四角い世界に赤を塗る

朝顔

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⑥ 追跡者

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 そこら中から酒の臭いがして、誰かが怒鳴り合ったと思ったら、肩を組んで歌い出して、その隣で殴り合いが始まる。
 今まではこの無秩序な空間にいることが、唯一嫌なことを忘れられる場所だった。
 小金が入れば毎日のように通って、浴びるほど酒を飲んでいたのに、今のロランは少しもそんな気持ちになれなかった。
 追い詰められている状況だからか、それとも、ホルヴェイン家で過ごす日々が、予想外に穏やかなものだからか、頭の中を占めていた酒が泡になったように消えていた。
 だから、騒がしくて、酒臭いこの場所から、早く帰りたくてたまらなかった。

「本当に飲まないのか? 俺の奢りだぞ」

 そう言って自分でグラスに酒を注いだバロックは、ごくごくと飲んで、うめぇと息を吐いた。

「飲みたくない。一人で勝手にやってくれ」

「ほぅ、中毒だったくせに、すっかり抜けちまって……」

 そう言ってニヤッと笑ったバロックは、ロランの顔をまじまじと覗き込んできた。
 不躾な視線にロランは眉を寄せて、椅子を後ろに引いて下がった。

「いやぁ、悪い悪い。馬子にも衣装ってやつか? あのボサボサのゲロまみれだった廃人が、こうも可愛くなっちまうと調子がくるうな」

「ふざけたことを言うな。早く話を終わらせろ」

 ただでさえ上等な服を着ているからか、頻繁に通っていた頃には向けられなかった視線を浴びていた。
 居心地が悪くてたまらないロランは、外套のフードを頭にかぶって下を向いた。

 町で会う約束をしていたのは、バロックだった。
 定期的に連絡を取り、近況や情報などを伝えなくてはいけなかった。
 そのために呼び出されたのが、ロランが通っていた酒場だった。

「てっきり、喜ぶと思ってここにしたのに、次は大通りのカフェがよろしいかしら」

 初対面から失礼なやつだったが、堂々と揶揄ってくるので、やっぱり失礼なやつだとロランは唇を噛んだ。

「はははっ、アンタ、揶揄うと面白いな。冗談はこれくらいにして、本題だ。潜入に成功して、坊ちゃんとは仲良くやってるようだな」

「……仲良く、しているよ。変な意味じゃなくてな。ただの教師と生徒の交流だ」

「ではこのまま、手取り足取りで徐々に仲を深めてくれと言いたいところだが、依頼人から、早くしろと言われているんだ」

「無茶言うなよ。執事の監視もあるし、ご令息は子供のような反応だし……そんな雰囲気になんて、なれる状態じゃない」

 ロランが言い訳のようにボソボソとこぼすと、バロックはつまみの肉を食べていたが、ギロッとロランを睨んできた。
 その目の鋭さに、逃げ切れると思うなよという、強い警告が含まれているのを感じて、ロランは小さくなった。

「ホルヴェイン家の現当主、ウィンザーのことは知っているか?」

「公爵様のことか? そりゃ大貴族として名前ぐらいは……」

「公爵が倒れたのは一年前だ。心臓の病で長くないといわれている。そうなると、後継者となれる子供は、前妻との子、ダーレンと、後妻ベロニカとの子、ブライアンと妹のリアンナだ。ブライアンはまだ十九で若いが、年齢的に早すぎるほどではない。問題はダーレンが後継者になれる状態かどうかが争点になる。国から派遣された医師が判断を下すはずだ」

「そんな話を……なぜ……」

「今の話を聞けば、誰が依頼人かは、だいたい想像ができるだろう。当主が死んだら、後継者を決めるために、親族が集まることになる。その時に、ダーレンが後継者として相応しくないと発表する判断材料にしたいというわけさ。だから、急いでいるんだ」

 聞きたくなかった、詳しい事情を聞かされてしまった。
 誰が依頼人かと言われたら、ブライアンを後継者にしたい連中だろう。こんな話を知ったら、ますます逃げることは難しくなってしまった。

