スマイリング・プリンス

上津英

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第5章 夜明けのプリンス

最終話 鴻野尚也より。

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 佐古川さんが着いて来てくれるって言ってくれた時、俺はスポーツセンターの存在を知った時と同じくらい驚きました。
 仕事でも無いのに着いて来てくれる人が居る。怒られるだろうに着いて来てくれる人が居る。
 その人は俺に「笑って欲しい」とも言ったんです。俺、誰かにそんな事思われる日がまた来ると思っていなかったから、シンプルに嬉しかった。
 生きてていいよ、鴻野尚也は笑って良い価値のある人間だよ、って言われた気がして、正直……救われたんです。 久しぶりに胸に届いたその言葉に、俺は泣いていました。こんな俺でも嬉しくて流す涙が残っていたのが更に嬉しかった。

 同時に、もう一つ気が付いたんですよ。笑っちゃいけない人なんて居ないって事に。
 誰だって笑って良い。そんな単純な事を思い出した時、色の無かった世界がぱっと明るくなったんです。そうしたら楽しくなってきて、生きてて良かった、って思ったんです。
 これが俺があの時泣いた理由です。やっと言えたけど……ちょっと恥ずかしいや。
 佐古川さん、あの時は本当に有り難うございました。

 佐古川さんに会わなかったら俺、きっと今も色の無い世界に居たままでした。こんなに楽しい車椅子バスケをやる事も無かったと思います。
 じゃあ長くなったし書きたい事も書けたし、そろそろ終わりにします。佐古川さんは俺を笑顔にしてくれたんだから、佐古川さんも笑って居て下さいね。
 では失礼致します。本当に有り難うございました。博多に寄った時は遊びに行きます。

 追伸。あの壁紙見て佐古川さんも男だなって思いました。

 鴻野尚也より』



「こ、のくん……」

 手紙を読んでいる途中から涙が止まらなかった。
 あの何を考えているか分からない少年は、細い体にこれだけの思いを秘めていたのだ。身を引き裂かんばかりの悲しみも、前を向くきっかけになる程の喜びも味わっていたのだ。

「…………鴻野君、俺こそ有り難う……」

 呟いて分かった。
 自分は今、悲しいから泣いているわけでは無い。心が満たされて、溢れた物が涙となっているのだと。

「もう……なに泣いとるとね?」

 横で一緒に手紙を読んでいた小百合も、そう言いながら眼鏡の奥の瞳が濡れていた。

「っこげんもん泣くしか無かですやん! 藤沢さんやって泣いとるし!」

 指摘すると、スンッと鼻を啜りながら「やかまし」と小百合が目を細めた。柔らかいその表情は愛おしそうに子供達の愚痴を話す時の表情に良く似ていた。

「佐古川君」

 もう一度ルーズリーフに目を通していた時、涙声を押し込めた小百合から名前を呼ばれた。小百合は一度気持ちを確かめるように深呼吸した後、申し訳無さそうに口を動かした。

「……私、所長失格やね。所長が一番しっかりせんとって思ってたんやけど……それで鴻野君の気持ちば潰すとこやった。私達も利用者さんも、仕事だとかの前に笑って良か一人の人間なんよね。そげん大切な事ば忘れとった。私佐古川君に教えられてばっかたい。ごめん」

 専門家に任せたら――塞ぎ込んでいる尚也を前に小百合は最初そう言っていた事を思い出した。その事を言っているのだ。

「佐古川君は偉かよ。佐古川君の気持ちが、鴻野君の気持ちば動かしたけん。……私も見習わんと。有り難うね」
「……いや。偉いんは俺やのうて鴻野君ばい。俺も鴻野君にたくさん教えて貰ったけん」

 続いた小百合の言葉に首を横に振る。
 人を笑わせる事に職業なんて関係ない事を。誰かが笑う事がシンプルに嬉しい事を、あの少年は教えてくれたのだ。
 一度鼻を啜った後、歩はルーズリーフを封筒に戻そうとし――封筒の中に雑誌の切り抜きが同封されていた事に気が付いた。

「なんこれ……?」

 取り出した切り抜きには、「地元紙です」と一言だけ書かれた黄色い付箋が貼られていた。

「ん?」

 眼鏡を外して涙を拭いていた小百合が自分の手元に気付き、眼鏡をかけ直して顔を寄せる。
 官製はがき程の切り抜きには、長かった前髪を切って爽やかさが増した尚也の写真と、五行の記事が載っていた。東京の体育館で撮ったと思われるその写真には、紫色のラインが入った白色のユニフォームを着て車椅子に座り、満面の笑みを浮かべている尚也が映っていた。
 地元の車椅子バスケットボールチームが一勝した事を綴った記事のようだ。
 「車椅子バスケ難しいですね」と楽しそうにインタビューで語る尚也の表情は、あの日体育館で見た時の笑顔よりもずっと眩しくて、こっちまで笑顔になってしまう物だった。

 ――この顔が見たかったんだ。この顔を見る為に頑張ったのだ。
 そう自覚した時、自分の頬をまた涙が流れるのが分かった。

「……っ鴻野君、俺こそ有り難う……っ! 良か笑顔たいね。楽しそう……良かった」

 ね、と小百合も頷く。隣から、収まったと思った鼻を啜る音がまた聞こえてきて、歩の涙腺にも熱が込み上げて来る。
 自分も鼻を啜った後、気持ちを切り替えるように声を張った。

「さっ! 心機一転、今年も仕事頑張るたいっ!」
「ん、そうね、そうしよっか。ところで佐古川君……どげん壁紙にしとると?」

 先に涙を落ち着かせた小百合がふと尋ねて来る。「推しの彼シャツ姿ですばい!」なんて言える訳が無い。

「うえ。そんなん、ひ、秘密ですたいっ!」
 思わず変な声が出た。逃げるように小百合から離れていく。

「あっ、ちょっと、もー!」

 背中から聞こえる小百合の声には聞こえないふりをした。

「よーし、今日も頑張るたいっ!」

 確か今日の味処奥津は豚こま肉とれんこんのバター醤油炒めに、かぼちゃとレーズンのサラダだ。まろやかな味を想像し無理矢理気持ちを高める。
 丁度その時。
 利用者が開けた自動ドアから、おおぞらの上を飛行機が通り過ぎていく音が聞こえてきた。誰かがどこかに行く音だ。
 その音を聞きながら、歩は眩しそうに目を細め笑みを深めた。
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