としては、国家の命令に背くことは絶対に許されない。
それでも、生きているモノとしては、倫理に反するべきことをしているのだから、反対するのは当然のことだと神崎さんに向かって諭す日野浦さんの姿は、今までとまるで別人。

「お察しの通り、私がこれから君達を連れて行くのは、『paraiso』の軍事機密研究所ではなく、この島の施設全般の設計を手掛けた人物が、こっそりと造らせた秘密の核シェルターです」
「核シェルターだってぇ?」
「龍平ジィは、そんなものまで?」

 後部座席に座る僕達の反応が予想通りだったのか、満足そうな顏をする。

「流石に、このことは秘密特殊部隊の方々にも調査しきれていませんでしたか」

 目を細めて本郷さんの顏を見たあと、すぐに僕へと視線を移す。
 彼には隠していたというのに、既に本郷さんの身元がバレていた事に目を丸くし、神崎さんを見るが、彼は慌てて首を振る。
 神崎さんが喋った訳ではなさそうだ。
 だとするなら、この日野浦さんという人間。
 伊達に空将はやっていない。
 本郷さんをチラリと見やれば、同じ事を考えていたのか小さく頷いた。

「百瀬君。君の言う通り。上田龍平さんは、軍事機密研究所の設計プロジェクトのリーダー。単なる研究施設だって、危険な薬物や、想像の出来ない化学反応を起こすものを取り扱ったりするが、軍事研究所であれば、尚更、危険度は増します」
「軍事というからには、兵器も新たに開発するわけですもんね?」

 少々厭味のこもった僕の言葉には返事はせず、代わりに少々苦笑いを零した。

「対物、対人、対生物。それらの破壊や死滅、そして治療を目的としているのですから、研究中に事故が起きた場合、研究所は勿論のこと、その施設周辺にまでも被害が広がる可能性を考えておられたのでしょう。少し離れた沿岸部の地中に、空調システムを整え、非常食や水を貯蔵した頑丈なシェルターを念の為に作っておいてくれたのです」
「じゃぁ、そこがアンタら『paraiso』反対者……まぁ、いうなりゃレジスタンスのアジトになってるってことか」

 横から口を挟んできた本郷さんに向かって頷く日野浦さんは、「わたくし達とは『目的』は違いますが、飛行場での話しから推測しますと、貴方も、『paraiso』には反対なさっているのでしょう?」と、意味深な言葉を含みながら同意を求めると、素直に「ああ。反対している」と答えた。

「わたくし達は兵士や労働者……ここに連れて来られた島民達の一部で構成されているのですが、腕っぷしは強くても頭が良くても、いかんせん、システム関連には弱くてねぇ」

 情けない顔をして失笑するが、すぐに言葉を続けた。

「彼らはまだ、私が反逆者だとは露とも思っていません。それどころか、私のことなど、彼らの言いなりになるロボットぐらいにしか思っていないでしょう。ですから、軍事機密研究所の内部にわたくし一人が入ることぐらいは簡単です」

 自らを政府の操り人形のように見せかけて、虎視眈々と『paraiso』計画をぶち壊す機会を狙っていたのだろう。
 興奮しだすと、充血しやすいのか、彼の目が赤くなっていく。

「ですが、研究施設を破壊するとなると、いくら内部に我々が侵入出来たとしても、セキュリティシステムの作動と、内部にいる兵士達からの攻撃によって、あっという間に我々は全員消される事になる」

 声の質が硬くなっていくのを感じる。
 噂では、鼠一匹どころか、虫すらも侵入出来ないほどの堅固な建物。
 もし、招かざる者が侵入したとなれば、たちまちレーザーや、罠によって跡形もなく消されるとのこと。
 それを肯定するような彼の話に、ゾッとしないわけがない。

「そこで、本郷さんと百瀬君。君達二人には是非とも、施設のシステムに入り込んで、セキュリティシステムを破壊までは出来なくても、一時間……いいや、数十分でも構わない。少しの間、停止させることは出来ないでしょうか?」

 何故、この人は、僕と本郷さんがパソコンやシステム関連に精通していることを知っているのか?
 猜疑心を含んだ目を向ければ、その視線に気が付いた彼は、その理由をすんなりと口にした。

「確か、本部からの調査報告書を見ると、本郷さんは、政府機密システムのセキュリティ担当経験者。そして、百瀬君。君は、三年前に、世界を騒がしたクラッカー集団WOFを壊滅に導いた天才ハッカー。君達が力になってくれたら心強い」

 国家がバックについているだけあって、政府が握っている情報は全て筒抜けっていうことか。
 自分の政府機密システム突破&小細工事件や、本郷さんが秘密特殊部隊所属だという部分に関しても、日野浦さんはとっくの昔に把握していた可能性が高い。
 知られてしまっているのであれば、焦って誤魔化すような真似をしても仕方がない。
 気持ちを落ち着け、日野浦さんの顏を見ると、縋りつくように僕と本郷さんを見る目は、先程よりも更に充血していた。
 その異様な白目の赤さに違和感があったが、彼にも克也や米澤さん同様、救出したい人間の中に大切な誰かがいて、その人を想う気持ちから目を潤ませているのかと思い、いたたまれない気持ちになって目を伏せた。

 実は、この小さな動作が間違いであった。
 僕らはこの時、しっかりと日野浦さんの目を見ておくべきだったのだ。
 真っ赤な白目の中で、うねるような動きがあった瞬間があったのだから。
 それを目にしていたなら、『paraiso』反逆軍の真の目的を吐かせることは出来なくとも、僕達二人の頭脳であれば、ある程度のところまで推測出来たであろう。

