5 / 5
【番外編】君のために
しおりを挟む
『君のために』
その子は父の後ろに隠れて、なかなか出てこようとしなかった。
挨拶をしなさいと促され、ゆっくり覗かせた顔が可愛らしい。黒髪に黒目、どこにでもいそうな平凡な子。だけど、涙で濡れた目が印象的で、じっと見つめられると胸が苦しくなった。
ブルーノは怯えていたその子に手を差し伸べた。
そうしないと父に怒られるかと思ったのだ。父は厳しい人だった。いつも小さな鞭を持ち歩き、公爵家の息子として相応しくない振る舞いをすれば、容赦なく鞭が飛んだ。
義務感から伸ばした手を、その子は縋るように掴んだ。不安に怯える瞳が揺れている。濡れた唇から息をする小さな音が聞こえてきた。
父親を亡くし、連れてこられた子供。どうでもいいと思っていたのに、見ているだけで胸が締め付けられる。この小さくて愛らしいものは何だろうと思った。
汚れのない、澄んだ美しい瞳。ブルーノのは孤独と悲しみに揺れる彼をほしいと思った。
自分だけのものにしたいと。
誤算だったのは、弟のユルビーもまた、彼に惹かれていたということだ。
まぁそれはいい。
ユルビーは自分と同じく、父の暴力に耐えていた同士だったから。
イシュマはブルーノの弟、ユルビーの兄になった。
イシュマの存在は多くのものを変えた。
あれだけ厳しかった父がイシュマの純粋さに触れ、毒が抜けたように人が変わった。鞭を振るう回数が消え、鞭を持ち歩かなくなり、どこかに消えた。
ブルーノは彼を弟として愛し、優しく接したが、心のどこかに足りないものがあった。イシュマをめぐりユルビーと喧嘩をした時、やめないと嫌いになると言われた。
体が凍りつきそうなくらい冷えて、悲しくて怖い気持ちになった。父に打たれた時だって、こんな気持ちになったことはない。
イシュマとユルビーはお互いを認め合うことにした。イシュマと一緒にいられるのなら、それでいい。足りなくても、満たされなくても、彼がそばにいてくれるなら……。
もし、自分達を引き裂くような者が現れたら、容赦はしない。
そう思っていた。
「くだらない。ただ話題に乗って後追いしたものだ。低俗誌の記事など読むに値しない。今まで通り、圧力をかけておけ」
「かしこまりました。あと改良品が届きましたので、こちらに置かせていただきます」
執事が箱から瓶を取り出して机の上に置いた。ブルーノが手を払うと、執事は彼が投げた雑誌と空箱を持って部屋を出て行った。
「おいおい、これ催淫薬か? うちのお堅い薬品部門はいつのまにこんなものに手を出したんだ?」
ユルビーは執務室の窓辺に立ち、話を黙って聞いていた。執事が出て行ってから、机に置かせた小瓶を持ち上げてカタカタと振った。
「需要があるからだよ。体に負担がかかるようなものではなく、軽く興奮作用があるくらいのものを欲しがっている連中は大勢いる。まぁ本当のところは、イシュマに使おうと思って作らせたんだけど」
「お前なぁ……」
ブルーノはイシュマのことになると、善悪の判断がつかなくなる。ユルビーは頭をかきながら、小瓶を机の上に戻した。
「イシュマは僕達のこと好きになってくれたから、もう必要ないけど、たまに使うのもいいかも。乱れたイシュマもたまらないからさ」
「ほどほどにしろよ」
そう言って嗜めるユルビーの顔も満更ではない。イシュマに夢中なのは、二人とも同じだ。出会った時に心を奪われ、成長した今も変わらない。抱き合うようになり、もっと執着が溢れ出して、家に縛りつけたい気持ちを抑えるのにやっとだ。
イシュマに嫌われたくないから、そんなことはできないのだけど。
「お父様の件なら心配しなくていい。関係者の口は封じておいたし、証拠は全部、雨と嵐が消してくれた」
「ああ、そうだな」
父は死の一ヶ月前、ブルーノとユルビーを書斎に呼び出した。ユルビーの恋心に気づき、それを正そうとした。
「イシュマを結婚させる。相手とは話がついている」
「何ですって……!」
ユルビーが身を乗り出すと、父は静かに彼を睨んだ。
「汚れている。精神を叩き直せ! この出来損ないが! お前も邸を出て、騎士の宿舎に行くんだ」
「ユルビーが汚れているなら、僕も同じですね」
「何だと……!? ブルーノ……お前もまさか……」
ブルーノは父を睨みつけながら、微笑を浮かべる。それを見た父は頭を抱えた。
「プリンプ家を守らなければ……、とにかく、イシュマにはこの家から出て行かせる。本人にはまだ話さないが、これは決定だ。地方領とはいえ、いい暮らしができるはずだ。私も引退すればそこへ行くつもりだ。あの子ならきっと、私を歓迎してくれる」
父は少しおかしくなっていた。
一人でぶつぶつと呟いて、焦点の合わない目で笑っていた。
どう考えてもありえない話をしており、ブルーノはユルビーと顔を見合わせる。
「あの子を守るんだ……。ここから遠ざけて……私だけのものに……愛しい愛しい、私の――」
バン!!
