雨音の記憶

La Mistral

文字の大きさ
3 / 16
​【第一部:背徳の蜜月】

第三章:背徳の門


 午後八時。

新宿西口の雑踏は、仕事を終えた人々や夜の街へ繰り出す若者たちの熱気で溢れかえっていた。

ネオンの光がアスファルトに反射し、昼間とは違う毒々しい華やかさを街に与えている。

志帆は、広場の片隅にある待ち合わせ場所で、自分の鼓動の速さに戸惑っていた。

 (今からでも、帰れる。体調が悪いと嘘をついて、健太の待つあの冷え切った家に戻れば、明日の私は『正しい妻』のままでいられる)

そう自分に言い聞かせながらも、志帆の視線は無意識に人混みを泳ぎ、あの長身のシルエットを探していた。

​ 「志帆さん」

背後から耳元に届いた声。振り返るまでもなく、それが隆のものであると分かった。

隆は、昼間のスーツの上に濃紺のハーフコートを羽織っていた。夜の闇の中に立つ彼は、昼間のオフィスビルで見かける姿よりも、ずっと近寄りがたく、それでいて抗いがたい色気を放っていた。

 「お待たせしました。……行きましょうか。静かな場所へ」

 隆は自然な動作で、志帆の腰に手を添えた。

その掌の厚みと、薄いブラウス越しに伝わる体温。志帆の脊髄を、目眩に似た震えが駆け抜けた。

​ 彼に導かれるまま、志帆はタクシーに乗り込んだ。

車内は狭く、密閉された空間に隆の香水と、雨上がりの夜の匂いが混じり合う。

 隆は何も言わず、ただ志帆の隣に座っていた。

タクシーが信号で止まるたび、街灯の光が車内を横切り、隆の横顔を彫刻のように照らし出す。

 「……どこへ行くんですか?」

志帆が掠れた声で尋ねると、隆は彼女の方を向き、静かに微笑んだ。

 「僕たちを邪魔するものが、誰もいない場所です」

その言葉の響きが、志帆の最後の理性を奪った。

目的地がどこであるかは、もはや重要ではなかった。

彼女が必要としていたのは、自分という存在を、記号ではなく一人の女として扱い、現実から切り離してくれる「逃避行」そのものだったからだ。

​タクシーが停まったのは、都心から少し離れた、静かな住宅街に佇むホテルの前だった。

歴史を感じさせる重厚な設えのロビーを抜け、案内された部屋に入ると、隆はドアを閉め、鍵をかけた。

カチリ、という小さな金属音が、日常との断絶を確定させる最後の一撃として志帆の胸に響いた。

​部屋の中は、間接照明の柔らかな光にぼんやり包まれていた。

窓の外には、都会の夜景が海のように広がっている。けれど、今の志帆にとって、その美しい景色さえも背景に過ぎなかった。

 「志帆さん、こっちへ」

 隆の声に促され、志帆は窓辺に立った。

隆が背後から彼女を包み込むように抱きしめる。

 「……冷えてますね。ずっと、一人で震えていたんでしょう?」

隆の大きな掌が、志帆の肩から二の腕へと滑り落ち、優しく撫で上げる。

 「私は……私は、こんなことをしてはいけないんです。健太が、家で待っているかもしれない……」

口から出た言葉とは裏腹に、志帆の体は隆の熱を求めて、無意識に彼の方へと傾いていた。

 「健太さんは、君のこの震えに気づいていますか? 君がこうして、誰かに抱きしめられるのを死ぬほど渇望していることに、一度でも思い至ったことがありますか?」

 隆の唇が、志帆の耳たぶをかすめる。

その熱い吐息に、志帆は膝の力が抜けるのを感じた。

​隆は志帆を自分の方へ向き直らせると、その顔を両手で挟み込んだ。

 「僕を見て、志帆。……今だけは、名前も、立場も、すべて忘れていい。君を愛しているのは、あそこに広がる街の誰でもない。僕だ」

 隆の顔が近づき、唇が重なった。

健太との接吻は、長いこと儀式のような、味気ないものでしかなかった。

けれど、隆のそれは、志帆の肺にある空気をすべて吸い出し、代わりに焦燥と快楽を流し込むような、荒々しく、それでいて深い慈しみに満ちたものだった。

​ 志帆は隆の首に腕を回し、縋り付くように応えた。

服を脱ぎ捨てる時間さえ惜しむように、二人はベッドへと倒れ込んだ。

隆の指先が、志帆のブラウスのボタンを一つずつ外していく。

剥き出しになった肌を夜の空気が撫でるが、すぐに隆の熱い舌がそれを塗りつぶしていく。

 「隆さん……隆さん……っ」

 志帆は何度も彼の名前を呼んだ。

それは、暗闇の中で自分の居場所を確認するための、切実な叫びのようでもあった。

​隆の愛撫は、志帆の体の隅々まで、まるで地図を広げるように丁寧に辿っていった。

彼女が今まで自分でも気づかなかった、官能のスイッチを、彼は一つずつ見つけ出し、優しく、時には強引に押していく。

志帆の肉体は、隆という楽器によって奏でられる旋律のように、歓喜の声を上げた。

