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Ⅰ Trollmann―魔法使い―
4 「へっ!?」
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黙っておくのが得策だ、と言わんばかりに足音1つ立てず痩せぎすの女中は消えていく。
グローヴェンの屋敷で働く女中は、前科があったりグローヴェンに逆らえない血筋の者だったりと、事情がある人物ばかり。
自分を含め皆どうしてもこの城の女主人公の気に障る事は避けてしまう。この家を辞めさせられたら生きていけないからだ。
大人しくロヴィーサの後を着いていった。きっと先程邪魔をした事を叱られるのだろう。
トロムソは北極圏ながら恵まれた位置にあり、気候が穏やかだ。おかげで屋敷の中は比較的暖かいのだが、先程から背中に寒い物を感じるばかり。
この屋敷で働くようになってまだ1年。ここまで声を荒らげるロヴィーサを初めて見た。
ロヴィーサが娘に音楽をやらせたくないのは知っているがやり過ぎだ。もう少しアストリッドの話を聞いてあげるべきだ。
そう思っても失職をチラつかされるとアストリッドの味方はしにくい。歯痒かった。
階段を上がり、一際上質な楢の木で作られた扉の前に立つ。主人はとうに中に入ってしまった。
「ふぅ……」
中に入る前に一度溜息をつく。息子の為に耐えるしかない。
「なんでしょうかロヴィーサさ――っきゃ!?」
部屋に入るなり、バチンッ! という鋭い音と共に痛みが頬に走った。
反射的に瞑った目を開くのが恐ろしかった。目の前には絶対に、険しい顔をしている主人が居る。
「あの子を連れ戻すまでは目を瞑ってやっていたけど……聞いたわよ。アストリッドにあの家を紹介したのはお前らしいわね? どういうつもり!? 私がアストリッドに音楽をやらせたくないの、お前も知っているでしょう!」
えっ? とたじろぐ。
主人は何の話をしているのだろう。家を紹介する? 自分にそんな事が出来る訳がない。
痛みで熱の引かない頬に手を当てる。主人の表情は、思っていた以上に熾烈だった。
「え、あの、ロヴィーサ様。何の話をされてるのですか……?」
「この馬鹿ラップ人が! 私はそんな言葉が聞きたいわけではないの!」
「ですが……ぁ」
少しして思い至った。
アストリッドに崖上のあの民家を紹介したのは、屋敷で一緒に働く女中のどちらかなのだ。
だがロヴィーサが気付いてしまったから、あの民家を紹介した罪を「ラップ人」である自分に擦り付けたのだ――と。ロヴィーサも誰かを叱責出来れば良いのだろう。
頬の痛みもあり目頭が熱くなる。
「貴女自分が置かれている立場を理解していないようね? 同性の用心棒が欲しくて雇ったけど、ラップ人がこんなに頭が悪いなんて思っていなかったわ。クビになっても良いの!?」
大きくなった金切り声が鼓膜を突き、命乞いをするような目を主人に向ける。
「それだけは止めて下さい……っ! 申し訳ありません……申し訳ありませんでしたっ……!!」
一度堰を切って溢れた涙は枯れる事を知らなかった。どうしてやっていない事で怒られるのだろう。唇に歯を立てて堪える。
しかし、今自分が職を失う訳にはいかないのだ。主人や女中仲間に罵られる事を除けば、ここ程良い屋敷はないのだから。
夫は息子の顔を見る前に死んでしまった。少しでも稼ぎの良い町で立派に息子を育てる。それが今の自分の唯一の希望なのだ。
申し訳ありません、と虚空に向かって呟いた。ロヴィーサはふんっと鼻で笑う。
「次は無いわよ」
頬を抑えたままこくこくと頷くと、主人は紅を差した唇ににんまりと弧を描いた。
「だったら許してあげるわ。貴女が息子を愛している気持ちは私にも分かるもの」
「……はい、有り難う御座います」
