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最終話 お前はなにを手にする事も出来ない

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「八千代さんと知り合えたのはめっちゃ収穫」

「最初にあんたがうちに来た日の翌日だっけ、会ったの」

「日用品買い出しに行って、そん時」

「思い出した。着ぐるみパジャマを買う買わないで揉めたよね」

 瀧八千代タキヤチヨ

 中学入学時、姿色端麗で目立つ存在だった一ノ瀬綾子イチノセアヤコを焼きを入れる目的で学校裏に呼び出した相手。およそ二年前に地域情報を扱うフリーペーパーを発行する会社を興し、現在は社長業に邁進。三塚松理ミツヅカマツリの母、千秋チアキの雇用主でもある。元ヤンで実践主義者。

「双見の柔軟性も見習うべきっちゃ見習うべきかな」

「あれは優柔不断のうっかり者って言うの」

「或いは慎重且つ大胆。ならば綾子とは似た者同士、お似合いだと思うけどなぁ」

「ほんとしつこく何遍だって言うけど、あたしが不在の時にあたしの許可なくあたしの部屋に誰かを招き入れるの絶対禁止、双見に限らず」

 双見裕フタミユタカ

 綾子の元カレ。高校の卒業式当日、綾子に対する取り返しのつかない裏切り行為をやらかし、一時は決定的絶縁状態となっていた。松理とはテレビゲームの対戦を通じて意気投合。趣味は楽曲制作。先頃、両親のいる名古屋に転居した。工務店勤務、業者相手の営業として日々忙しく働いている。

「今日太にも学ぶとこいっぱいあったんじゃない、素直さとか子供らしさとか」

「最初に一回会ったっきり、接点も特にないし印象もないな」

「給水塔目指してピクニックに行った日もお墓参りとかで来れなかったもんね」

「学区も違うし、今後も会う事はないんじゃない。期待に添えなくて悪いけど」

 千葉今日太チバキョウタ

 唯一公認の、一ノ瀬綾子親衛隊員。六年後に松理と中学で再会し、以後腐れ縁となる。明日美アスミという名の一つ年上の姉がいる。

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 小学校入学を控えた甥の松理が、叔母である綾子のアパートに居候する形で始まった共同生活、およそ二か月半に及んだそれが幕を閉じる。際して記念デートとしゃれ込んだ。

 ならば行き先はアミューズメントパーク、日取りは四月一日こそ相応しいと意見が一致、果たして二人は目的地に向かう電車に揺られている。

 道すがらの振り返りは続く。

「るるちゃんがあんた訪ねて来たのは何回だっけ」

「二回。二月十四日と三月十四日。くまのぬいぐるみ渡されてくまのぬいぐるみ買わされた」

 三塚るる。

 松理の双子の妹。野性的危機回避能力を備え天真爛漫さを以てまるで世界に愛されている存在。好きな出版社はこぐま社、好きなブランド米は熊本県産の森のくまさん。松理を慕い全幅の信頼を寄せている。ラビットスタイルのツインテールがトレードマーク。

「なにしろ一人でバスに乗って目的地に着けたのは大進歩って、姉さんが喜んでた」

「おれの妹だぜ、それくらい朝飯前だっての」

 ところで、と松理が続ける。

「綾子の方はなんかないの、この二ヶ月でものの見方が変わったとかそういう、前向きなあれ」

 スクーターを運転中に転倒、足を捻挫し、大事をとって一週間ほどバイトを休まされた同じ時期に、双見の引っ越しを手伝う為に松理が四日ほど留守をした事があった。

「味噌煮込みきしめん美味かったー。さくらういろう美味かったー。新幹線速かったー」

 無限を思わせる穴の底に独り佇む自分を客観視させようとする時間の波に呑み込まれ、綾子は人生で初めて、テレクラを利用した。

「他人なんて所詮、自分なんてどうせ、なんて言って最初っから高を括る傾向があるでしょ、あたしもあんたも。だけど実際に事に及んでみたら想定外の出来事が起こるかも、て。そんな賭けに乗ってみるのもたまには悪くないかも、て」