大きな音を立て机を叩いたので、ユルビーが驚いた目で見てきた。
「何でもない。嫌なことを思い出しただけだ」
「早く寝ろよ。エロイズのことも上手くいったとはいえ、気疲れしたんだろう?」
「あんな小者一人消すだけ、大した労力ではない」
執事が持ってきた雑誌には、エロイズについての記事があった。権力者であったが、いざ亡くなると、みんな手のひらを返したように彼の悪口を言って喜んでいる。方々で恨みを買っていたので、彼の死に疑問を持ち、調査を訴える者などいない。
今だとばかりに、隠し子達が騒ぎ出し、財産の奪い合いが起こっていた。
「まぁ、特定の果物を避けているという情報しかなかったから、イシュマが鍵を見つけてくれたのもある。だけど、気に入らない……もっと苦しめる方法がよかったかな」
「あの場で切り捨ててもよかったが、後が面倒だからな。それにしても、目を光らせておかないと、すぐ虫がつく。厄介なやつはもう勘弁だ」
思うところは同じだ。
二人でうんうん頷いていると、ノックの音が聞こえてきた。ブルーノがどうぞと言うと、カチャリとドアが開けられて、イシュマが顔を覗かせる。
「イシュマ!」
イシュマの方から部屋を訪ねてくれるなんて珍しい。ブルーノが飛び跳ねるように立ち上がると、イシュマは部屋の中を見渡した。
「ユルビー、やっぱりここにいたね」
「おう、どうした?」
「剣の稽古をつけてもらおうと思って。最近、腕が鈍っている気がしてさ」
イシュマが腕をぐるぐる回しながら部屋に入ってくる。その姿が可愛くて思わず口元を綻ばせたが、剣の稽古という言葉にムッとしてしまう。
「いいぞ。新しい剣が届いたから、それを試そう」
「ありがとう、助かるよ」
イシュマは事務方だが一応騎士団の所属だ。父を守りたいなんて言って騎士団に入ったのだが、今でも時々ユルビーに稽古を頼んでいる。
ブルーノは他のことなら何でも教えられるが、剣だけは不得意だった。ユルビーに譲るしかない。
二人並んでニコニコしながら部屋を出ていく姿に、気分が悪くなる。しかもユルビーが少し振り返り、ニヤっと笑ってくるのでもっと不快だ。
「ブルーノはどうする?」
「僕は……書類仕事が残っているからここにいるよ」
イシュマも足を止め、振り返ってきた。不貞腐れながらそう返すと、イシュマはニコッと笑った。
「仕事、頑張ってね。俺さ、もっと強くなって、ブルーノの護衛騎士になるよ。ブルーノのことは、俺が守るからさ」
腕を振り上げ、高らかに宣言するイシュマを見て、不機嫌不快嫉妬の壁がボロボロと剥がれていく。
「よーし、頑張るぞー!」
来た時と同じで、腕を振り回しながら、イシュマは意気揚々と歩いていく。その後ろをユルビーが追いかけていった。
パタンとドアが閉まると、ブルーノはその場に座り込んだ。
「バカ、好きになっちゃうじゃん」
もうとっくに好きなのだが、ズブズブ深みにハマっていく。ブルーノは真っ赤になった顔に手を当てる。
しばらく仕事は手につきそうになかった。
『君のために』
私の名前はドレイク。
仕事はこの世界でいうところの、掃除屋というところでしょうか。
上司は言うならば社長、私はただの手下に過ぎません。けれど、裁量は任されており、世界が完全破壊されない限り、小さな綻びには目を瞑っております。
その塩梅は難しいところです。
新たな指令が来た時、私はまた退屈な巡回業務だと思いました。別の世界から魂が流れ込み、この世界に生まれてくる人間へ宿ったということでした。
滅多ない事例に、少し心が動きました。
世界へ降りて行くと、生まれたばかりの赤ん坊の男の子と出会いました。
男の子はよく泣いて、よくお乳を飲み、父と母に可愛がられすくすくと育ちます。記録によると、この世界が何たるか記憶を持っているということでした。
さて、成長してどう出るかと楽しみになりました。
まずは観察すること。
それが私の仕事なのです。
男の子の母が病気で亡くなりました。
