蒸気の中のエルキルス

上津英

文字の大きさ
56 / 108
第1章 それはすました蒸気のように

2-7 「そうだ、アンリ君お願いよ!! ココちゃんを殺した犯人を見つけ出してっ!!」

しおりを挟む
 ジャンヌが愛犬の殺害を嘆いているのを聞くのは、これで何回目だろう。腹を裂かれた愛犬は、カラスにつつかれ臓器がはみ出していたと言う。
 土日ずっと泣いていたそうだ。熱心な信者であるジャンヌが、日曜礼拝を休んだのはこのせいだ。
 月曜日の電話から始まり、火曜日も電話され、今日は届け物のついでに直接愚痴られている。ジャンヌは郊外の一番外れにある広い家で一人暮らしだから、とにかく誰かに聞いて貰いたいようだ。ヒステリックなこの人の話を聞く人は少ないだろうから。

「酷いですよねえそれ。ココちゃん、俺が高校生の時からの付き合いですから俺も悲しくて堪らないです。イヴェットちゃんはもっともっと悲しんでましたよ。ユスティンは、あー、どうだったかなあ?」

 自分は仕事をサボる為話に付き合っている方だとは思うが、目の前に出されたラズベリーパイとコーヒーの方が正直今は興味があるし、相槌は結構適当だ。

「ユスティン君っ、こう言う話興味無いわよ……ぐすっ。実は私っ、ユスティン君にエルキルス教会の牧師が変わったの、うううっ、少し不安だったのよ! ちょっと極端な子だし、神学校出たばかりじゃない? でもねっ、アンリ君はヴィクターさんの異動に着いていかないって言うし、ここは知り合いも多いから続けてるのよ!! ぐすっ」
「あはは、有り難う御座います。ジャンヌさんも仰っている通りあいつは新米牧師ですから、まあ見守ってやってて下さい」
「ううぅっ分かってるわよお!」

 その言葉に頷いた後ラズベリーパイを食べ進めていく。

「にしてもそれ何なんですかねえ。恨みだったら悪質すぎますし、快楽だとしても問題です。シリアルキラーは動物虐待から始めがちなんですよ。警察は何て?」

 本筋を思い出した女性の目に、再びぶわっと涙が溜まり始めた。

「そう、それがねっ! 家の庭に来てあれこれやってくれたんだけど、もうココちゃんはかそっ……火葬しちゃったから、うう、結局は犯行時刻を小型録音機から割り出しただけで、後はパトロール強化します、だけ! この辺は死角も多いし防犯カメラも無いから、ココちゃんを殺した犯人を罰する事は出来ないのよっ! 私それが許せなくて許せなくて……っ! ココちゃんは私の生きる理由だったのにっ!!」
「ジャンヌさん本当にココちゃん大切にしてましたもんねえ」

 ジャンヌの碧眼の奥には、自身が被害に遭ったかのような憎悪の炎が燃えていた。独身だからか、この女性はココを実の子供のように可愛がっていた。

「そうだ、アンリ君お願いよ!! ココちゃんを殺した犯人を見つけ出してっ!!」

 名案だとばかりに口を動かしジャンヌは身を乗り出してくる。

「はっ?」

 脈絡のない言葉と、一気に近付いた顔。目を見張り素で返していた。

「アンリ君こういうの得意そうだし! 顔も広いでしょう? お小遣いあげるからやって!」
「まあ狭くはないですけど……だからって、ただの事務員がシャーロック・ホームズになれるとは思えませんよ?」

 ジャンヌとの距離は尚も近い。さり気なく頭を引いていた。

「やる前から決め付けては駄目。役立たずの警察より分かればいいのっ!」

 一転してジャンヌの声に張りが出てくる。もう犯人の首根っこを押さえた気になっているようだ。
 製造コストによる規制で、公的機関しか一部の精密機械は持てない時代。一般人と官僚で技術力の差があるのに、幾らなんでも警察より分かる訳がない。