 四菱秀ヨツビシシュウ

 離婚成立記念にと同僚に無理やり連れていかれたテレクラで綾子の電話を取り、彼女と知り合う。互いにそうした出会いに於ける勝手が分からず、初対面となったその日は連絡先の交換などはしなかった。だが後に、松理の入学先であり同時に彼の勤務先にて、二人は再会する。先生としての父兄からの評判はすこぶる上々、趣味はホラー映画観賞。

「よく分かんないけどその具体性のないふんわりぼんやりした理屈、おれが綾子の交友関係を覗かせてもらって体験的に得たもんじゃないの。それを掴みどころのない言葉にされちゃったらおれのこの二か月半はなんだったんだって気になるじゃん」

「うん。具体的体験を話すの避けたら有線ヒット狙った曲みたいになっちゃった」

「海より深く反省してもらっていいですか」

「でもほら、今日は四月一日だし」

 電車が速度を落とし、二人の目的の駅に到着した。

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最終話 お前はなにを手にする事も出来ない

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 隣接したビル同士の狭い隙間を行く薄暗い路地裏、陽の届かないそんな場所の住人は、根腐れた植物と腐触した金属と血と精液と生温い水が混じった臭いのする、年来停滞して在る冷たい空気だけ。表通りから痩せた野良犬が鼻先を突っ込んでその場所を覗き込み、直ぐに顔を背けて立ち去った。その犬の尻尾が左右に揺れる様子を松理は、見送った。

 人を待っていた。いや、痩せた野良犬も寄り付かない場所に自分が居る理由として人を待っているからと考え、至極納得を思った。

 次の瞬間。

 轟と眼前に風が巻き、その中心に少年が現れた。

 頭部と、手首から先を除く全身を分厚く頑丈な樹脂製の黒い鎧が包んでいた。両肩で留めた黒布の外套が逆巻くのを止め鳴りを静めた。

 黒い少年がゆっくりと、俯けていた顔を持ち上げて松理を見た。

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 見透かしたようなうすら笑い。

 血色のない薄い唇。

 痩けた頬。

 黒輝の短髪。

 一切の光を放たない闇色の双眸。

 黒尽くめの彼の姿に威圧感を覚える前に、これを遥か昔からの願いが通じたが故の逢瀬と、霞の晴れたような明亮な頭で認識していたから松理は、若干興奮気味に相対する少年の名を口にした。

「はじめまして、陰」

「餓鬼が、物見遊山で足を踏み入れてただで帰れると思うな」

 なにかを。

 或いは全てを。

 見透かしたようなインのそれは、うすら笑い。

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 ついて来いと言ったかどうか、場を立ち去る勢いで歩き出した陰を、松理が追う。

 路地裏から表通りへ出て直ぐ、往来する人の多さに松理は驚く。しかしその誰もが無表情である事は予想と寸分も違わない。言わば葬列が、墓石に似たビルが続く果てしない灰色の中を往く。空もまた寒々しい色をしている。

 ちょうど、松理が住む街の風景と同じようにそれは陰気だった。

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「賑やかな日々を過ごしているようだな」

 先を歩く陰、振り向きもせず言う。

「お蔭様で。楽しくさせてもらってるよ」

「なのに俺を呼び出した。安心の出来る形に相対化しなければ仮初めの喜びさえ味わえないお前がなにを否定する積もりで居るのか、舐めた話だとは思わないか」

 気を抜けば置いていかれる、ついていかねばなにも得られない。先走る気持ちが松理の上体を前に傾かせ、それを二本の足が必死に追う。

「確かにおれは拗ねてるけどさ、周囲には強く感謝をしてる。だから不安もいずれ飼い馴らせると信じてるよ」

「陽当たり良好で結構な事だ」

「想像力を実体験が助ける、この学びはきっと宝になるぜ」

「感謝と言ったな。ならば殊勝に振る舞ったらどうだ。伝わらない敬意に意味は生じるのか」

 振り向いた陰。その表情を松理は挑発と感じる。

「おれは勝手に学ぶ手合いで、それをさせてくれる相手にこそ学んでいる積もりだ。感謝だっておれなりに伝えてる」

「自立心と学習能力を持つものだけが生きろ、という事だな」

 頭の中は明亮だ。

「おれにとって居ても居なくても影響のない人間はごまんといる」

 松理はそう答えた。

 灰色の葬列が往く灰色の街のどこかから、黒電話の呼び出し音が聞こえた。それに気を取られた一瞬の隙に、陰の姿を見失った。

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 胸にせり上がってきたものが不安だと認識出来ていたが、唇を一文字に引いたままで松理は進んだ。

