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③ 人魚の王子様
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大陸の人々は大昔、海の中に住んでいた言われている。
暮らしやすい場所を求めて、陸に住むようになり、今の人の姿に変わったとされている。
そのため、人々が神と崇めるのは、人魚の姿をした海神だ。
信仰熱心な者なら、海神様の伝説や建国の話などを知っていると思うが、貧しい農家で育ったロランは、今まで教会にすら行ったことがなかった。
だからいきなり人魚という言葉が出てきて、目を瞬かせてしまった。
「ホルヴェイン公爵家は、古くから続く由緒正しき家系なんだよ。始祖の血、つまり人魚の血が濃く残っているらしい。足はちゃんと二本あるが、体のどこかに鱗があるなんて話も聞く。本当かどうかは知らない。とにかく、時々先祖返りなのか、何代かに一人、強く特徴が出る子が生まれるんだ」
「……それが精神的な遅れってやつか?」
「そうだ。上手く成長できれば巨万の富をもたらす逸材になるが、結局成長が止まったままで終わるやつもいる。そっちの方であれば問題がないんだ。そのまま頭の中が子供でいてくれたら、こっちの手間がかからない。二十歳を過ぎたら急速に成長すると言われているから、おそらくダメな方だと思われている。しかし、念には念を……、依頼人は確実に根まで腐らせておくのをご所望なんだ」
バロックの説明を聞くと、依頼人はホルヴェイン公爵家に関係のある人物で、その令息の存在をどうにかして消したい人物だと思われた。
「坊ちゃんの様子も細かく報告して欲しい。子供らしくない素ぶりがあれば、隠すことなく報告すること。それと、執事のルーラーには注意してくれ」
そう言ってバロックは苦い顔をした。
まるで、今までやり込められてきましたと言うような顔だった。
「ルーラーはただの年老いた使用人じゃない。元傭兵で、当主が現役の頃から 身辺警護をやっていた男だ。令息の専属になってから、全ての食事の管理、邸の警備体制まで一切抜かりがない。危害を加えるように依頼されたこともあったが、全て失敗したのはやつのせいだ。特に注意してくれよ」
ロランはバロックから依頼の説明をざっと受けたが、話を聞くだけで、ありえない内容であった。
運良く教師として潜り込めたとしても、目的を知られたら、生きては帰れないと実感してしまった。
どちらに転んでも死ぬしかない。
なんて笑えない状況だと、もう笑うしかなかった。
「とりあえず前金だ。これで、身なりを整えろ。そのままで行ったらいくら巨匠の工房を出たと言い張っても、門前払いだ」
バロックは机の上に金貨を三枚、投げるように置いた。
これだけで、どれくらい賭場で使えるか、酒が飲めるのかと、バカなことが頭をよぎって、ロランは思わず首を振った。
「バカなことは考えるなよ。すぐに金貸しの連中に連絡が入るからな。工房にいた頃は、天井画から舞い降りた天使と言われていたらしいじゃないか。少しはその頃の見た目を取り戻してくれよ」
思い出したくもない頃の自分など、とうに記憶から消していた。
しかし、この仕事をやり切るには、消し去った自分に戻らなければいけない。
ロランはため息をついて、分かったと言って頷いた。
「別邸にはすでに仲間が潜入している。お前のことを監視して報告するから、しっかりやれよ」
息苦しいことこの上ない。
無理難題をやらされて、監視までついて報告される。
とても成功するとは思えなくて、ロランは深く息を吐いた。
「いちおう言っておきますが、貴方で五人目です」
「えっ?」
「美術の教師はなかなか決まらなかったのです。この扉の前に立って、緊張の面持ちで深呼吸されたのは……ロラン様で五人目ということです」
そう言って大きな扉の前で、ロランを冷たく見下ろしたのは、執事のルーラーだ。
元傭兵だけあって、背が高くガッチリした体つきをしている。
どこにも隙がなくて、息が詰まりそうだった。
「あの……前の四人の方は……?」
「ホルヴェイン家の人間は、必ず芸術を学ぶように、しきたりがあるので、教師を探し続けてきました。四人の方は、この部屋に入ってすぐに、お引き取りいただくことになりました」
「そ……そうですか」
簡単に言ってくれるよと、ロランは頭の中で悪態をついた。