父親は騎士として仕事をしながら、一人で男の子を育てます。父の愛情を受けて、男の子はとてもいい子に育ちました。父のことを助けようと家の仕事を一生懸命頑張っていました。
しかし、シナリオは悲劇へと向かいます。
父は主君である公爵を助けて命を落とします。その恩に報いるため、公爵は天涯孤独となった男の子を自分の養子に迎え入れました。
シナリオ通りとはいえ、何とも悲しい展開に、私の心は乱れます。プログラムごときが、子供を持ったことなどもちろんないですが、切ない気持ちになります。切ない、という表現が正しいのかは不明です。
そして義兄と義弟との初対面、差し出された手を叩くはずが、男の子はその手を取りました。
おっとついにエラーの発生です。どうやら前世の記憶箱が開いたようです。
これは困りました。果たしてすぐに処理していいものか。悩んだ末、私はまだ観察を続けました。
男の子は仲違いするはずの義兄弟と仲良くなりました。どうやら、関係性を変えて生き残る道を模索しているのでしょう。前世の記憶が戻り、この世界について理解したならば、自分の最期も当然頭に入ったはずです。それを変えようとするのは、誰でも思いつくところでしょう。
しかし、そう上手くいくでしょうか。
なんのスキルもない。ただの平凡な平民では、どんなに足掻いたとて……
そう、思っていましたが、どうやら間違っていたようです。
男の子はとても頑張り屋で、真っ直ぐな性格をしておりました。彼の優しさと純粋さに触れ、周囲の人々は変わっていきます。
義理の父も義兄弟も、驚くほど顔つきが変わりました。同時に、ただの家族として括れないものが見えてきました。
どうやらこの家族は元々問題があり、兄弟は傷を負って生きていました。そこに飛び込んできた男の子は、傷ついた兄弟の心を癒し、彼らに幸せの風を送り込みます。兄弟が男の子に熱い視線を送り始めたのを見て、私はため息をつきました。
これはもう、取り返しのつかないところまできてしまったと。
公爵家の庇護の下、男の子は立派に成長しました。
相変わらず運命を変えようと模索し、いつか全てを奪われるのではないかと怯えています。
そして彼と義兄弟の間に、いよいよ風が吹き荒れます。
公爵の死もまた、予想外のもので、私は頭を悩ませるしかありません。とにかく仕事をしなければいけないので、そろそろ介入することにしました。
何とも不本意な役所ですが、彼を元のシナリオに戻すため、不安にさせて反政府組織へと誘い込みます。
分かっています。こんな役所はごめんでした。
しかし、私が道を逸れるわけにはいきません。彼ならきっと、正しい道を選ぶだろうと信じていました。
ええ、もうこの頃には、正しい道の意味がすっかり変わっていましたね。
そして、彼に迫る魔の手。
エロイズ伯爵については、個人的に嫌悪していたことは認めましょう。レストランで彼の料理に手を加えたことは……まぁ知らなかったことにしてください。
悪趣味な男でしたが、ラペルピンの趣味だけは認めてあげます。彼の瞳と同じ色で気に入りました。床に転がっていたので、今は私の胸元で輝いております。
とにかく、義兄弟達の活躍により、エロイズ伯爵を懲らしめることができました。そして、プレイヤーの選択により、反乱イベントは回避され、彼が生き残ることは決まりました。
なんと喜ばしいことでしょう。
これで、私の仕事も終わりです。
「ああ、またこんなところで寝て……。どこでも寝てしまう癖は、全然治りませんね」
木の上にいるドレイクは、根元でスヤスヤと眠っている彼を見て、ふぅと息を吐く。
子供の頃は風邪をひかないように、毛布をかけてあげたこともある。今それをしたらおかしいので、我慢しながら彼の寝顔を見つめる。
「大きくなりましたね。とても幸せそうだ」
どんな夢を見ているのかと、頭の中まで覗きたくなってしまう。観察が仕事ではあるけれど、さすがにそこまでできない。
もう会うことはない。
彼にはそう言ったが、これほど興味を引かれる人物を観察せずにはいられない。彼の選択した愛の形もまた、ドレイクの興味を膨らませた。
