火灯し妖精と夜の国

深見萩緒

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はるかなる旅路

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「ねえ、ずいぶん冷えると思ったら、雪が降っているわ」
 板の隙間から窓の外を覗き、火灯し妖精が言いました。「屋上へ出ましょうよ」と彼女が言ったときにはもう、橙色の光は階段の方へ飛んでいってしまいます。
 おじいさんは「やれやれ、こんなに寒いのに、外に出てどうするんだ」と言いながらも、ガウンを持って彼女を追いました。実浦くんも、嵐の子を誘い、カンテラを持って、屋上へ上がります。

 外の空気は冴え冴えと冷たく、針のように皮膚を刺しました。おじいさんが実浦くんにもガウンを手渡してくれましたので、実浦くんはありがたくそれを受け取り、羽織りました。ガウンは実浦くんには少し大きく、くびの方に余裕がありましたので、実浦くんは嵐の子を前に抱きかかえ、二人でひとつのガウンにおさまりました。
 こんなに寒く、空気はよく澄んでいるのに、星はひとつも出ていません。ときどき火口から舞い上がったヒトリガの、ほかのものより勢いのつきすぎた一匹が、屋上の方まで火の粉のように飛んできます。けれどそのほかに、なんの光もありません。
 深い黒色の空から、綿ぼこりのような雪が、行き先も決まらぬよろめく軌跡で、はらはら落ちてくるだけです。寒さがあんまり極まって、もうこれ以上我慢ができないといって、その一部が割れて剥がれて落ちてきているような、そんな雪でした。

 寂しい雪の空を見上げながら、実浦くんは考えます。あの光の鳥は、無事だったでしょうか。嵐に巻き込まれなかったでしょうか。
 実浦くんは、どこかにハヤブサの影でも見えないかと目を凝らしましたが、やはりどこを向いても、闇のほかなにも見えないのです。
(遠いなあ。すれ違い、別れたもの。歩き続けていると、なにもかもがこんなにも遠くなるのだ)
 実浦くんが切なく身をこわばらせますと、実浦くんに抱きしめられていた嵐の子が、じっと実浦くんを見上げました。その顔の中に嵐があり、そして凍えていた子供の手が、今はわずかながら温められているのが分かりますと、実浦くんは遠く離れていったものの気配と同時に、近づいたものの気配もしっかりと感じたのでした。
 そして、そうして様々なものの気配を感じていますと、実浦くんは、どうにも歩き出したくてたまらなくなったのでした。

「そろそろ行こうか」
 実浦くんが言いますと、火灯し妖精が「そうね」とうなずきました。「私たち、ちょっとゆっくりしすぎたわね」
「どこへ行くの?」と首をかしげるのは嵐の子です。実浦くんは嵐の子に微笑んでから、空の闇の、その向こうを指差しました。
「どこへでも。どこまででも」
 おじいさんが、咳払いをしました。そして「どこへでも行くがいいさ」と言いました。
「だがお前さん方がどこまで行くのか気にはなるから、わしはときどき通信機をもって、電気言語を送るとしよう」
 そうしますと、かたわらにあった通信機が、嬉しそうにランプをちかちか点滅させました。『それが良いよ』とカンテラが言いました。『通信機も、そうしたら満足するだろうからね』


 実浦くんたちは、素早く身支度を整えました。大荷物の灯り捕りと違って、元々、ほとんど荷物などない身なのです。ちょっと髪や服や靴を整えたら、旅立つ支度はもう済んでしまうのです。暖炉の部屋を綺麗に片付けて、おじいさんにお礼を言ってしまえば、あとはもう、歩き始めるだけなのでした。
「おじいさん、たくさんたくさん、ありがとう」
 火灯し妖精が、カンテラの中から飛び出して、おじいさんのまぶたにキスをしました。おじいさんは、レンズのような目をぎょろぎょろっとさせたかと思いますと、やにわに後ろを向いて、「さっさと行ってしまえ」と唸るように言いました。
「だが、今度来たときは、ミルクでなくホットチョコレートを飲ましてやってもいい」
 おじいさんが言いましたので、火灯し妖精はびっくりして、リボンの羽をまたたかせました。
「あら、本当? だったら私、またすぐに来るわよ」
「どれくらいすぐに来るだろうね」
「どうかしら。私いろんなところへ行って、いろんなものを光らしてみたいのよ。だから分からないけれど、どうしても寂しくなったら、通信機で教えてくれたら良いわ。そしたら、きっと会いにくるから」
「寂しくなんかなるもんかね」
 おじいさんがそっぽを向いてしまいましたので、火灯し妖精はもう一度、こんどは頭の後ろあたりにキスをして、カンテラの中に戻りました。実浦くんが、おじいさんに「さようなら」と声をかけますと、おじいさんは後ろを向いたまま「うん」と言いました。


