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【第一部:背徳の蜜月】
第三章:背徳の門
午後八時。
新宿西口の雑踏は、仕事を終えた人々や夜の街へ繰り出す若者たちの熱気で溢れかえっていた。
ネオンの光がアスファルトに反射し、昼間とは違う毒々しい華やかさを街に与えている。
志帆は、広場の片隅にある待ち合わせ場所で、自分の鼓動の速さに戸惑っていた。
(今からでも、帰れる。体調が悪いと嘘をついて、健太の待つあの冷え切った家に戻れば、明日の私は『正しい妻』のままでいられる)
そう自分に言い聞かせながらも、志帆の視線は無意識に人混みを泳ぎ、あの長身のシルエットを探していた。
「志帆さん」
背後から耳元に届いた声。振り返るまでもなく、それが隆のものであると分かった。
隆は、昼間のスーツの上に濃紺のハーフコートを羽織っていた。夜の闇の中に立つ彼は、昼間のオフィスビルで見かける姿よりも、ずっと近寄りがたく、それでいて抗いがたい色気を放っていた。
「お待たせしました。……行きましょうか。静かな場所へ」
隆は自然な動作で、志帆の腰に手を添えた。
その掌の厚みと、薄いブラウス越しに伝わる体温。志帆の脊髄を、目眩に似た震えが駆け抜けた。
彼に導かれるまま、志帆はタクシーに乗り込んだ。
車内は狭く、密閉された空間に隆の香水と、雨上がりの夜の匂いが混じり合う。
隆は何も言わず、ただ志帆の隣に座っていた。
タクシーが信号で止まるたび、街灯の光が車内を横切り、隆の横顔を彫刻のように照らし出す。
「……どこへ行くんですか?」
志帆が掠れた声で尋ねると、隆は彼女の方を向き、静かに微笑んだ。
「僕たちを邪魔するものが、誰もいない場所です」
その言葉の響きが、志帆の最後の理性を奪った。
目的地がどこであるかは、もはや重要ではなかった。
彼女が必要としていたのは、自分という存在を、記号ではなく一人の女として扱い、現実から切り離してくれる「逃避行」そのものだったからだ。
タクシーが停まったのは、都心から少し離れた、静かな住宅街に佇むホテルの前だった。
歴史を感じさせる重厚な設えのロビーを抜け、案内された部屋に入ると、隆はドアを閉め、鍵をかけた。
カチリ、という小さな金属音が、日常との断絶を確定させる最後の一撃として志帆の胸に響いた。
部屋の中は、間接照明の柔らかな光にぼんやり包まれていた。
窓の外には、都会の夜景が海のように広がっている。けれど、今の志帆にとって、その美しい景色さえも背景に過ぎなかった。
「志帆さん、こっちへ」
隆の声に促され、志帆は窓辺に立った。
隆が背後から彼女を包み込むように抱きしめる。
「……冷えてますね。ずっと、一人で震えていたんでしょう?」
隆の大きな掌が、志帆の肩から二の腕へと滑り落ち、優しく撫で上げる。
「私は……私は、こんなことをしてはいけないんです。健太が、家で待っているかもしれない……」
口から出た言葉とは裏腹に、志帆の体は隆の熱を求めて、無意識に彼の方へと傾いていた。
「健太さんは、君のこの震えに気づいていますか? 君がこうして、誰かに抱きしめられるのを死ぬほど渇望していることに、一度でも思い至ったことがありますか?」
隆の唇が、志帆の耳たぶをかすめる。
その熱い吐息に、志帆は膝の力が抜けるのを感じた。
隆は志帆を自分の方へ向き直らせると、その顔を両手で挟み込んだ。
「僕を見て、志帆。……今だけは、名前も、立場も、すべて忘れていい。君を愛しているのは、あそこに広がる街の誰でもない。僕だ」
隆の顔が近づき、唇が重なった。
健太との接吻は、長いこと儀式のような、味気ないものでしかなかった。
けれど、隆のそれは、志帆の肺にある空気をすべて吸い出し、代わりに焦燥と快楽を流し込むような、荒々しく、それでいて深い慈しみに満ちたものだった。
志帆は隆の首に腕を回し、縋り付くように応えた。
服を脱ぎ捨てる時間さえ惜しむように、二人はベッドへと倒れ込んだ。
隆の指先が、志帆のブラウスのボタンを一つずつ外していく。
剥き出しになった肌を夜の空気が撫でるが、すぐに隆の熱い舌がそれを塗りつぶしていく。
「隆さん……隆さん……っ」
志帆は何度も彼の名前を呼んだ。
それは、暗闇の中で自分の居場所を確認するための、切実な叫びのようでもあった。
隆の愛撫は、志帆の体の隅々まで、まるで地図を広げるように丁寧に辿っていった。
彼女が今まで自分でも気づかなかった、官能のスイッチを、彼は一つずつ見つけ出し、優しく、時には強引に押していく。
志帆の肉体は、隆という楽器によって奏でられる旋律のように、歓喜の声を上げた。
「いいですよ、志帆……。もっと、自分を解放して」
隆が志帆の中に深く入り込んだ瞬間、彼女は意識が遠のくほどの衝撃を感じた。
それは、単なる肉体の結合ではなかった。
互いの欠落した魂が、激しい火花を散らしながら、一瞬だけ完璧に補完し合うような、奇跡的な交わりだった。
「……愛してる。志帆、愛してるよ」
隆が耳元で囁く言葉。それが真実か、あるいは一夜限りの魔法の言葉なのか、志帆には分からなかった。
けれど、今の彼女にとって、その言葉は枯れ果てた大地に降る、恵みの雨のようだった。
志帆は隆の背中に爪を立て、その痛みを刻み込むように彼を抱きしめた。
(もう、戻れない。戻りたくない)
果てた後の静寂の中で、二人はシーツに包まり、重なり合ったまま窓の外を見つめていた。
時計の針は深夜を回っている。
「……帰らなきゃ」
志帆が小さく呟くと、隆は彼女の項に口づけをした。
「帰したくない。……でも、君を壊したくもないんだ。今は」
その「今は」という言葉が、これから始まる長い、そして苦しい二重生活の序曲であることを、志帆は予感していた。
ホテルを出て、深夜の冷たい空気の中に立った志帆は、先ほどまでの熱が夢であったかのような錯覚に陥った。
けれど、ブラウスの奥に残る隆の匂いと、内腿に残る微かな痺れが、それが現実であることを残酷なまでに証明していた。
マンションの玄関を開けると、健太はリビングのソファで、テレビをつけたまま眠っていた。
画面では、音を消した深夜のニュースが、明日の天気が「晴れ」であることを無機質に報じていた。
志帆は、眠る夫の傍らを忍び足で通り抜け、寝室へと向かった。
罪悪感は、意外なほどに薄かった。
代わりに彼女を満たしていたのは、自分の体に「隆」という刻印が刻まれたことによる、歪んだ、しかし強烈な自尊心だった。
五月の夜。
堤防は決壊し、志帆の人生は濁流となって、未知の、そして光り輝く地獄へと流れ出していた。
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