「いい? アストリッドには当分あそこに入っていて貰うわ。音楽をやりたいなんてあの子が言わなくなるまでね。例えそれが30年後だとしてもずっーっとあそこに居て貰う」
ロヴィーサが当たり前のように言うので頷きかけてしまったが、すぐにその言葉の意味に気が付いて目を見開く。
そんなのただの監禁だ。主人の言葉は無茶苦茶だ。
「音楽なんてやるくらいなら、ずっと牢屋に居た方が幸せなのよ? あの子を守ってあげられるのは母親である私だけ。さっ、早く私の可愛い娘に温かい夕食を届けに行って頂戴。ほら、さっさとなさい!」
自分の言葉を少しも疑わずに笑みを深めるロヴィーサが怖ろしくて、何も言えなかった。了解したと頭を下げて部屋を後にする。
部屋を出ると、1階から漂ってくるバターの甘く芳しい匂いが鼻孔を擽った。
否が応でも腹の奥底が刺激される。今日はサーモンを焼くのだ、と女中達が話していたのでそれだろう。こんな時でも空腹を覚えるものなのだな、と暗い物を覚えリーナは目を伏せ厨房に向かう。
すっかり暗くなった窓の外ではしんしんと雪が降り始めているのが見えた。
***
数世紀前から建っている屋敷なので、当然のように地下牢がある。
子供の時遊びで何度も侵入した事があるが、まさか遊び以外でここに入るとは思っていなかった。相変わらず寒いし暗いしジメジメしている。
アストリッド・グローヴェンは少しでも暖かくなろうと、女中が渡してくれた毛皮のコートの襟を引っ張り隅で蹲った。
「ううう寒い……」
思わず零れた呟きは地下室に広がる闇の中に消えていく。
自ら入った場所ではあるが寒い物は寒い。髪が長い上頭に三角巾も巻いているおかげで首筋が多少暖かいのが救いだ。
この寒さの前では母の言う通りピアノを弾かない方が平和なのか、と気持ちが折れそうになってしまう。
けれど、好きな事をやりたいという炎は何度水をかけられようとも消える事は無かった。6年間ずっと、何があろうと燃えていたのだ。この気持ちに嘘は吐きたくなかった。
なんだかんだ言いつつ母は自分を大切に扱ってくれている。なのにどうして自分の話は少しも聞いてくれないのだろうか。
はあ、とまた深い溜め息が漏れた。次自室で眠れるのは何時になるだろう。
――その時。
不意に地面が揺れた。前触れなんて無く。
「へっ!?」
地面が揺れるなんて初めてだ。
なんだろう、これは。どこかで未曾有の雪崩でも起きたのか。それともアイスランドの火山でも噴火したか。
グローヴェンの屋敷で働く女中は、前科があったりグローヴェンに逆らえない血筋の者だったりと、事情がある人物ばかり。
自分を含め皆どうしてもこの城の女主人公の気に障る事は避けてしまう。この家を辞めさせられたら生きていけないからだ。
大人しくロヴィーサの後を着いていった。きっと先程邪魔をした事を叱られるのだろう。
トロムソは北極圏ながら恵まれた位置にあり、気候が穏やかだ。おかげで屋敷の中は比較的暖かいのだが、先程から背中に寒い物を感じるばかり。
この屋敷で働くようになってまだ1年。ここまで声を荒らげるロヴィーサを初めて見た。
ロヴィーサが娘に音楽をやらせたくないのは知っているがやり過ぎだ。もう少しアストリッドの話を聞いてあげるべきだ。
そう思っても失職をチラつかされるとアストリッドの味方はしにくい。歯痒かった。
階段を上がり、一際上質な楢の木で作られた扉の前に立つ。主人はとうに中に入ってしまった。
「ふぅ……」
中に入る前に一度溜息をつく。息子の為に耐えるしかない。
「なんでしょうかロヴィーサさ――っきゃ!?」
部屋に入るなり、バチンッ! という鋭い音と共に痛みが頬に走った。
反射的に瞑った目を開くのが恐ろしかった。目の前には絶対に、険しい顔をしている主人が居る。
「あの子を連れ戻すまでは目を瞑ってやっていたけど……聞いたわよ。アストリッドにあの家を紹介したのはお前らしいわね? どういうつもり!? 私がアストリッドに音楽をやらせたくないの、お前も知っているでしょう!」