だから、観察は続けることにする。
「あぁ大変だ。よだれがあんなに垂れて……」
スルスルと木から降りたドレイクは、彼の口元にハンカチを寄せて、丁寧に拭き取る。
「ん……っ」
当の本人はむにゃむにゃと口を動かして、気持ちよさそうな眠りを続けていた。
「貴方と一緒に世界を壊すのも楽しいかもしれませんね。まぁそんな日は来ないでしょうけど」
遠くを見つめたドレイクは、細い目をもっと細める。
「おや、もう少し見ていたいのに、面倒な男が帰ってきたようですね。そろそろ行きますか」
ドレイクは帽子をかぶり直し、指をパチっと鳴らした。そよそよと吹いていた風が、強い風に変わる。
「また会いにきますね」
強い風に乗って空へ舞い上がり、ドレイクは姿を消した。
《番外編 おわり》
その子は父の後ろに隠れて、なかなか出てこようとしなかった。
挨拶をしなさいと促され、ゆっくり覗かせた顔が可愛らしい。黒髪に黒目、どこにでもいそうな平凡な子。だけど、涙で濡れた目が印象的で、じっと見つめられると胸が苦しくなった。
ブルーノは怯えていたその子に手を差し伸べた。
そうしないと父に怒られるかと思ったのだ。父は厳しい人だった。いつも小さな鞭を持ち歩き、公爵家の息子として相応しくない振る舞いをすれば、容赦なく鞭が飛んだ。
義務感から伸ばした手を、その子は縋るように掴んだ。不安に怯える瞳が揺れている。濡れた唇から息をする小さな音が聞こえてきた。
父親を亡くし、連れてこられた子供。どうでもいいと思っていたのに、見ているだけで胸が締め付けられる。この小さくて愛らしいものは何だろうと思った。
汚れのない、澄んだ美しい瞳。ブルーノのは孤独と悲しみに揺れる彼をほしいと思った。
自分だけのものにしたいと。
誤算だったのは、弟のユルビーもまた、彼に惹かれていたということだ。
まぁそれはいい。
ユルビーは自分と同じく、父の暴力に耐えていた同士だったから。
イシュマはブルーノの弟、ユルビーの兄になった。
イシュマの存在は多くのものを変えた。
あれだけ厳しかった父がイシュマの純粋さに触れ、毒が抜けたように人が変わった。鞭を振るう回数が消え、鞭を持ち歩かなくなり、どこかに消えた。
ブルーノは彼を弟として愛し、優しく接したが、心のどこかに足りないものがあった。イシュマをめぐりユルビーと喧嘩をした時、やめないと嫌いになると言われた。
体が凍りつきそうなくらい冷えて、悲しくて怖い気持ちになった。父に打たれた時だって、こんな気持ちになったことはない。
イシュマとユルビーはお互いを認め合うことにした。イシュマと一緒にいられるのなら、それでいい。足りなくても、満たされなくても、彼がそばにいてくれるなら……。
もし、自分達を引き裂くような者が現れたら、容赦はしない。
そう思っていた。
「くだらない。ただ話題に乗って後追いしたものだ。低俗誌の記事など読むに値しない。今まで通り、圧力をかけておけ」
「かしこまりました。あと改良品が届きましたので、こちらに置かせていただきます」
執事が箱から瓶を取り出して机の上に置いた。ブルーノが手を払うと、執事は彼が投げた雑誌と空箱を持って部屋を出て行った。
「おいおい、これ催淫薬か? うちのお堅い薬品部門はいつのまにこんなものに手を出したんだ?」
ユルビーは執務室の窓辺に立ち、話を黙って聞いていた。執事が出て行ってから、机に置かせた小瓶を持ち上げてカタカタと振った。
「需要があるからだよ。体に負担がかかるようなものではなく、軽く興奮作用があるくらいのものを欲しがっている連中は大勢いる。まぁ本当のところは、イシュマに使おうと思って作らせたんだけど」
「お前なぁ……」
ブルーノはイシュマのことになると、善悪の判断がつかなくなる。ユルビーは頭をかきながら、小瓶を机の上に戻した。
「イシュマは僕達のこと好きになってくれたから、もう必要ないけど、たまに使うのもいいかも。乱れたイシュマもたまらないからさ」
「ほどほどにしろよ」