 双見に遭遇した。

「千秋さんに感謝してるか。お前千秋さんに感謝してるのか、え、松理。感謝してるならしっかり言葉にせえよ。言葉にして感謝を伝えろよ、え、松理」

「お前誰だ。双見はそんな口の利き方しねえよ」

 八千代に遭遇した。

「綾子に迷惑かけてるな。認めろ。それとも違うと言い切れるか。綾子本人に確かめたか。怖くて確かめられないな。だったら迷惑かけてないとは言い切れないな。ほらみろ、認めろ」

「八千代さんはそんな事言わねえ」

 今日太に遭遇した。

「おれはねーちゃんにやさしくされてるからよー、ひとにもやさしくできるんだぜー。やさしくされてもやさしくされてるとおもえねーならよー、にんげんやめちまえよこのくずがー」

「馬鹿のくせにうるせえんだよ」

 綾子に遭遇した。

「そうやって否定しか出来ないんなら死にな。姉さんの前で死にな。るるちゃんの所為にして死にな。一回死にな。二回死にな。三回死んで四回死んで五回死んで六回死にな」

「なんだそりゃ、空手バカボンか」

 そうして遂に、るるるるるるる。

「止めろ」

「るるるるる。るるるるる」

「今直ぐ止めろ」

「るるるるるるるるるるる」

「殺す。お前が誰でも絶対に殺す」

「るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」

「止めろ今直ぐさもなくばころ居気レイモンニラ゛の桐呉虚仮とも、気低偽から村切られの都市履歴の差底地六スキムしひめさそ              らあンなまうた会えホランせ灰色の葬列が往く灰色の街のどこかで鳴っているちとしりこんまらきくとしれはらせまもの呼び出し音は続いていた。

 頭

 の

 中は

 明亮だ。

 屋上だ。辺りでは一番に背の高い建物の。乗り越え禁止の鉄柵の上に立ち、陰が、風と遊ぶように前後に身体を揺らしていた。

「心地好い」

 鉄柵から身を乗り出したが、街のどこで呼び出し音が鳴っているかはやはり分からない。詰まり自分こそが無能、突き付けられたその事実を誤魔化すように松理が口を開く。

「陰気な街だな」

「正直者が馬鹿を見る街だ」

 カラオケボックスは盛況、ホームセンターは大盛況、漫画喫茶に詰め掛けた人々は長蛇の列を作っていた。茶請けの煎餅に絆され高額な羽毛布団を買ったならその帰り道には犬を躾けねばならぬ道理、皆が胸を痛めながら犬を蹴り回していた。

「確かに、お前が言う通りなんだろうな」

 卒然、視界が開けたように感じた。

 ズボンの左ポケットに手を突っ込んで取り出したもの、それがやはり思った通りに、鳴り続けていた黒電話の受話器だった。耳に当てるとそれはひやりと冷たかった。松理は。

「これはおれの住む街、いや」

 えらく興奮した気持ちを努めて冷静な言葉に換えて、爆弾を投下するような気持ちで受話器に放った。

「俺が思う世界、そのものだ」

 同時に街を激しい地震が襲った。

 アスファルト舗装の道路が寸断され、倒壊した家屋を巻き込みながら陥没していった。砂塵と黒煙が上がった。足裏を突き上げた衝撃を鈍いと感じたのはほんの一瞬、直ぐに内臓が裏返ったかのような強い吐き気を催し、両膝から落ちて仰向けに倒れた。