ロランにとって、初日に帰されることになったら、それは死を意味している。
もしもダメなら、逃げるつもりではいるが、逃亡生活は辛く過酷なものになるだろう。
途中で見つかって殺される未来が想像できた。
行くも帰るも地獄だと思いながら、ロランは近くにある窓に目線を向けた。
特に失礼になるようなおかしなところはないか、最後の確認をした。
そこには金色の髪に、紫の目をした若い男が映っていた。
死人のように白い肌で全体的に細く、小ぶりな鼻と小ぶりな口、宝石のようだと称された深い紫色の目は、記憶にあったものより澱んでいた。
久々に自分の姿を見たら、記憶から消したい思い出がどっと押し寄せてきて、嫌な汗ばかりかいてしまった。
金貨を使って体を綺麗にして、何年か分の汚れを取った。
髪を切り、服を買い、身なりを整えたが、ろくに食事が取れない生活で、見た目は思っていたよりひどかった。
こんな状態で、果たして採用されるのかすら希望が持てなかった。
伝えたいことは終わったのか、ルーラーはやっと扉に手をかけて押し開けた。
ギギっと軽く音が鳴ったが、その音さえも高級品が奏でる音色のように聞こえた。
「失礼致します。新しい教師をお連れしました」
まだ昼前だというのにカーテンが引かれていて、部屋の中は薄暗かった。
人魚の血が本当なのかよく分からないが、光に耐性がないとか、そういう病気なのかと思ったが、ルーラーは慣れた様子でスタスタと歩いて行き部屋のカーテンを引いた。
待っていましたと陽の光が飛び込んできて、ロランは眩しくてギュっと目をつぶった。
その時、顔全体にピタッと濡れた感触がして、生温かい何かを感じた。
「え…………」
視界がさっきよりもよく見えなくて、顔の上をヌルヌルとした何かが滑り落ちていくのを感じた。
ロランは思わず顔の下に手を添えた。
ズルリと滑り落ちたものは、今度はロランの手の上に乗った。
やっと見えるようになって、目を瞬かせたら、ロランが両手をくっ付けた掌の上に乗っていたのは、一匹のカエルだった。
ちょうどよく、ゲロっと鳴いたので、驚いたロランは思わず息を吸ってから、こんにちはと話しかけてしまった。
クスクスっと笑う声がして、カエルが笑ったのかと思ったロランは、息を吸い込んでビクッと肩を揺らした。
カエルはロランの手の上から、ピョンと飛び降りて、絨毯の上に着地した。
そのまま厚手の絨毯の上を優雅に飛びながら、カエルはチェストの奥に隠れてしまった。
「ミカエルは初めて会う人間の、顔に飛びつくのが好きなんだ。驚いて叫んだり、強く振り払ったり、気絶した人もいたかな。でも、挨拶したのは君が初めてだよ」
少し低くて、耳に優しい声が聞こえてきた。
ロランが顔を上げると、ちょうどルーラーが窓を開けたので、風が部屋の中に吹き込んできた。
最初に見えたのは、ふわりと風に舞った黒い髪。
肩まで伸びた長い髪を風に遊ばれて、邪魔そうに耳にかき上げた白い手。
まるで人形のように整った美しい顔には、鮮やかな青い瞳が浮かんでいた。
「友達に優しくしてくれる人じゃないと、ここには来てほしくなくて。ちゃんと挨拶してくれる先生なら、僕の先生になってもいいよ」
そう言って鮮やかに笑ったのは、部屋の奥、中央にある机の上に座っている男だった。
上等な服に、磨き抜かれて輝いている靴、上品な姿はどう見ても貴族に見えた。
見た目は成人した男だったが、無邪気に机の上に座っている姿や、悪戯っぽい微笑みにどこか子供のような印象を受けた。
「はじめまして。僕はダーレン・ホルヴェイン」
男はサッと机から降りると、ロランの方に一直線に歩いてきた。
厚みのある絨毯で靴音は鳴らないが、まるでコツコツと鳴っているかのように、ロランの頭の中で響いていた。
「は……はじめまして、ダーレン様。ご挨拶させていただきます。画家のロランと申します」
この家の主人であるダーレンは、にこやかにロランに手を差し出してきた。
ロランは恐る恐るその手を取って、握手を交わした。
ダーレンの容姿について聞いていなかったが、驚くほどの美青年だ。
健康そうに見えるし、普通に歩いていたら、誰もが目を奪われてしまうだろう。
ましてや公爵家の長男なのだから、黙っていたって縁談の話が山のように来るはずだ。
ますます自分がここにいる意味がロランには分からなくなった。