そう言って嗜めるユルビーの顔も満更ではない。イシュマに夢中なのは、二人とも同じだ。出会った時に心を奪われ、成長した今も変わらない。抱き合うようになり、もっと執着が溢れ出して、家に縛りつけたい気持ちを抑えるのにやっとだ。
イシュマに嫌われたくないから、そんなことはできないのだけど。
「お父様の件なら心配しなくていい。関係者の口は封じておいたし、証拠は全部、雨と嵐が消してくれた」
「ああ、そうだな」
父は死の一ヶ月前、ブルーノとユルビーを書斎に呼び出した。ユルビーの恋心に気づき、それを正そうとした。
「イシュマを結婚させる。相手とは話がついている」
「何ですって……!」
ユルビーが身を乗り出すと、父は静かに彼を睨んだ。
「汚れている。精神を叩き直せ! この出来損ないが! お前も邸を出て、騎士の宿舎に行くんだ」
「ユルビーが汚れているなら、僕も同じですね」
「何だと……!? ブルーノ……お前もまさか……」
ブルーノは父を睨みつけながら、微笑を浮かべる。それを見た父は頭を抱えた。
「プリンプ家を守らなければ……、とにかく、イシュマにはこの家から出て行かせる。本人にはまだ話さないが、これは決定だ。地方領とはいえ、いい暮らしができるはずだ。私も引退すればそこへ行くつもりだ。あの子ならきっと、私を歓迎してくれる」
父は少しおかしくなっていた。
一人でぶつぶつと呟いて、焦点の合わない目で笑っていた。
どう考えてもありえない話をしており、ブルーノはユルビーと顔を見合わせる。
「あの子を守るんだ……。ここから遠ざけて……私だけのものに……愛しい愛しい、私の――」
バン!!
大きな音を立て机を叩いたので、ユルビーが驚いた目で見てきた。
「何でもない。嫌なことを思い出しただけだ」
「早く寝ろよ。エロイズのことも上手くいったとはいえ、気疲れしたんだろう?」
「あんな小者一人消すだけ、大した労力ではない」
執事が持ってきた雑誌には、エロイズについての記事があった。権力者であったが、いざ亡くなると、みんな手のひらを返したように彼の悪口を言って喜んでいる。方々で恨みを買っていたので、彼の死に疑問を持ち、調査を訴える者などいない。
今だとばかりに、隠し子達が騒ぎ出し、財産の奪い合いが起こっていた。
「まぁ、特定の果物を避けているという情報しかなかったから、イシュマが鍵を見つけてくれたのもある。だけど、気に入らない……もっと苦しめる方法がよかったかな」
「あの場で切り捨ててもよかったが、後が面倒だからな。それにしても、目を光らせておかないと、すぐ虫がつく。厄介なやつはもう勘弁だ」
思うところは同じだ。
二人でうんうん頷いていると、ノックの音が聞こえてきた。ブルーノがどうぞと言うと、カチャリとドアが開けられて、イシュマが顔を覗かせる。
「イシュマ!」
イシュマの方から部屋を訪ねてくれるなんて珍しい。ブルーノが飛び跳ねるように立ち上がると、イシュマは部屋の中を見渡した。
「ユルビー、やっぱりここにいたね」
「おう、どうした?」
「剣の稽古をつけてもらおうと思って。最近、腕が鈍っている気がしてさ」
イシュマが腕をぐるぐる回しながら部屋に入ってくる。その姿が可愛くて思わず口元を綻ばせたが、剣の稽古という言葉にムッとしてしまう。
「いいぞ。新しい剣が届いたから、それを試そう」
「ありがとう、助かるよ」
イシュマは事務方だが一応騎士団の所属だ。父を守りたいなんて言って騎士団に入ったのだが、今でも時々ユルビーに稽古を頼んでいる。
ブルーノは他のことなら何でも教えられるが、剣だけは不得意だった。ユルビーに譲るしかない。
二人並んでニコニコしながら部屋を出ていく姿に、気分が悪くなる。しかもユルビーが少し振り返り、ニヤっと笑ってくるのでもっと不快だ。
「ブルーノはどうする?」
「僕は……書類仕事が残っているからここにいるよ」
イシュマも足を止め、振り返ってきた。不貞腐れながらそう返すと、イシュマはニコッと笑った。