「ご当主の病はかなり悪いのか?」

「専門の薬師を呼んで長い間、薬を飲ませているがいっこうに良くならないそうだ。明日死んでもおかしくないと言われている」

「明日って……!?」

 そもそも無茶な依頼であるし、それをすぐにどうにかしろと言われても、できるはずがないとロランは頭を抱えた。
 確かにダーレンとの心の距離は近くなったが、それは師弟の友情的なものだろう。
 ここに何をどうやって、性的なものを持ち込むのか、見当もつかなかった。

「頭は子供だが、体格はいいだろう。幼い頃から剣術の授業を受けているから、そっちはかなりの腕前らしい。もっとも、本人は遊びの感覚でやっているらしいがな。オマエが力づくで押し倒してってのは、無理があるかなぁ……。まぁ、何とかなるだろうよ、頑張れ」

 頭を抱えるロランの心に、バロックの話がグサグサと刺さってくる。
 彼だって雇われた身で、言われたことをやっているにすぎないと思うが、高みの見物のように思えて、胸は曇ってしまった。

「それと、坊ちゃんの言動に変化はないか? 急にしっかりしたところがあるとか?」

「……ない。純粋そのものだよ」

 ロランが両手を軽く上げて、首を振った時、酒場の入り口の方で騒ぎが起きた。
 怒鳴り声が聞こえてくるのはいつものことなのだが、気になって視線を向けると、やけに見慣れた背中が見えた。
 胸ぐらを掴まれて、弱々しく揺さぶられている横顔が見えたら、ロランは反射的に立ち上がった。

「あ……アイツ、なんでここに!!」

 こんな所にいるはずのない人間が見えて、幻なのかと目を疑ってしまった。
 急いで駆け寄ると、胸ぐらを掴まれている男と目が合った。

「あ、ロラン」

「ダーレン様! な、な、こんなところで何を……!?」

 呑気にロランの名前を呼んで笑っているが、男と揉めていたのは、ダーレンだった。
 胸ぐらを掴まれていたが、男に聞いているのかと怒鳴られて乱暴に押されたダーレンは、壁に飛ばされて背中を打ってしまった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。何があったんだ?」

 慌てて間に入ると、ダーレンと揉めていたのは、酒場の常連で、短気で気が荒いと有名な男だった。
 ルーラーの姿を探したがどこにも見つからなかった。
 できれば関わりたくない男だが、ここは自分が止めに入らないわけにいかない。

「こいつが俺の足を踏んだんだ!」

 ダーレンは上から下までどう見ても貴族で、金貨が歩いているような服を着ている。
 気の荒い男は、おそらく上等な格好をしているダーレンを見て、カモだと思って足を踏ませたのだろう。

「ごめんなさいって謝ったのに、このおじさん、すごく怒るんだ」

「ここは謝ってすむような場所じゃねーんだよ! 貴族の坊ちゃんが何をしに来たか知らねーが、誠意を見せてくれないと、こっちは怪我をしたんだからな」

 ダーレンの物言いは、事情を知らない相手からはバカにしているように感じるかもしれない。
 男がダーレンに殴りかかりそうな勢いだったので、ロランは男の前に立って胸を押して止めた。

「分かった、分かったから。この人は俺の知り合いなんだ。俺からも謝る。これで、許してはくれないか?」

 ロランはポケットに入っていた金を男に差し出した。
 それはひと月分の給与だったが、今は数えている余裕がなくて、そのまま渡してしまった。

「おぉ、こりゃずいぶん持っているじゃねーか。ありがたく、受け取っておくぜ」

「それじゃ、俺達はこれで……」

「ちょっと待て」

 さっさとダーレンを連れてこの場を離れようとしたロランだったが、目の前にいた男に手を掴まれてしまった。

「これじゃ、足りないな」

「話が違うぞ!」

「兄ちゃん、綺麗な顔してるなぁ。俺と遊ばないか? そしたらこの金、返してやってもいいぞ」

「なっ……!」

 ぐっと引き寄せられたロランの後ろに、男の手が伸びてきて、尻を鷲掴みにされた。
 何をするんだとロランが身を捩らせて逃げようとした時、二人の間に強引にダーレンが入ってきた。