ダーレンはロランより背が高く、細身だがしっかりした体つきをしている。
ぼけっとして見上げながら、バロックの説明は本当だったのかと、疑ってしまった。
一瞬何か読み取ろうとするかのような鋭い視線を感じたが、次の瞬間には、ダーレンは満面の笑みになって手を引いてきた。
「遊ぼう」
「えっ?」
「隠れんぼしようよ。それとも虫取りがいい? ミカエルのご飯を捕まえに行く?」
「ダーレン様、ロラン様は絵画の教師です。遊びに来たわけではありません」
「ちぇ、ルーラーはいつもそうなんだから。絵なんてつまらないよ」
頬を膨らませて子供のようにスネる姿は、どう見ても大人の男性が見せる仕草には見えなかった。
「あ……あの……」
話には聞いていたが、ロランは戸惑って、目を泳がせてしまった。
その様子を横目で見たルーラーは、胸ポケットから小さなベルを取り出して、カラカラと音を立てて鳴らした。
すると、すぐに部屋にメイドが入って来たので、お召し替えをと声をかけた。
ダーレンは授業に入る前に、着替えることになったようだ。
メイドと共に部屋を出て行ってしまった。
「この部屋がダーレン様のレッスン室です。絵画の他にも、幼い頃から歴史学や経済学など、授業はこの部屋で行なっております。基本はここに画材を置きますので、それを使用してください。必要なものがあれば言ってください」
公爵家の長男であるダーレンが住んでいるのは本宅ではない。
王都の貴族の住宅地にあるホルヴェイン家本宅ではなく、ダーレンは別宅と呼ばれる、本宅とは離れた場所にある大きな邸に暮らしていた。
別宅を訪れたロランは、本宅でなくとも豪華で大きな邸に驚いたが、中へ入るために、一度裸になって持ち物まで全て検査されるという、重々しい警備に驚いてしまった。
「あの……それじゃあ……」
「ああ、合格です。ダーレン様はロラン様のことをお気に召したようです。どうぞこれからよろしくお願いします」
何がどうなって気に入られたのか分からないが、どうやら第一の関門は突破したらしい。
ロランは心の中でホっと胸を撫で下ろした。
「ダーレン様が戻られる前に、ここのルールをお伝えしましょう」
いつの間に眼鏡をかけたのか、ルーラーの銀縁の丸眼鏡がキラリと光った。
ロランは心臓が縮むような思いになりながら、背筋を伸ばした。
(続)
暮らしやすい場所を求めて、陸に住むようになり、今の人の姿に変わったとされている。
そのため、人々が神と崇めるのは、人魚の姿をした海神だ。
信仰熱心な者なら、海神様の伝説や建国の話などを知っていると思うが、貧しい農家で育ったロランは、今まで教会にすら行ったことがなかった。
だからいきなり人魚という言葉が出てきて、目を瞬かせてしまった。
「ホルヴェイン公爵家は、古くから続く由緒正しき家系なんだよ。始祖の血、つまり人魚の血が濃く残っているらしい。足はちゃんと二本あるが、体のどこかに鱗があるなんて話も聞く。本当かどうかは知らない。とにかく、時々先祖返りなのか、何代かに一人、強く特徴が出る子が生まれるんだ」
「……それが精神的な遅れってやつか?」
「そうだ。上手く成長できれば巨万の富をもたらす逸材になるが、結局成長が止まったままで終わるやつもいる。そっちの方であれば問題がないんだ。そのまま頭の中が子供でいてくれたら、こっちの手間がかからない。二十歳を過ぎたら急速に成長すると言われているから、おそらくダメな方だと思われている。しかし、念には念を……、依頼人は確実に根まで腐らせておくのをご所望なんだ」
バロックの説明を聞くと、依頼人はホルヴェイン公爵家に関係のある人物で、その令息の存在をどうにかして消したい人物だと思われた。
「坊ちゃんの様子も細かく報告して欲しい。子供らしくない素ぶりがあれば、隠すことなく報告すること。それと、執事のルーラーには注意してくれ」
そう言ってバロックは苦い顔をした。
まるで、今までやり込められてきましたと言うような顔だった。
「ルーラーはただの年老いた使用人じゃない。元傭兵で、当主が現役の頃から 身辺警護をやっていた男だ。令息の専属になってから、全ての食事の管理、邸の警備体制まで一切抜かりがない。危害を加えるように依頼されたこともあったが、全て失敗したのはやつのせいだ。特に注意してくれよ」
ロランはバロックから依頼の説明をざっと受けたが、話を聞くだけで、ありえない内容であった。