「いやいや買い被りすぎ、」

 ですよ、と続けようとした時。近付いた唇に耳打ちされた。
 ――お小遣いというより懸賞金のような金額を。

「え」

 瞬間、ピタリと動きが止まる。

「引き受けてくれたらあげるから」

 ね、お願い。
 そう続き耳元から唇が離れた。

「……えっ……と……」

 生々しい数字を囁かれ、呼吸を忘れている自分が居た。
 教会事務員の給料は決して高くない。勤務年数が同じ人間と比較すれば低い方だろう。教会の2階にタダで住まわせて貰っているとは言え、欲しい物を好きな時に買う為アルバイトをしているくらいだ。
 先日イヴェットを守る為所持金に致命傷を負わせたからか、ジャンヌの声がセイレーンの歌声に聞こえてくる。

「け…………警察より分かれば、良いんですか?」

 出来ない約束にならないか――頭の片隅では理解しているのに、勝手に動く唇は止まらない。

「そうよ! ココちゃんの為に一肌脱いでっ!!」

 2人しかいない家に、甲高くて必死な声が響いた。

「…………」

 先程囁かれた数字が頭から離れない。犯人を見付けなくても良いなら、やれない事は無いような気もする。
 だったら。

「やり、ます。やらせて下さい。ココちゃんの為、に」

 磁力に抗えぬマグネットのように、気が付けば頷いていた。

「本当!? 良かった、有り難う! ココちゃんも喜んでるわ!!」

 目の前の女性がそんな自分を見て嬉々とした声を上げる。先程まで号泣していたとは思えぬ程溌剌と。

「うっふふふ。アンリ君って大人ぶってるけど、私から見たらまだまだ子供だわ」
「あっはっはっは、そうかもですねー?」

 どんな表情で何を言っていいか分からず、ニコッと笑ってやり過ごす。

「ところで」

 ジャンヌがふと声量を落とした。
 まるで子供を心配するような顔付きで。

「……はい?」

 雰囲気が変わり、自然と背筋を正す。
 次の話題はココの事ではないと感じた。

「8月から貴方達、3人だけで暮らすようになったじゃない? 上手くやれてるの? 喧嘩とかしてない? イヴェットちゃんこの前事件に巻き込まれたじゃない? 長い付き合いだし、心配なのよ」
「え?」

 一瞬身構えたものの、返って来たのは意外な質問だった。
 8月──2ヶ月前。
 それまで牧師館でずっと一緒に暮らしてきたユスティンの両親と、イヴェットの両親がそれぞれ遠くの教区に異動となった。結果自分とイヴェットとユスティンがエルキルスに残ったのだ。
 ジャンヌはその事を言っているのだろう。

「うーん。誘拐ってトラブルはありましたけど、仲良くやってるとは思いますよ? 喧嘩するのは前からなので今もまあありますけど、イヴェットちゃんも高校生になって大人になりましたし平穏です。まあ夕食の時、大分ラジオの音が聞こえやすくなりましたけどね?」
「なら良かったのかしら。実はイヴェットちゃんに前同じ事を聞いたんだけど、なんて言ったと思う?」

 首を振り「さあ」と苦笑いで返す。どうせあの時の事だろう。

「一番最初アンリさんのせいで喧嘩したおかげで仲良くやれてますよー、よ。何したの貴方」

 思った通りだ。苦笑うしかない。

「…………あれぐらいで泣かれるなんて思わなかったんですよ」
「男があれぐらいって言う時、女は覚えてろよって思ってるからね。気を付けなさい」

 どこか恨みがましいジャンヌの言葉に居心地悪さを覚えた。曖昧に笑って返し、ラズベリーパイの残りを素早く口に放る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

身体交換

廣瀬純七
SF
大富豪の老人の男性と若い女性が身体を交換する話

サイレント・サブマリン ―虚構の海―

来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。 科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。 電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。 小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。 「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」 しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。 謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か—— そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。 記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える—— これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。 【全17話完結】

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

処理中です...