「仕事、頑張ってね。俺さ、もっと強くなって、ブルーノの護衛騎士になるよ。ブルーノのことは、俺が守るからさ」
腕を振り上げ、高らかに宣言するイシュマを見て、不機嫌不快嫉妬の壁がボロボロと剥がれていく。
「よーし、頑張るぞー!」
来た時と同じで、腕を振り回しながら、イシュマは意気揚々と歩いていく。その後ろをユルビーが追いかけていった。
パタンとドアが閉まると、ブルーノはその場に座り込んだ。
「バカ、好きになっちゃうじゃん」
もうとっくに好きなのだが、ズブズブ深みにハマっていく。ブルーノは真っ赤になった顔に手を当てる。
しばらく仕事は手につきそうになかった。
『君のために』
私の名前はドレイク。
仕事はこの世界でいうところの、掃除屋というところでしょうか。
上司は言うならば社長、私はただの手下に過ぎません。けれど、裁量は任されており、世界が完全破壊されない限り、小さな綻びには目を瞑っております。
その塩梅は難しいところです。
新たな指令が来た時、私はまた退屈な巡回業務だと思いました。別の世界から魂が流れ込み、この世界に生まれてくる人間へ宿ったということでした。
滅多ない事例に、少し心が動きました。
世界へ降りて行くと、生まれたばかりの赤ん坊の男の子と出会いました。
男の子はよく泣いて、よくお乳を飲み、父と母に可愛がられすくすくと育ちます。記録によると、この世界が何たるか記憶を持っているということでした。
さて、成長してどう出るかと楽しみになりました。
まずは観察すること。
それが私の仕事なのです。
男の子の母が病気で亡くなりました。
父親は騎士として仕事をしながら、一人で男の子を育てます。父の愛情を受けて、男の子はとてもいい子に育ちました。父のことを助けようと家の仕事を一生懸命頑張っていました。
しかし、シナリオは悲劇へと向かいます。
父は主君である公爵を助けて命を落とします。その恩に報いるため、公爵は天涯孤独となった男の子を自分の養子に迎え入れました。
シナリオ通りとはいえ、何とも悲しい展開に、私の心は乱れます。プログラムごときが、子供を持ったことなどもちろんないですが、切ない気持ちになります。切ない、という表現が正しいのかは不明です。
そして義兄と義弟との初対面、差し出された手を叩くはずが、男の子はその手を取りました。
おっとついにエラーの発生です。どうやら前世の記憶箱が開いたようです。
これは困りました。果たしてすぐに処理していいものか。悩んだ末、私はまだ観察を続けました。
男の子は仲違いするはずの義兄弟と仲良くなりました。どうやら、関係性を変えて生き残る道を模索しているのでしょう。前世の記憶が戻り、この世界について理解したならば、自分の最期も当然頭に入ったはずです。それを変えようとするのは、誰でも思いつくところでしょう。
しかし、そう上手くいくでしょうか。
なんのスキルもない。ただの平凡な平民では、どんなに足掻いたとて……
そう、思っていましたが、どうやら間違っていたようです。
男の子はとても頑張り屋で、真っ直ぐな性格をしておりました。彼の優しさと純粋さに触れ、周囲の人々は変わっていきます。
義理の父も義兄弟も、驚くほど顔つきが変わりました。同時に、ただの家族として括れないものが見えてきました。
どうやらこの家族は元々問題があり、兄弟は傷を負って生きていました。そこに飛び込んできた男の子は、傷ついた兄弟の心を癒し、彼らに幸せの風を送り込みます。兄弟が男の子に熱い視線を送り始めたのを見て、私はため息をつきました。
これはもう、取り返しのつかないところまできてしまったと。
公爵家の庇護の下、男の子は立派に成長しました。
相変わらず運命を変えようと模索し、いつか全てを奪われるのではないかと怯えています。
そして彼と義兄弟の間に、いよいよ風が吹き荒れます。
公爵の死もまた、予想外のもので、私は頭を悩ませるしかありません。とにかく仕事をしなければいけないので、そろそろ介入することにしました。