 灰色の空を背にして宙に浮いた陰の姿が正面にあった。

「お前の視点はやはり不愉快だ」

 なにかを。

 或いは全てを。

 呑み込んでしまう穴が遥か下方から迫ってくる感覚のあって、松理は砂塵と黒煙に巻かれて落ちた。

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 暗がりの中に寝かされている。ぐるりとくまのぬいぐるみに取り囲まれている。そうした気配に対し撥ねつけようとする気持ちを手懸りにして松理は、目を覚ました。

 青空。太陽の匂いを孕んだそよ風。見渡す限りの芝生の絨毯。身の丈50センチほどの色柄取り取りのくまのぬいぐるみ。そして。

「はじめまして、松理くん」

 アルファベットに准えその数二十六体、くまのぬいぐるみを従えたその少年の名は、ヨウ

 栗の渋皮色の頭髪、重力の為すがままのような垂れ目。ふっくらした頬、ぽってりとした唇、締まりのない柔和な表情。白の丸首着に淡い黒のスリムジーパン。

「お紅茶と、洋梨のパイを用意したよ。ホイップクリームを乗せて食べるととても美味しいのさ」

 そう言って陽が微笑むと、くまのぬいぐるみが一斉に喜びを云う拍手をした。

「食べるかい」

「いらねえよ」

 くまのぬいぐるみの拍手がぴたりと止んだ。

 上体を起こしその場に胡坐をかく。太陽を見上げるみたいに目を細めて陽を見遣って、松理が口を開く。

「俺になんの用だ」

「みんなと一緒にご挨拶にきたのさ。だけど、ホイップよりもカスタードの方が好みだったかい」

 応える陽の、間延びして無防備な声は聞くものを緊張させないが、それに安心して取り込まれた後にその事実に気付いても取り返しがつかない、松理は疑心を盾にする。

「だったら用事は済んだな。ではさようなら、陽」

「そういうわけにいかないのさ。だってそれだと、松理くんは帰り方が分からないままになってしまわないかい。そうなったら困るんじゃないのかい」

「たとえそうだとしてもお前に知恵を借りたなら無意味、だからその気はないって話だよ」

「でも、松理くんが本当にそう思っているなら僕はここにはいないのさ。みんなもここにはいないのさ」

 認めざるを得ない、だが、素直に受け入れる事もためらわれるその事実がいよいよ形になって目の前に置かれた。観察するように陽を睨め付けての黙考の後、松理が応える。

「帰り方、つったな。一筋縄ではいかないだろうと覚悟もしてたし陰の虜になる気もなかった。それだけじゃ足りなかったか」

「ここはアミューズメントパークとは違うから。大体が陰くんはお持て成しの精神に欠いているだろう。僕はそんな事はないけどもね」

「素通り不可、例えばなんらかの条件を満たす必要がある、て事か」

「そんなところかな。正確には、松理くんが自ら気付いてこそ意味がある、ていう感じなんだけどね」

 陽のその言葉がほぼ解答、うっかり漏らしてしまったのかどうかその態度からは判断出来ないが、松理が呆れて天を仰ぐ。

「最初から俺は正解していた。だったらやっぱりこの逢瀬、全くの無意味だったんじゃん」

「誰に見守られていなくても確信を持てたかい」

 即ち、陰との逢瀬を望み叶えられた筈がそのお膳立てをしたのが陽だった、その事実を知って松理は自分への苛立ちを覚える。同時に、悪天候の夜を耐えていた筈がうららかな日の午睡に過ぎなかったと理解し、腹の底から苦笑が湧き上がる。

「恩知らずな態度でいるとまた陰くんに怒られるよ」

「うるせえ」

 腰を浮かせながら松理は、陽の掌の上の洋梨のパイの上に乗ったホイップクリームを人差し指ですくって、一舐めした。立ち姿勢から陽の栗の渋皮色の頭を見遣って、言った。

「ホイップもカスタードもどっちも好みだ」

 二十六体のくまのぬいぐるみがまた一斉に拍手をした。

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 目を瞑った。

 十秒数えたら陰との最終決戦だと決めた。

 十秒数えた。

 頭の中は明亮だった。

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 間延びしたような電子音で奏でられる童謡の旋律が耳に届いた。音響装置付き信号機の誘導音だ。次に四方から団子状になって近付いてくる人の気配を感じ、そこから連想されるように舗装路が延びビルが生え高架が走り電飾が溢れた。陰気な街が再現された。

