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【第一部:背徳の蜜月】
第五章:崩れ堕ちる私生活
一度狂い始めた歯車は、加速度を上げて回り続ける。
志帆にとって、隆と過ごす数時間は「呼吸」そのものになっていた。
オフィスの非常階段、昼休みの駐車場、そして週末の短いホテルでの逢瀬。
彼に抱かれている間だけは、自分が何者であるかを忘れ、ただ熱い血の通った一人の女になれる。
その悦びが深まるほどに、家庭という名の器は、志帆の目には「虚飾の抜け殻」として映るようになっていた。
「志帆、最近、帰り遅いな。外回りって言っても、定時を過ぎてから連絡が取れないことが多いけど」
金曜日の夜。健太がリビングのソファから、じっとこちらを見つめていた。
その視線は、かつての無関心なものではなく、獲物を探るような、あるいは正体を見極めようとするような鋭さを含んでいた。
志帆は背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、平然を装ってコートを脱いだ。
「……プロジェクトの最終段階なのよ。クライアントが急な修正を入れてくるから、対応に追われてるの。スマートフォンの充電が切れることも多いし」
「充電器、会社に置いてあるんだろ? それに、いつもならメールの一本くらい寄こすじゃないか。……昨日だって、夜中の二時に帰ってきたし」
健太の声は低く、淡々としていたが、それがかえって志帆の焦燥を煽った。
「仕事だって言ってるじゃない。……健太こそ、急にどうしたの? 今まで私のスケジュールなんて興味なかったくせに」
志帆は攻撃は最大の防御と言わんばかりに、言葉を尖らせた。
健太は一瞬、言葉に詰まったように目を伏せたが、すぐに顔を上げ、志帆の首元を指差した。
「そのスカーフ、また巻いてるんだな。……暑くないのか?」
志帆は反射的に首元を押さえた。そこには、数時間前に隆が情動に任せて残した、消えかかった紅い痕があった。
「……冷房が、きついのよ。オフィスも、電車も」
志帆はそれ以上追求されるのを避けるように、逃げるように浴室へと向かった。
シャワーの熱いお湯が、隆の残り香を洗い流していく。
けれど、鏡に映る自分の顔は、嘘を重ねることに慣れてしまった、見知らぬ女の顔だった。
(バレる……。でも、もう止まれない)
隆との関係は、もはや単なる不倫ではなかった。
それは、自暴自棄に近い救済だった。
隆がいない世界に戻ることは、再びあの
「死んだような日常」
に埋没することを意味していた。
翌日、志帆は隆にこの危機を伝えた。
「彼が、怪しみ始めてる……。スカーフのことも、帰宅時間のことも」
ホテルのシーツの中で、志帆は隆の胸に顔を埋めた。
隆は志帆の髪を優しくなでながら、低く落ち着いた声で答えた。
「大丈夫ですよ、志帆さん。……法曹界にいる人間は、嘘のつき方も、真実の隠し方も熟知している。いざとなったら、僕が君を守ります」
「守るって、どうやって? 隆さんには奥さんも、お子さんもいるのに……」
隆の手が一瞬止まった。彼は志帆の顎をくいっと持ち上げ、その深い瞳で彼女を見つめた。
「僕は、君を失うくらいなら、すべてを捨てる覚悟がある。……君はどうですか?」
隆の言葉は、甘い毒液となって志帆の脳を麻痺させた。
すべてを捨てる。
その言葉の重みに、志帆の倫理観はあっけなく崩壊した。
(この人なら、本当に私を連れ去ってくれるかもしれない)
けれど、現実は無情だった。
週明けの月曜日。
志帆が会社に出勤すると、デスクの上に一通の封筒が置かれていた。
差出人の名前はない。
中を確認すると、そこには志帆と隆がホテルに入っていく後ろ姿を鮮明に捉えた写真が数枚入っていた。
志帆の指先が、ガタガタと震え始めた。
(誰が? 健太? それとも……隆さんの奥さん?)
背後に誰かが立っている気配がした。
振り向くと、そこにはいつもの冷徹な顔をした上司ではなく、加奈が複雑な表情で立っていた。
「佐藤さん。……それ、誰かに見られる前に隠したほうがいいわよ」
「加奈……これ、あなたが?」
「まさか。でも、社内ではもう噂になってるわ。あなたの『外回り』が、実はどこに向かっているのか。……そして、相手が誰なのかも」
嵐の予兆は、もはや予兆ではなかった。
志帆の積み上げてきた日常は、目に見えないところで、すでに修復不可能なほどに腐り落ちていたのだ。
外では、予報になかった突発的な雨が降り始めていた。
あの日と同じ、すべてを流し去るような、冷たい雨が。
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