 だが、それも全ては後の祭り。

 運命というものは、自分達の思いもよらない方向へと進むものである。
 幾分か考えるように、腕を組み考え込んでいた本郷さんの口端に、彼らしい自信に満ち溢れた笑みが浮かぶと、落としていた視線を再び日野浦さんへと向けた。

「あぁ。大丈夫だ。俺にできねぇことはねぇ。必要とあれば、施設のシステム全てをシャットダウンすることだって可能だ」

 得意満面な本郷さんの言葉に若干、詰めの甘さが残っていることに気が付き、僕が補足する。

「企業内のコンピューターや多くのシステムを連結し、管理するマザーコンピューターでもそうですが、国家機密のシステムといえば尚更。強制シャットダウンさせても、『paraiso』を管理するマザーコンピューターは自ら復旧作業を行い、すぐにまた起動してしまうでしょう。いっそ、クラッキングしてしまった方がいいでしょう」
「おいおい。空調や非常扉だって管理しているシステムだぞ? 破壊したら、空調は止まるは、緊急事態っつーことで扉は閉るはで、施設内にいる人間全員に危険が及ぶ可能性の方が高いだろがっ」
「……それもそうですね」

 僅かに間を開けてしまったのは、僕の中で、微かに湧き出でる不満があったからではあるが、彼の指摘は至極もっともなこと。
 反論した場合、自分の方が、周りの皆から、罪もない人の命をも顧みない非道なやり方だと罵られるに決まっているので、素直に本郷さんの意見に従った。
 僕達からの前向きな返答を聞き、日野浦さんは「良かったです」と、ぼそりと呟くと、ふいに小難しい顏をした。

「本当だったら、鶴岡一等空佐達とバラバラに行動するとなると、彼らの安否にも気遣わなくてはいけないので、一緒に来て欲しかったのですが、仕方ありません」

 やけに、皆一緒に自分と共に行動することに執着していた理由を漏らす。
 要するに、彼が率いるレジスタンス〈反逆軍〉が行動を起こせば、『paraiso』を護る国防軍も、島を管理するマザーコンピューターも、今回入島したメンバー全員を危険因子とみなすのは間違いない。
 こうなってしまったからには、あっちはあっちで、自分達の身は自分達で守って貰うしかないが、そうなる前に、マザーコンピューターを破壊したいというのが、僕の本音であった。
 話しがひと段落したところで、本郷さんは日野浦さんに向かって右手を差し出した。

「飛行場では、心底怪しいオッサンだと思ったし、それは今でも変わらねぇ。けど、ただでさえ厄介な案件。ここでアンタとまで敵対したら、更に面倒臭いことになりそうだ。まぁ、『paraiso』に関しちゃ、共通の敵っつーのがいるみたいだし。一時休戦っつーことで」 

 あんなにも毛嫌いしていた男が、サバサバとした態度で手を組もうという趣旨の行動にでたが、それを当然のように受け止めた日野浦さんは、ゆっくりと差し出された手を握り返した。

「ええ。軍事機密研究所にはわたくし達の仲間がいます。彼らの救出と、研究所の破壊までは、手を組みましょう。わたくしは、出来る事ならば所長も……」

 最後に何かを言いかけたが、すぐに口元を手で覆い、言葉を止めた彼の表情から、ここでその続きを追求しても、決して口を割りそうにもないだろう。
 彼が何を背負っているのかは分からないけれど、島内でおきたウィルス感染においても、生きている兵士までをもモルモットにするような政府のやり方。
 そんなやり方を平気で実践する研究者や、それを許す政府が計画し、進めている軍事兵器の研究は、人道に反するものだというのは、誰にだって想像できるもの。
 人間として生まれたからには、そんな倫理に反する研究は許せないという彼の意志は尊重すべきものであり、自分達の価値観とも一致する。
 ひとまずは、この島をよく知る彼と、彼の仲間達と手を結んだ方が心強いし、効率的だ。

 逆に、ここで交渉決裂となってしまえば、厄介事が増えるだけ。

 日野浦さんの話を聞き、一定期間だけとはいえ、あまのじゃくな本郷さんは、協力し合うことを即決したのは賢明な判断だった。
 二人がしっかり握手を交わし、車内の空気が穏やかになったと思いきや、日野浦さんは、ピクリと眉を動かし、視線を神崎さんの越しに、助手席の窓の向こうへと静かに向けた。

「いけません。ヤツらが嗅ぎつけました」
「え?」
「ヤツら?」
「はっ? 日野浦空将、それは一体……?」

 僕達三人が、日野浦さんが見ている方へと視線を移動させると同時に、握手を交わしていた手を解き、姿勢を正す。
 絶妙な力加減でアクセルとクラッチを踏みつつ、流れるような動作でギアを動かすと、大きな鉄の塊がスムーズに動き出す。
 その瞬間、アクセルを力強く踏み込んだ。
 一気に回転数が上がり、エンジンが悲鳴のような音を響かせて加速する闘牛のように荒ぶる車両の中、体に圧がかかり仰け反るようにして背もたれに背中を預けると、自分達の左手側の窓から見えた光景に声を失った。

 軽装甲機動車が発進する直前、雑木林から無数の手がこちらに向かって伸びて来たかと思えば、木の枝をものともせず、無理矢理にでも道路へ飛び出してきた人、人、人、人――

 日野浦さんが瞬く間に車体を走らせ、彼らを振り切ってくれたお陰で、彼らの姿をしっかりと見ることは無かったが、突然、沢山の手が襲い掛かって来るのはある種、トラウマもの。
 しかも、その手の持ち主たちが、集団でこの車両の後を追いかけてくるという異常さ。
 ホラー映画の中でしか見られないものが、今、現実に目の前で起きたのだ。
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