「ロランをいじめるな!」

 ダーレンはロランを背中に隠して、勇敢に男の前に出て、庇うように手を広げた。

「ひどいことをしないで。どうしてこんなことをするの? ちゃんと謝ったのに、許してくれないの?」

 いつものダーレンの柔らかな声が聞こえてきたが、泣き落としや正論で許してくれる連中じゃない。
 どうにかして逃げられないかと、逃げ道を探していたら、ダーレンと対峙していた男の方から、急に分かりましたという声が聞こえてきた。
 驚いて、さっきまで怒っていた男の顔を見たら、目の焦点が合っておらず、どこを見ているのか分からない顔をしていた。
 頭を打ったのか、それとも酔いが回ったのだろうかと、ロランは唖然としてしまった。
 しかも男は、ロランから巻き上げた金を、ダーレンに渡したのだ。
 こんなに急に改心するなんて考えられない。
 何が起きているのか、さっぱりわからなかった。

 だが、男が大人しくなった今は絶好の機会だ。
 今だとダーレンの手を掴んだロランは、一目散に走って酒場から逃げ出した。
 店を出て全力疾走で坂を駆け下りて、少し走ったところでやっと足を止めた。
 はぁはぁと息を切らして、酒場のある方向を見たが、追ってくる者はいなかったので、やっと大きく息を吐いた。

「ダーレン様、お一人ですか? どうしてこんな所に……」

「……ごめんなさい。ロランが出かけちゃうのが寂しくて、内緒で出てきたんだ。ロランの乗った馬車の、後ろの馬車に乗って、後を追ってもらったんだ」

 別邸を出てから辻馬車を拾ったが、まさか後をつけて来ていたとは知らなかった。
 深窓の令息だと思っていたのに、ずいぶん大胆なことをするなと驚いたが、連れ出したと思われるかもしれないと気がついた。

「大丈夫だよ。ちゃんと手紙を残しておいたから」

 ロランの顔色が変わったからか、クスッと笑ったダーレンが心配しないでと言ってきた。

「それよりこれ、ロランのお金でしょう。あの人、返してくれたよ」

 ダーレンはポケットからお金を取り出して、ロランの手の上に乗せてきた。

「ダーレン様、こんなものはいいのです。護衛も付けずにお一人で出歩かれるなど……、みんな探していますよ。助かったからいいものの、危ないところでした。もうこんなことは……」

 ダーレンの姿が見えたら、ロランは考える間もなく体が動いてしまった。
 助け出したことが正解だったかは分からない。
 慌てていたので、バロックを置いてきてしまったが、とにかく一刻も早く邸に戻りたかった。
 面倒なことになったと、困惑しながらロランが顔を上げると、ダーレンはヒクヒクと鼻を鳴らして、涙目になっていた。

「ごめん、ロラン、ごめんなさい」

 ぽずっと空気の揺れる音を立てて、ダーレンが抱きついてきた。
 シクシク言って泣いているので、仕方なくロランは、ダーレンの背中に手を回して、ポンポンと撫でてあげた。

「私にはもう謝らなくていいです。戻ったらルーラーさんの所に、謝りに行きましょう。一緒に行きますから、泣かないでください」

 ダーレンは子供のように泣いているが、外から見ると、ダーレンの方がロランより大きいので、ロランの肩口で泣くダーレンをひたすら慰めている構図になる。
 道行く人が、男同士で別れ話かしらと言ってジロジロと見てくるので、ロランは参ったなと思いながら頭に手を当てた。

 しばらく落ち着くまで泣かせていたら、ダーレンの唇が傷ついていることに気がついた。

「ダーレン様、唇が切れて血が出ています」

 最初に揉み合いになった時に、殴られたのかもしれない。
 ひどいことをすると思ったロランは、ポケットからハンカチを取り出して、ダーレンの口元に当てた。

「帰ったら冷やしましょう。痛くはないですか?」

「だいじょうぶ……」

 まだグスグス言っているダーレンを支えながら、ロランは手を上げて辻馬車を止めた。
 ダーレンを馬車に押し込んだら、ここでやっと片手に金を握ったままだったことに気がついた。
 なんて一日だったんだと思いながら、息を吐いたロランは、金をポケットの中に突っ込んで、馬車に乗り込んだ。




 

(続)
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