運良く教師として潜り込めたとしても、目的を知られたら、生きては帰れないと実感してしまった。
どちらに転んでも死ぬしかない。
なんて笑えない状況だと、もう笑うしかなかった。
「とりあえず前金だ。これで、身なりを整えろ。そのままで行ったらいくら巨匠の工房を出たと言い張っても、門前払いだ」
バロックは机の上に金貨を三枚、投げるように置いた。
これだけで、どれくらい賭場で使えるか、酒が飲めるのかと、バカなことが頭をよぎって、ロランは思わず首を振った。
「バカなことは考えるなよ。すぐに金貸しの連中に連絡が入るからな。工房にいた頃は、天井画から舞い降りた天使と言われていたらしいじゃないか。少しはその頃の見た目を取り戻してくれよ」
思い出したくもない頃の自分など、とうに記憶から消していた。
しかし、この仕事をやり切るには、消し去った自分に戻らなければいけない。
ロランはため息をついて、分かったと言って頷いた。
「別邸にはすでに仲間が潜入している。お前のことを監視して報告するから、しっかりやれよ」
息苦しいことこの上ない。
無理難題をやらされて、監視までついて報告される。
とても成功するとは思えなくて、ロランは深く息を吐いた。
「いちおう言っておきますが、貴方で五人目です」
「えっ?」
「美術の教師はなかなか決まらなかったのです。この扉の前に立って、緊張の面持ちで深呼吸されたのは……ロラン様で五人目ということです」
そう言って大きな扉の前で、ロランを冷たく見下ろしたのは、執事のルーラーだ。
元傭兵だけあって、背が高くガッチリした体つきをしている。
どこにも隙がなくて、息が詰まりそうだった。
「あの……前の四人の方は……?」
「ホルヴェイン家の人間は、必ず芸術を学ぶように、しきたりがあるので、教師を探し続けてきました。四人の方は、この部屋に入ってすぐに、お引き取りいただくことになりました」
「そ……そうですか」
簡単に言ってくれるよと、ロランは頭の中で悪態をついた。
ロランにとって、初日に帰されることになったら、それは死を意味している。
もしもダメなら、逃げるつもりではいるが、逃亡生活は辛く過酷なものになるだろう。
途中で見つかって殺される未来が想像できた。
行くも帰るも地獄だと思いながら、ロランは近くにある窓に目線を向けた。
特に失礼になるようなおかしなところはないか、最後の確認をした。
そこには金色の髪に、紫の目をした若い男が映っていた。
死人のように白い肌で全体的に細く、小ぶりな鼻と小ぶりな口、宝石のようだと称された深い紫色の目は、記憶にあったものより澱んでいた。
久々に自分の姿を見たら、記憶から消したい思い出がどっと押し寄せてきて、嫌な汗ばかりかいてしまった。
金貨を使って体を綺麗にして、何年か分の汚れを取った。
髪を切り、服を買い、身なりを整えたが、ろくに食事が取れない生活で、見た目は思っていたよりひどかった。
こんな状態で、果たして採用されるのかすら希望が持てなかった。
伝えたいことは終わったのか、ルーラーはやっと扉に手をかけて押し開けた。
ギギっと軽く音が鳴ったが、その音さえも高級品が奏でる音色のように聞こえた。
「失礼致します。新しい教師をお連れしました」
まだ昼前だというのにカーテンが引かれていて、部屋の中は薄暗かった。
人魚の血が本当なのかよく分からないが、光に耐性がないとか、そういう病気なのかと思ったが、ルーラーは慣れた様子でスタスタと歩いて行き部屋のカーテンを引いた。
待っていましたと陽の光が飛び込んできて、ロランは眩しくてギュっと目をつぶった。
その時、顔全体にピタッと濡れた感触がして、生温かい何かを感じた。
「え…………」
視界がさっきよりもよく見えなくて、顔の上をヌルヌルとした何かが滑り落ちていくのを感じた。
ロランは思わず顔の下に手を添えた。
ズルリと滑り落ちたものは、今度はロランの手の上に乗った。
やっと見えるようになって、目を瞬かせたら、ロランが両手をくっ付けた掌の上に乗っていたのは、一匹のカエルだった。
ちょうどよく、ゲロっと鳴いたので、驚いたロランは思わず息を吸ってから、こんにちはと話しかけてしまった。
クスクスっと笑う声がして、カエルが笑ったのかと思ったロランは、息を吸い込んでビクッと肩を揺らした。
カエルはロランの手の上から、ピョンと飛び降りて、絨毯の上に着地した。