何とも不本意な役所ですが、彼を元のシナリオに戻すため、不安にさせて反政府組織へと誘い込みます。
分かっています。こんな役所はごめんでした。
しかし、私が道を逸れるわけにはいきません。彼ならきっと、正しい道を選ぶだろうと信じていました。
ええ、もうこの頃には、正しい道の意味がすっかり変わっていましたね。
そして、彼に迫る魔の手。
エロイズ伯爵については、個人的に嫌悪していたことは認めましょう。レストランで彼の料理に手を加えたことは……まぁ知らなかったことにしてください。
悪趣味な男でしたが、ラペルピンの趣味だけは認めてあげます。彼の瞳と同じ色で気に入りました。床に転がっていたので、今は私の胸元で輝いております。
とにかく、義兄弟達の活躍により、エロイズ伯爵を懲らしめることができました。そして、プレイヤーの選択により、反乱イベントは回避され、彼が生き残ることは決まりました。
なんと喜ばしいことでしょう。
これで、私の仕事も終わりです。
「ああ、またこんなところで寝て……。どこでも寝てしまう癖は、全然治りませんね」
木の上にいるドレイクは、根元でスヤスヤと眠っている彼を見て、ふぅと息を吐く。
子供の頃は風邪をひかないように、毛布をかけてあげたこともある。今それをしたらおかしいので、我慢しながら彼の寝顔を見つめる。
「大きくなりましたね。とても幸せそうだ」
どんな夢を見ているのかと、頭の中まで覗きたくなってしまう。観察が仕事ではあるけれど、さすがにそこまでできない。
もう会うことはない。
彼にはそう言ったが、これほど興味を引かれる人物を観察せずにはいられない。彼の選択した愛の形もまた、ドレイクの興味を膨らませた。
だから、観察は続けることにする。
「あぁ大変だ。よだれがあんなに垂れて……」
スルスルと木から降りたドレイクは、彼の口元にハンカチを寄せて、丁寧に拭き取る。
「ん……っ」
当の本人はむにゃむにゃと口を動かして、気持ちよさそうな眠りを続けていた。
「貴方と一緒に世界を壊すのも楽しいかもしれませんね。まぁそんな日は来ないでしょうけど」
遠くを見つめたドレイクは、細い目をもっと細める。
「おや、もう少し見ていたいのに、面倒な男が帰ってきたようですね。そろそろ行きますか」
ドレイクは帽子をかぶり直し、指をパチっと鳴らした。そよそよと吹いていた風が、強い風に変わる。
「また会いにきますね」
強い風に乗って空へ舞い上がり、ドレイクは姿を消した。
《番外編 おわり》
345
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(2件)
あなたにおすすめの小説
弟勇者と保護した魔王に狙われているので家出します。
あじ/Jio
BL
父親に殴られた時、俺は前世を思い出した。
だが、前世を思い出したところで、俺が腹違いの弟を嫌うことに変わりはない。
よくある漫画や小説のように、断罪されるのを回避するために、弟と仲良くする気は毛頭なかった。
弟は600年の眠りから醒めた魔王を退治する英雄だ。
そして俺は、そんな弟に嫉妬して何かと邪魔をしようとするモブ悪役。
どうせ互いに相容れない存在だと、大嫌いな弟から離れて辺境の地で過ごしていた幼少期。
俺は眠りから醒めたばかりの魔王を見つけた。
そして時が過ぎた今、なぜか弟と魔王に執着されてケツ穴を狙われている。
◎1話完結型になります
異世界転移して美形になったら危険な男とハジメテしちゃいました
ノルジャン
BL
俺はおっさん神に異世界に転移させてもらった。異世界で「イケメンでモテて勝ち組の人生」が送りたい!という願いを叶えてもらったはずなのだけれど……。これってちゃんと叶えて貰えてるのか?美形になったけど男にしかモテないし、勝ち組人生って結局どんなん?めちゃくちゃ危険な香りのする男にバーでナンパされて、ついていっちゃってころっと惚れちゃう俺の話。危険な男×美形(元平凡)※ムーンライトノベルズにも掲載
悪役令息の兄って需要ありますか?
