雨音の記憶

La Mistral

文字の大きさ
5 / 16
​【第一部:背徳の蜜月】

第五章:崩れ堕ちる私生活


一度狂い始めた歯車は、加速度を上げて回り続ける。

志帆にとって、隆と過ごす数時間は「呼吸」そのものになっていた。

オフィスの非常階段、昼休みの駐車場、そして週末の短いホテルでの逢瀬。

彼に抱かれている間だけは、自分が何者であるかを忘れ、ただ熱い血の通った一人の女になれる。

その悦びが深まるほどに、家庭という名の器は、志帆の目には「虚飾の抜け殻」として映るようになっていた。

​ 「志帆、最近、帰り遅いな。外回りって言っても、定時を過ぎてから連絡が取れないことが多いけど」

​金曜日の夜。健太がリビングのソファから、じっとこちらを見つめていた。

その視線は、かつての無関心なものではなく、獲物を探るような、あるいは正体を見極めようとするような鋭さを含んでいた。

志帆は背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、平然を装ってコートを脱いだ。

 「……プロジェクトの最終段階なのよ。クライアントが急な修正を入れてくるから、対応に追われてるの。スマートフォンの充電が切れることも多いし」

 「充電器、会社に置いてあるんだろ? それに、いつもならメールの一本くらい寄こすじゃないか。……昨日だって、夜中の二時に帰ってきたし」

​健太の声は低く、淡々としていたが、それがかえって志帆の焦燥を煽った。

 「仕事だって言ってるじゃない。……健太こそ、急にどうしたの? 今まで私のスケジュールなんて興味なかったくせに」

 志帆は攻撃は最大の防御と言わんばかりに、言葉を尖らせた。

健太は一瞬、言葉に詰まったように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、志帆の首元を指差した。

​ 「そのスカーフ、また巻いてるんだな。……暑くないのか?」

志帆は反射的に首元を押さえた。そこには、数時間前に隆が情動に任せて残した、消えかかった紅い痕があった。

 「……冷房が、きついのよ。オフィスも、電車も」

志帆はそれ以上追求されるのを避けるように、逃げるように浴室へと向かった。

シャワーの熱いお湯が、隆の残り香を洗い流していく。

けれど、鏡に映る自分の顔は、嘘を重ねることに慣れてしまった、見知らぬ女の顔だった。

 (バレる……。でも、もう止まれない)

隆との関係は、もはや単なる不倫ではなかった。

それは、自暴自棄に近い救済だった。

隆がいない世界に戻ることは、再びあの

「死んだような日常」

に埋没することを意味していた。

​ 翌日、志帆は隆にこの危機を伝えた。

 「彼が、怪しみ始めてる……。スカーフのことも、帰宅時間のことも」

ホテルのシーツの中で、志帆は隆の胸に顔を埋めた。

隆は志帆の髪を優しくなでながら、低く落ち着いた声で答えた。

 「大丈夫ですよ、志帆さん。……法曹界にいる人間は、嘘のつき方も、真実の隠し方も熟知している。いざとなったら、僕が君を守ります」

 「守るって、どうやって? 隆さんには奥さんも、お子さんもいるのに……」

隆の手が一瞬止まった。彼は志帆の顎をくいっと持ち上げ、その深い瞳で彼女を見つめた。

 「僕は、君を失うくらいなら、すべてを捨てる覚悟がある。……君はどうですか?」

​隆の言葉は、甘い毒液となって志帆の脳を麻痺させた。



その言葉の重みに、志帆の倫理観はあっけなく崩壊した。

 (この人なら、本当に私を連れ去ってくれるかもしれない)
 
 けれど、現実は無情だった。

 週明けの月曜日。

志帆が会社に出勤すると、デスクの上に一通の封筒が置かれていた。

 差出人の名前はない。

中を確認すると、そこには志帆と隆がホテルに入っていく後ろ姿を鮮明に捉えた写真が数枚入っていた。

​ 志帆の指先が、ガタガタと震え始めた。

 (誰が? 健太? それとも……隆さんの奥さん?)

 背後に誰かが立っている気配がした。

振り向くと、そこにはいつもの冷徹な顔をした上司ではなく、加奈が複雑な表情で立っていた。

 「佐藤さん。……それ、誰かに見られる前に隠したほうがいいわよ」

 「加奈……これ、あなたが?」

 「まさか。でも、社内ではもう噂になってるわ。あなたの『外回り』が、実はどこに向かっているのか。……そして、相手が誰なのかも」

​ 嵐の予兆は、もはや予兆ではなかった。

志帆の積み上げてきた日常は、目に見えないところで、すでに修復不可能なほどに腐り落ちていたのだ。

外では、予報になかった突発的な雨が降り始めていた。

あの日と同じ、すべてを流し去るような、冷たい雨が。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【R18】秘密。

かのん
恋愛
『好き』といったら終わってしまう関係なんだね、私たち。

指輪を外す夜― 横浜・雨の馬車道で ―

La Mistral
恋愛
その恋は、 横浜の雨の日に始まった。 広告代理店に勤める水瀬亜矢(32)。 穏やかな結婚生活の中で、彼女は小さな孤独を抱えていた。 ある夜、 横浜駅で傘を差し出してくれた男。 高坂恒一(46)。 落ち着いた声、微かな香水、 そして彼の左手にも結婚指輪があった。 再会したのは 石畳の街 馬車道 の古い喫茶店。 触れてはいけない距離。 それでも、二人は何度も会ってしまう。 港町の夜景と海風の中で、 静かに始まる大人の恋。 それはきっと、 長く続くはずのない恋だった。 エブリスタにも連載中

嘘をつく唇に優しいキスを

松本ユミ
恋愛
いつだって私は本音を隠して嘘をつくーーー。 桜井麻里奈は優しい同期の新庄湊に恋をした。 だけど、湊には学生時代から付き合っている彼女がいることを知りショックを受ける。 麻里奈はこの恋心が叶わないなら自分の気持ちに嘘をつくからせめて同期として隣で笑い合うことだけは許してほしいと密かに思っていた。 そんなある日、湊が『結婚する』という話を聞いてしまい……。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

元カノと復縁する方法

なとみ
恋愛
「別れよっか」 同棲して1年ちょっとの榛名旭(はるな あさひ)に、ある日別れを告げられた無自覚男の瀬戸口颯(せとぐち そう)。 会社の同僚でもある二人の付き合いは、突然終わりを迎える。 自分の気持ちを振り返りながら、復縁に向けて頑張るお話。 表紙はまるぶち銀河様からの頂き物です。素敵です!

惚れた男は根暗で陰気な同僚でした【完結】

Lynx🐈‍⬛
恋愛
イベント企画会社に勤める水木 茉穂は今日も彼氏欲しさに合コンに勤しむ、結婚願望が強い女だった。 ある日の週末、合コンのメンツが茉穂に合わず、抜け出そうと考えていたのを、茉穂狙いの男から言い寄られ、困っていた所に助けに入ったのは、まさかの男。 同僚で根暗の印象の男、【暗雨】こと村雨 彬良。その彬良が会社での印象とは全く真逆の風貌で茉穂の前に現れ、茉穂を助けたのである………。 ※♡話はHシーンです ※【Mにされた女はドS上司に翻弄される】のキャラを出してます。 ※ これはシリーズ化してますが、他を読んでなくても分かる様には書いてあると思います。 ※終了したら【プラトニックの恋が突然実ったら】を公開します。

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。