『さあ、それではどこへ行くの』
 観測所を出て、火山のごつごつした傾斜に立ちますと、カンテラが実浦くんに問いかけます。
『どこへ行ったって良いけれど、方角くらいは決めた方が良いと思うな』
 確かに、カンテラの言う通りです。実浦くんが考えていますと、実浦くんの手をかたく握った嵐の子が、「なにか聴こえるよ」と言いました。
 みなが耳を澄ませます。確かに、歌が聴こえてきます。その歌がなんなのか、実浦くんはよく知っていましたので、「ああ、もうすぐ来るんだね」と言いました。
「なにが来るの?」と嵐の子。
「渡し舟だ」と実浦くんが言うのと、暗い空を漕ぎ分けてきた舟が、山頂へ着岸するのと同時でした。

「やあ、元気だったかね」と、舟守りはかすれた声で言いました。
「嵐が酷かったが、大事なかったかね」
「ええ、大丈夫」
 それは本当に文字通り、渡りに舟というものでした。舟はどこへ向かうのかと問えば、南の方へ行くと言いますので、火灯し妖精はそれに喜びました。
「南の方へ行くと、甘酸っぱい果物のたくさんなる木があって、果実はふたつに割ると太陽のようで、金色の汁をぽたぽた垂らすそうよ。私、それ食べてみたいわ」
 それで行き先は、もうほとんど決まったようなものでした。果実の木があるかどうかは分かりませんが、少なくとも、新たななにかは見つかるでしょう。
「では、南へ行こう」
 実浦くんが号令をかけますと、火灯し妖精は待ちきれなくなって、カンテラの中から飛び出して、さっそく舟へ乗り込みました。実浦くんも、嵐の子を抱えて舟べりをまたぎます。

 全員が乗り込むと、舟守りは長い櫂の先で、火山のふちを力いっぱい押しました。舟は、真っ暗な空の方へと漕ぎ出していきます。実浦くんはわずかに身を乗り出すようにして、遠ざかっていく火山を見送りました。
 火口は真っ赤に燃えています。ヒトリガが飛び交っています。そして、ああ、観測所の屋上に人影があります。通信機が、たったひとことの電気言語を、何度も何度も繰り返しています。

 さよなら、さよなら、さよなら。

 実浦くんは、屋上の人影に大きく手を振りました。人影はじっとその場に立っているだけで、ただ通信機だけが、さよならを繰り返していました。


 やがて火山は遠く小さくなり、火口から立ちのぼる真紅の灯りも、闇の中に溶けて消えてしまいました。あたりはすっかり真っ暗になり、カンテラが『ぼくまた船尾灯になろうかな』と張り切ったのですが、その必要はないとすぐに分かりました。
 舟は完全な闇には包まれず、船尾には、すでに灯りがあったのです。一枚の鳥の羽が、金色に光って、曳き波の描く紋様を照らし出しているのでした。
「この羽は、どうしたんですか?」
 実浦くんが尋ねますと、舟守りは櫂をゆったり動かしながら、真っ暗な空を見上げました。
「ここに来る途中、大きな鳥とすれ違ったんだよ。そいつが落としていった風切羽だ。いや、あんな見事な鳥はめったにいない」
「その鳥は、怪我をしていたり、疲れていたりしませんでしたか」
「いいや、実に力強く、立派なもんだったよ。東の空へ飛んでいったよ」
 実浦くんは「そうですか」と言って、指の腹で風切羽をなでました。黄金色の光の粉が、実浦くんの指を光らせて、それから嵐の子の方へも飛んでいきました。


 舟はひっそりと夜をかき分け、静かなる海を進んでいきます。金色の船尾灯が、まるでゆっくりと宇宙を横断する彗星のように、長く優美な尾をひきます。
 やがて南の岸へ到着すると、舟は実浦くんたちを下ろし、再びどこかへ漕ぎ出していきます。そして実浦くんたちは歩き出し、甘酸っぱい果物のなる木を見つけたり、誰かに光を分け与えたり、また恐ろしい嵐に遭遇したりするのです。

 たとえどんなことが起ころうとも、旅はどこまでも続いていきます。放棄の海、深く果てのない闇の中を、火灯し妖精の灯りをよるべにして、実浦くんはどこまでも歩いていきます。
 その果てに何があるのか、それは誰にも分かりません。あるいはその果てに何もなくとも、実浦くんと火灯し妖精は、夜の国を楽しくさまよい続けるのです。


 もしもあなたが、いつか放棄したなにかのことを、切なく愛おしく思い出すことがあれば、真っ暗な夜の国、実浦くんたちのはるかなる旅路の途中に、ひとつ小さな灯火《ともしび》が、きっと輝くことでしょう。




<おわり>
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