蒸気の中のエルキルス

上津英

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第2章 それはうそぶく蒸気のように

2-20 「ノアの血が欲しいんだ」

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 後6時間もすれば空は明るくなるだろうが、この部屋に居る人間の表情は何時になったら明るくなるのだろうか。この手紙は少しでも同僚の表情を明るくするのだろうか。
 リチェには少しも見当がつかなかった。

***

 自室は日が差し込む南にあるおかげで、ノア・クリストフは快適な目覚めを迎える事が出来た。
 ラジオを点けて朝食の用意を始める頃には目も覚めた。窓の外の朝日を見ながら、「南半球は北向きの方が太陽に当たるんだよなー」と先日の授業で習った事を思い出す余裕すらあった。

「太陽、かあ……」

 一緒に賑やかなクラスメイトの顔も思い出し気分が重くなる。ラジオもフレッドと切り裂きジャックの話題だ。

「違う違う!」

 学校へ行くと決めたのだ。暗い顔ではいけない、と首を横に振り、バターを塗りたくったトーストを食べていく。急がないと遅刻しそうだ。
 朝食も登校の準備も済ませて玄関扉を開け外に出て──視界に一番最初に飛び込んできたのは陽の光ではなかった。

「あっ」

 そこに居たのは天然パーマの隣人、ヴェンツェルだったのだ。
 チャイムを押さず待っていたのは、解剖学の本を読んでいたかららしい。こんな時間に何か用だろうか。

「ヴェンツェルさん? どうしました?」

 自分に気が付いたヴェンツェルが本を閉じこちらを向いた。どこか思い悩んだ表情を浮かべている。

「あのさ、ちょっとノアに頼みがあるんだけど」

 細いヴェンツェルだろうと、廊下に立ち塞がっていると窮屈だ。
 頼み? と首を傾げるとヴェンツェルがぐいっと数歩こちらに近付いてきた。青い三白眼が近くなる。

「ノアの血が欲しいんだ」
「はあああああ?」

 血。
 突然突拍子もない事を言われ目を丸くし、素っ頓狂な声を上げた。

「オレ、医学生じゃん? それでさ、昨日教授から電話が来て採血の課題が出たんだよ。血縁以外の血を採って病歴を調べて来て下さいって。オレ友達居ないし……こんなのノアにしか頼めなくてさ。教授達は飲んでる薬が多いから駄目なんだ」

 ボソボソと説明され「なるほど」と納得した。
 しかし。

「採血……って今じゃないと駄目ですか? すんません、遅刻しそうで……」

 採血。その単語にゾッとした。
 それに昨日の今日で解剖学の本なんて読んでいる事に、ほんの僅かな嫌悪感を抱いてしまったのだ。
 自分が快諾しなかったからだろうか。ヴェンツェルが驚いたように目を丸めた。

「えっ、ああ……。別に急いでないよ。月末までだし……採血もオレの家に来てくれればいいし」
「じゃあすみませんけど、この話は後で! ごめんなさいっ、急いでて!」

 もう一度謝り、逃げるように横を通り抜けエレベーターへ向かう。マンションの外に出ると、外気の冷たさを一層強く感じた。今日は思ってた以上に視界が白い。
 歩道を進む事を意識しながら、少しだけ急ぎ足で自校への道を進んだ。昨日とは違うルートを自然と選んでいる自分が居た。

「アルミ缶持ってきてくれー!」

 この道は、河原にテントを張っているホームレス達の声が良く聞こえる。彼等は今、アルミ缶を潰してリサイクルに出す作業をしているようだ。
 その声を聞きながら。

「採血……注射……」

 思い出すのは先程のヴェンツェルとの会話だった。

「うーん……」

 自分は子供の時頻繁に熱を出し、両親やヴァージニアに手間を掛けさせた。注射が苦手なのもこの頃の病院通いによるトラウマのせいだ。
 血管が見えにくいからと何度も刺された。
 アルコール消毒をすると皮膚が赤くなった。
 採血後の止血用液体テープ――30分後勝手に蒸発する――を貼ると痒くなって嫌だった。
 ヴェンツェルは大切な隣人。いつかは協力したいが、急ぎではないなら後回しにしたいというのが本音だ。
 注射くらいで情けない、と溜め息を吐きながら滑り込みで校舎に入り教室に向かった。

「あ……」

 自分に気付いたクラスメイト達が一瞬黙り込む。

「……」

 教室は水を打ったように静まり返ったものの、静寂を破るようにすぐにドミニクが反応してくれた。

「ノアッ!」

 駆け寄って来た見慣れた茶髪にホッとする。こちらを見てくる垂れ目が一瞬何を言おうとばかりに揺れたが、すぐに人懐こい笑みに変わった。

「今日髪切るってさ、どれくらい切んの?」

 ドミニクのおかげだろう。凍り掛けた教室の空気もすぐに解け、クラスメイト達の視線もすぐに思い思いの方に逸らされる。

「んー、これくらい。結構切ろっかな」

 一房己の髪を摘み、人差し指と中指を鋏のように動かして希望を伝える。

「ふーん、そっか。まあオレが切る訳じゃないから聞いただけだけど」
「なら聞くなよな」
「あっはっは、ごめんごめんっ!」

 親友の笑い声を聞きながら己の机に向かう。
 先程感じた教室のぎこちなさは何処にもない。それはこのすぐ後に来た教壇に立つ教師も同じだった。しかし教室内にちらほらと空席が出ている事を思うと、実際傷は深いのだろう。
 プリントが入ったままのフレッドの机を見ながら、そっと溜息を吐いていた。

 ──ノアの血が欲しいんだ。

 教室が静かになると、思い出すのは今朝のヴェンツェルの言葉。
 冷静に考えると自分は今日どころか暫くマンションには帰らない。隣人の課題に協力する日は、事前に考えた方が良いかもしれない。
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