そのまま厚手の絨毯の上を優雅に飛びながら、カエルはチェストの奥に隠れてしまった。
「ミカエルは初めて会う人間の、顔に飛びつくのが好きなんだ。驚いて叫んだり、強く振り払ったり、気絶した人もいたかな。でも、挨拶したのは君が初めてだよ」
少し低くて、耳に優しい声が聞こえてきた。
ロランが顔を上げると、ちょうどルーラーが窓を開けたので、風が部屋の中に吹き込んできた。
最初に見えたのは、ふわりと風に舞った黒い髪。
肩まで伸びた長い髪を風に遊ばれて、邪魔そうに耳にかき上げた白い手。
まるで人形のように整った美しい顔には、鮮やかな青い瞳が浮かんでいた。
「友達に優しくしてくれる人じゃないと、ここには来てほしくなくて。ちゃんと挨拶してくれる先生なら、僕の先生になってもいいよ」
そう言って鮮やかに笑ったのは、部屋の奥、中央にある机の上に座っている男だった。
上等な服に、磨き抜かれて輝いている靴、上品な姿はどう見ても貴族に見えた。
見た目は成人した男だったが、無邪気に机の上に座っている姿や、悪戯っぽい微笑みにどこか子供のような印象を受けた。
「はじめまして。僕はダーレン・ホルヴェイン」
男はサッと机から降りると、ロランの方に一直線に歩いてきた。
厚みのある絨毯で靴音は鳴らないが、まるでコツコツと鳴っているかのように、ロランの頭の中で響いていた。
「は……はじめまして、ダーレン様。ご挨拶させていただきます。画家のロランと申します」
この家の主人であるダーレンは、にこやかにロランに手を差し出してきた。
ロランは恐る恐るその手を取って、握手を交わした。
ダーレンの容姿について聞いていなかったが、驚くほどの美青年だ。
健康そうに見えるし、普通に歩いていたら、誰もが目を奪われてしまうだろう。
ましてや公爵家の長男なのだから、黙っていたって縁談の話が山のように来るはずだ。
ますます自分がここにいる意味がロランには分からなくなった。
ダーレンはロランより背が高く、細身だがしっかりした体つきをしている。
ぼけっとして見上げながら、バロックの説明は本当だったのかと、疑ってしまった。
一瞬何か読み取ろうとするかのような鋭い視線を感じたが、次の瞬間には、ダーレンは満面の笑みになって手を引いてきた。
「遊ぼう」
「えっ?」
「隠れんぼしようよ。それとも虫取りがいい? ミカエルのご飯を捕まえに行く?」
「ダーレン様、ロラン様は絵画の教師です。遊びに来たわけではありません」
「ちぇ、ルーラーはいつもそうなんだから。絵なんてつまらないよ」
頬を膨らませて子供のようにスネる姿は、どう見ても大人の男性が見せる仕草には見えなかった。
「あ……あの……」
話には聞いていたが、ロランは戸惑って、目を泳がせてしまった。
その様子を横目で見たルーラーは、胸ポケットから小さなベルを取り出して、カラカラと音を立てて鳴らした。
すると、すぐに部屋にメイドが入って来たので、お召し替えをと声をかけた。
ダーレンは授業に入る前に、着替えることになったようだ。
メイドと共に部屋を出て行ってしまった。
「この部屋がダーレン様のレッスン室です。絵画の他にも、幼い頃から歴史学や経済学など、授業はこの部屋で行なっております。基本はここに画材を置きますので、それを使用してください。必要なものがあれば言ってください」
公爵家の長男であるダーレンが住んでいるのは本宅ではない。
王都の貴族の住宅地にあるホルヴェイン家本宅ではなく、ダーレンは別宅と呼ばれる、本宅とは離れた場所にある大きな邸に暮らしていた。
別宅を訪れたロランは、本宅でなくとも豪華で大きな邸に驚いたが、中へ入るために、一度裸になって持ち物まで全て検査されるという、重々しい警備に驚いてしまった。
「あの……それじゃあ……」
「ああ、合格です。ダーレン様はロラン様のことをお気に召したようです。どうぞこれからよろしくお願いします」
何がどうなって気に入られたのか分からないが、どうやら第一の関門は突破したらしい。
ロランは心の中でホっと胸を撫で下ろした。
「ダーレン様が戻られる前に、ここのルールをお伝えしましょう」
いつの間に眼鏡をかけたのか、ルーラーの銀縁の丸眼鏡がキラリと光った。
ロランは心臓が縮むような思いになりながら、背筋を伸ばした。
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