焦げたせんべい
BL
今をときめく悪役による逆転劇、ザマァやらエトセトラ。
その悪役に歳の離れた兄がいても、気が強くなければ豆電球すら光らない。
これは物語の終盤にチラッと出てくる、折衷案を出す兄の話である。
転生悪役弟、元恋人の冷然騎士に激重執着されています
柚吉猫
BL
生前の記憶は彼にとって悪夢のようだった。
酷い別れ方を引きずったまま転生した先は悪役令嬢がヒロインの乙女ゲームの世界だった。
性悪聖ヒロインの弟に生まれ変わって、過去の呪縛から逃れようと必死に生きてきた。
そんな彼の前に現れた竜王の化身である騎士団長。
離れたいのに、皆に愛されている騎士様は離してくれない。
姿形が違っても、魂でお互いは繋がっている。
冷然竜王騎士団長×過去の呪縛を背負う悪役弟
今度こそ、本当の恋をしよう。
双子のスパダリ旦那が今日も甘い
ユーリ
BL
「いつになったらお前は学校を辞めるんだ?」「いつになったら俺らの仕事の邪魔をする仕事をするんだ?」ーー高校二年生の柚月は幼馴染の双子と一緒に暮らしているが、毎日のように甘やかされるも意味のわからないことを言ってきて…「仕事の邪魔をする仕事って何!?」ーー双子のスパダリ旦那は今日も甘いのです。
俺がこんなにモテるのはおかしいだろ!? 〜魔法と弟を愛でたいだけなのに、なぜそんなに執着してくるんだ!!!〜
小屋瀬
BL
「兄さんは僕に守られてればいい。ずっと、僕の側にいたらいい。」
魔法高等学校入学式。自覚ありのブラコン、レイ−クレシスは、今日入学してくる大好きな弟との再会に心を踊らせていた。“これからは毎日弟を愛でながら、大好きな魔法制作に明け暮れる日々を過ごせる”そう思っていたレイに待ち受けていたのは、波乱万丈な毎日で―――
義弟からの激しい束縛、王子からの謎の執着、親友からの重い愛⋯俺はただ、普通に過ごしたいだけなのにーーー!!!
【完結】流行りの悪役転生したけど、推しを甘やかして育てすぎた。
時々雨
BL
前世好きだったBL小説に流行りの悪役令息に転生した腐男子。今世、ルアネが周りの人間から好意を向けられて、僕は生で殿下とヒロインちゃん(男)のイチャイチャを見たいだけなのにどうしてこうなった!?
※表紙のイラストはたかだ。様
※エブリスタ、pixivにも掲載してます
◆この話のスピンオフ、兄達の話「偏屈な幼馴染み第二王子の愛が重すぎる!」もあります。そちらも気になったら覗いてみてください。
◆2部は色々落ち着いたら…書くと思います
転生したらスパダリに囲われていました……え、違う?
米山のら
BL
王子悠里。苗字のせいで“王子さま”と呼ばれ、距離を置かれてきた、ぼっち新社会人。
ストーカーに追われ、車に轢かれ――気づけば豪奢なベッドで目を覚ましていた。
隣にいたのは、氷の騎士団長であり第二王子でもある、美しきスパダリ。
「愛してるよ、私のユリタン」
そう言って差し出されたのは、彼色の婚約指輪。
“最難関ルート”と恐れられる、甘さと狂気の狭間に立つ騎士団長。
成功すれば溺愛一直線、けれど一歩誤れば廃人コース。
怖いほどの執着と、甘すぎる愛の狭間で――悠里の新しい人生は、いったいどこへ向かうのか?
……え、違う?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
ドレイクが好きー。
みあみあ様
感想ありがとうございます♪♪
作者のドレイク愛が漏れてしまいました(笑)
好きと言っていただけて嬉しいです⭐︎⭐︎
新作楽しみにしていました!どうなっていくのか楽しみです!
ミルフィーユ様
わぁぁ⭐︎早速お読みいただきありがとうございます!!
今日中には全話投稿予定なので、お楽しみいただけたら幸いです☆☆