 松理が目を開けて周囲を見回すと、そこは人いきれ、ちょうど原色の洪水に飲み込まれたところのスクランブル交差点の真ん中だった。夜の帳が下りた街は昼間と比べ、なにかに誤魔化されて取り繕ったような表情を見せていた。

 正面から叩き付けるように風が吹いた。向こうの歩道に陰の姿が在った。

 かと思うと、世界から浮き上がったような異様な身形も堂々と、黒布の外套を棚引かせながら陰が松理に向かい足を踏み出した。

 心構えをしていた筈が、それでは準備が足りなかった。後悔する暇もなく景色がぐるぐる回転しているような眩暈を覚えた。

 果たしてなにかを。

 或いは全てを。

 見透かしたような、それとも挑発しようというようなうすら笑いが迫りくるに応えて松理は。

 咄嗟に言葉をひねり出した。

「後悔はない。いつかお前にだって感謝してやる」

 そうして。

 闇色の双眸になにも映さないままに。

 なにも見せないままに。

 或いはうすら笑いもまた演技であるかのように陰が吐き捨てるように。

 言った。

「獲得したなら後はなにも考えず幸福になってろ、餓鬼が」

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 ぐるぐると回転した。

 景色がぐるぐると回転した。

 竜巻に喰らわれたみたいにぐるぐると回転し、そのまま放り出されるように失神した。

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 綾子の喋る声がふと遠ざかったかと思うと、直ぐに心配そうに名を呼ばれて我に返った。向き合って乗ったティーカップ、それが回っている最中の一瞬、松理は意識が飛んでいた。

「自分で回転速度を上げといて音を上げてちゃ、世話ないわね」

「やんちゃこそ子供の仕事、引率者がその役を満足に演じられるのは俺たちが仕事を全うしてるからだぜ」

 係員の指示に従って遊具を降りた二人。傍からはしっかりはしゃいでちゃっかり楽しんでいるように見えているだろうが、当人たちは敵地に放り出されたような気分から脱却出来ていない。

 松理と同じ年頃の男児が、駆け足で追い抜き様に綾子にぶつかり、振り返りもしなかった。注意を促しながら後を追った母親と思しきも、黙ったまま行ってしまった。

「子供はともかく死ねばばぁと思ったよね、今あたし」

 と、綾子が告白をすれば、松理が頷きながら応える。

「横転しろ、派手に横転して周囲に迷惑を掛けろばばぁ、と思ったけどね俺なんか」

「詰まり今のあたしたちは普段通りの精神状態にあってなんら不自然なところがないという事ね」

「全然とけ込んでるから。違和感なく誰からも見過ごされるくらい立派に風景に馴染んでるから」

 そんな具合に過敏に自らの自意識過剰を指摘し、自制を利かそうと努める。浮かれて舞い上がれば碌でもない事しか起こらないという経験則が防衛本能に訴えた結果として。そうして満額ではしゃげない自らの情態を確認し、安心し、その感情を共有し得る相手の存在に感謝を思う。

 或いはその気持ちが行動となって表れる。

「さ、じゃ、次はいよいよ遊園地の華、ジェットコースターに挑戦よ」

 松理を振り返り、注目を促すみたいにぴんと伸ばした右手の人差し指を顔の横に持ってきて、綾子が続ける。

「あんたが一番に乗りたがってた、ブルビームエクスプレスにね」

 歯切れよく、語尾なんかは跳ね上がって、極々自然に浮かんだ笑顔を添えて。そうして率先してはしゃいで見せる綾子の気遣いに絆され、松理も気後れを感じずに同調する。

「確かに、浮かれ具合はそのテンション」

 ちょうどそのタイミングに、進行方向の先、遊園地の敷地内のほぼ中央辺りに建つ欧風の城の陰に隠れていた太陽が見切れ、眩しくて目を細めながら左手を翳したと同時、正面から突風を受けた。それは全くの偶然ではあったが。