 「いいですよ、志帆……。もっと、自分を解放して」

隆が志帆の中に深く入り込んだ瞬間、彼女は意識が遠のくほどの衝撃を感じた。

 それは、単なる肉体の結合ではなかった。

互いの欠落した魂が、激しい火花を散らしながら、一瞬だけ完璧に補完し合うような、奇跡的な交わりだった。

​ 「……愛してる。志帆、愛してるよ」

隆が耳元で囁く言葉。それが真実か、あるいは一夜限りの魔法の言葉なのか、志帆には分からなかった。

けれど、今の彼女にとって、その言葉は枯れ果てた大地に降る、恵みの雨のようだった。

志帆は隆の背中に爪を立て、その痛みを刻み込むように彼を抱きしめた。

 (もう、戻れない。戻りたくない)

​果てた後の静寂の中で、二人はシーツに包まり、重なり合ったまま窓の外を見つめていた。

 時計の針は深夜を回っている。

 「……帰らなきゃ」

 志帆が小さく呟くと、隆は彼女の項に口づけをした。

 「帰したくない。……でも、君を壊したくもないんだ。今は」

その「今は」という言葉が、これから始まる長い、そして苦しい二重生活の序曲であることを、志帆は予感していた。

​ホテルを出て、深夜の冷たい空気の中に立った志帆は、先ほどまでの熱が夢であったかのような錯覚に陥った。

けれど、ブラウスの奥に残る隆の匂いと、内腿に残る微かな痺れが、それが現実であることを残酷なまでに証明していた。

マンションの玄関を開けると、健太はリビングのソファで、テレビをつけたまま眠っていた。

画面では、音を消した深夜のニュースが、明日の天気が「晴れ」であることを無機質に報じていた。

志帆は、眠る夫の傍らを忍び足で通り抜け、寝室へと向かった。
 
 罪悪感は、意外なほどに薄かった。

代わりに彼女を満たしていたのは、自分の体に「隆」という刻印が刻まれたことによる、歪んだ、しかし強烈な自尊心だった。
 
 五月の夜。

堤防は決壊し、志帆の人生は濁流となって、未知の、そして光り輝く地獄へと流れ出していた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【R18】秘密。

かのん
恋愛
『好き』といったら終わってしまう関係なんだね、私たち。

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

指輪を外す夜― 横浜・雨の馬車道で ―

La Mistral
恋愛
その恋は、 横浜の雨の日に始まった。 広告代理店に勤める水瀬亜矢(32)。 穏やかな結婚生活の中で、彼女は小さな孤独を抱えていた。 ある夜、 横浜駅で傘を差し出してくれた男。 高坂恒一(46)。 落ち着いた声、微かな香水、 そして彼の左手にも結婚指輪があった。 再会したのは 石畳の街 馬車道 の古い喫茶店。 触れてはいけない距離。 それでも、二人は何度も会ってしまう。 港町の夜景と海風の中で、 静かに始まる大人の恋。 それはきっと、 長く続くはずのない恋だった。 エブリスタにも連載中

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。

元カノと復縁する方法

なとみ
恋愛
「別れよっか」 同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。 会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。 自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。 表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!

惚れた男は根暗で陰気な同僚でした【完結】

Lynx🐈‍⬛
恋愛
イベント企画会社に勤める水木 茉穂は今日も彼氏欲しさに合コンに勤しむ、結婚願望が強い女だった。 ある日の週末、合コンのメンツが茉穂に合わず、抜け出そうと考えていたのを、茉穂狙いの男から言い寄られ、困っていた所に助けに入ったのは、まさかの男。 同僚で根暗の印象の男、【暗雨】こと村雨 彬良。その彬良が会社での印象とは全く真逆の風貌で茉穂の前に現れ、茉穂を助けたのである………。 ※♡話はHシーンです ※【Mにされた女はドS上司に翻弄される】のキャラを出してます。 ※ これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。 ※終了したら【プラトニックの恋が突然実ったら】を公開します。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?