社畜のお仕事!本日も晴天なり✨

La Mistral

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​第一章:オフィス侵攻編

第一話 : コンシーラーという名の防弾チョッキ

 午前8時15分。

 始業まで残り45分という空白の時間、南野綺羅々は女子トイレの鏡の前に立っていた。

​ 蛍光灯の無機質な光が、彼女の顔を青白く照らし出す。

 鏡に映るのは、昨夜のストロング缶とコンビニ飯の残骸を抱えた、ひどく疲弊した「死に損ないの自分」だ。

 目の下のクマは、泥濘商事という名の底なし沼に引きずり込まれた犠牲者の末路のように黒い。

​「……本日も、修復(パッチ)を適用します」

​ 彼女はポーチから、プロ愛用の高密着コンシーラーを取り出した。

 それは彼女にとって、化粧品ではない。

 理不尽な怒号や無能な上司の視線から心を守るための「防弾チョッキ」であり、感情を殺すための「偽装装甲」だ。

​ 筆を使い、一ミリの隙もなくクマを塗り潰していく。

 肌の質感が消え、人形のような陶器肌が構成されていくたびに、綺羅々の瞳から生気が失われ、代わりに冷徹な光が宿る。

 最後に、完璧に整えられた眉と、血色のない唇。

 鏡の中に、株式会社・泥濘商事の「有能な事務員・南野綺羅々」がインストールされた。

​ 仕上げに、デスクから持参したピカピカに磨き上げられた加湿器を設置し、スイッチを入れる。

 しめやかなミストが噴き出し、まだ誰もいないフロアに漂う淀んだ空気を浄化していく。

 ミストは、後にやってくるであろう部長の傲慢な顔を白く煙らせる予行演習のように、静かに舞った。

​「本日も、晴天なり」

​ ミストに反射する陽光を見つめながら綺羅々が呟いたその時、背後から自信なさげな声が掛かった。

​「あ、あの……南野先輩。加湿器の掃除、終わったんですか?」

​ そこに立っていたのは、今年入社したばかりの新人、**犬飼健(いぬかい たける)**だった。

 大型犬のような垂れ目と、まだ折り目の正しすぎるスーツ。

 彼はこの一ヶ月、教育係である綺羅々の背中を、畏怖と混乱が混ざったような目で見続けている。

​「ええ、犬飼くん。不純物はすべて除去(デリート)したわ。あなたのデスクの加湿器も、後で私が『最適化』しておいてあげる」

​「いえ! そんな、先輩にそんなことまで……」

​「いいのよ。これは私のキャリブレーション(感覚調整)だから。不衛生な環境は、思考の解像度を落とすわ。それより犬飼くん、例の資料の入力は終わった?」

​ 犬飼はビクリと肩を揺らした。

 その反応の速さは、彼がどれだけ佐藤部長の「パッション」という名の暴力に晒されてきたかを物語っている。

​「あ、はい……一応。でも、部長から『もっとパッションが伝わるフォントにしろ』って言われて、今直してて……」

​ 綺羅々は無言で犬飼のデスクへ歩み寄り、モニターを覗き込んだ。

 そこには、およそビジネス文書とは思えない、太字で、うねり、不必要に装飾された「パッション溢れる」フォントが並んでいた。

 それは、誠実なデータを隠蔽するためのノイズでしかない。

​ 彼女は犬飼の肩にそっと手を置く。

 コンシーラーで冷え固まったような指先が、犬飼の不安げな体温を奪っていく。

​「犬飼くん。パッションはフォントに宿るんじゃないわ。……『正確な数値』と『逃げ場のない論理』に宿るのよ。このフォント、全部MS明朝(デフォルト)に戻して」

​「えっ、でも部長が、魂がこもってないって……」

​「いいから戻して。その代わり、このセルに隠された『参照エラー』と、部長が見落としている『昨年度比のマイナス要因』を、私が可視化(ビジュアライズ)してあげる。……それが、私たちが部長へ叩きつける、唯一の『誠意』よ」

​ 犬飼は、圧倒的な圧力を放つ綺羅々の横顔に、言葉を失った。

 整いすぎた横顔は、一切の感情を排している。この人は、ただの事務員じゃない。

 会社の不純物を浄化し、理不尽を数字で殴り殺そうとしている、静かなる執行官だ。

​「……はい、先輩! すぐ戻します!」

​「いい返事ね。じゃあ、まずはこのデータの『全選択(Ctrl+A)』から始めましょうか。余計な装飾は、すべて私が削除(デリート)してあげる」

​ 綺羅々の指示に、犬飼は盲目的に従った。

 カチカチとマウスを鳴らし、部長の「情熱」という名のゴミを消去していく。

 それは教育というよりは、もはや「子分」への洗脳、あるいは救済に近い光景だった。

​「本日も、晴天なり」

​ 窓の外の青空に背を向け、綺羅々はモニターのブルーライトの中で、冷酷に、そして優雅に微笑んだ。

 彼女の防弾チョッキ(コンシーラー)は、まだ剥がれていない。
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