「うっわ、ナマ足魅惑のマーメイドじゃん」

 流行歌の振り付けを真似た格好、素面でやったならばはしゃぎ過ぎ取締官に連行されて然るべき事案、故に込み上げてくる気恥ずかしさに松理が赤面し、苦笑い。

「大丈夫、ダイスケ的にもオールオッケー」

 庇う積もりで綾子が放ったその一言が、しかし松理を更に辱める。

「ちょっと勘弁してもらっていいですか、テストに出ない箇所にマーカー引いて目立たせるの、止めてもらっていいですか」

「ごめん、今の脊髄反射はあたしも反省してる、ほんとごめん」

 その言葉とはしかし裏腹に、綾子は必死に笑いを噛み殺している。そこで松理がふと閃く。このターンで素直に感謝の気持ちをぶつけたなら或いはそれが意趣返しになるのではないかと。

 この二ヶ月半の間に得られた知識と経験、自らに起こった変化、それらをもたらした環境を思いながら。

「双見や八千代さんが俺を対等に扱ってくれて、綾子も俺を受け入れてくれて、話を聞いて意見を言ってくれたりしてさ。自分の気持ちを殺さないで居てもいい場所があると知れたから、俺、この先もやってけんなと思っててさ、今」

 不意の告白に目をしばたたいている綾子、その反応にほくそ笑みつつも表情には出さず、松理が続ける。

「電車の中で綾子もさっき、多少の変化を感じてるって言ってたし、だったら感謝してもいいんだぜ、先ずは俺に」

 呆れ返る綾子、にやける松理。仲睦まじい様子で二人が往く先に、電話ボックスに左手を突いてもたれ掛かっていたくまをモチーフとしたキャラクターの着ぐるみが手を振っていたので、二人は、中指を突き立てて応えた。

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 そうして迎えた四月某日。

 小学校の校門前、紙花で縁取られた入学式の看板横に、誇らし気にランドセルを背負ったるると、仕方なしにという具合にメッセンジャーバッグを斜め掛けした松理が並ぶ。更にその後ろに立つスーツ姿の千秋を加えた母子三人を、フレーム内に収めようとレンズ付きフィルムを構えて試行錯誤していた綾子が、ちょうど背後を通り掛かった学生にぶつかってしまう。

 長髪で中性的な顔立ちの彼が着ているブレザーは、近隣の市立高校の制服。平身低頭で謝る綾子に対し恐縮する男子学生、更に、迷惑でなければ撮影役を引き受けると申し出てくれ、これに甘える事にする。

 フィルムを手渡そうとした綾子がぴたりとその動作を止め、じっと学生の顔を見詰めた。掌を差し出したまま学生が、戸惑いの視線を返した。そうした妙な間が一瞬、発生した。

 千秋の右、松理の後ろに綾子が立つ。

「ほれ松理、気取ってないで真っ直ぐ前見な」

「るるも、ランドセルじゃなくてあんたが主役」

 千秋がるるの肩を掴み、前を向かせる。

 そうしての撮影後、写真の出来を案じながらフィルムを差し出す学生に対し、るるが、ランドセルに飾り付けていたくまを模ったキャラクターのキーホルダーを渡そうとする。

「いいのかい」

「あげるのです」

 応えて微笑みながら受け取り、自分もこれから入学式に出席するところだと言って学生は、立ち去った。その背中を見送る綾子の様子に松理は、違和感を覚えた。

「知り合い」

「じゃないんだけど、どっかで会ってないかなって」

「そんでさっき見詰めてたんだ」

「でも向こうはなんの反応もなくってさ」

「じゃあ勘違いなんじゃない」

「そうかな。そうだね」

 校門の内側から聞こえてきた校内放送、それが入学式の開始まで間もない事を伝え、二人を急き立てた。



(下書き完了日 94.11.21)
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