えっ? とたじろぐ。
主人は何の話をしているのだろう。家を紹介する? 自分にそんな事が出来る訳がない。
痛みで熱の引かない頬に手を当てる。主人の表情は、思っていた以上に熾烈だった。
「え、あの、ロヴィーサ様。何の話をされてるのですか……?」
「この馬鹿ラップ人が! 私はそんな言葉が聞きたいわけではないの!」
「ですが……ぁ」
少しして思い至った。
アストリッドに崖上のあの民家を紹介したのは、屋敷で一緒に働く女中のどちらかなのだ。
だがロヴィーサが気付いてしまったから、あの民家を紹介した罪を「ラップ人」である自分に擦り付けたのだ――と。ロヴィーサも誰かを叱責出来れば良いのだろう。
頬の痛みもあり目頭が熱くなる。
「貴女自分が置かれている立場を理解していないようね? 同性の用心棒が欲しくて雇ったけど、ラップ人がこんなに頭が悪いなんて思っていなかったわ。クビになっても良いの!?」
大きくなった金切り声が鼓膜を突き、命乞いをするような目を主人に向ける。
「それだけは止めて下さい……っ! 申し訳ありません……申し訳ありませんでしたっ……!!」
一度堰を切って溢れた涙は枯れる事を知らなかった。どうしてやっていない事で怒られるのだろう。唇に歯を立てて堪える。
しかし、今自分が職を失う訳にはいかないのだ。主人や女中仲間に罵られる事を除けば、ここ程良い屋敷はないのだから。
夫は息子の顔を見る前に死んでしまった。少しでも稼ぎの良い町で立派に息子を育てる。それが今の自分の唯一の希望なのだ。
申し訳ありません、と虚空に向かって呟いた。ロヴィーサはふんっと鼻で笑う。
「次は無いわよ」
頬を抑えたままこくこくと頷くと、主人は紅を差した唇ににんまりと弧を描いた。
「だったら許してあげるわ。貴女が息子を愛している気持ちは私にも分かるもの」
「……はい、有り難う御座います」
「いい? アストリッドには当分あそこに入っていて貰うわ。音楽をやりたいなんてあの子が言わなくなるまでね。例えそれが30年後だとしてもずっーっとあそこに居て貰う」
ロヴィーサが当たり前のように言うので頷きかけてしまったが、すぐにその言葉の意味に気が付いて目を見開く。
そんなのただの監禁だ。主人の言葉は無茶苦茶だ。
「音楽なんてやるくらいなら、ずっと牢屋に居た方が幸せなのよ? あの子を守ってあげられるのは母親である私だけ。さっ、早く私の可愛い娘に温かい夕食を届けに行って頂戴。ほら、さっさとなさい!」
自分の言葉を少しも疑わずに笑みを深めるロヴィーサが怖ろしくて、何も言えなかった。了解したと頭を下げて部屋を後にする。
部屋を出ると、1階から漂ってくるバターの甘く芳しい匂いが鼻孔を擽った。
否が応でも腹の奥底が刺激される。今日はサーモンを焼くのだ、と女中達が話していたのでそれだろう。こんな時でも空腹を覚えるものなのだな、と暗い物を覚えリーナは目を伏せ厨房に向かう。
すっかり暗くなった窓の外ではしんしんと雪が降り始めているのが見えた。
***
数世紀前から建っている屋敷なので、当然のように地下牢がある。
子供の時遊びで何度も侵入した事があるが、まさか遊び以外でここに入るとは思っていなかった。相変わらず寒いし暗いしジメジメしている。
アストリッド・グローヴェンは少しでも暖かくなろうと、女中が渡してくれた毛皮のコートの襟を引っ張り隅で蹲った。
「ううう寒い……」
思わず零れた呟きは地下室に広がる闇の中に消えていく。
自ら入った場所ではあるが寒い物は寒い。髪が長い上頭に三角巾も巻いているおかげで首筋が多少暖かいのが救いだ。
この寒さの前では母の言う通りピアノを弾かない方が平和なのか、と気持ちが折れそうになってしまう。
けれど、好きな事をやりたいという炎は何度水をかけられようとも消える事は無かった。6年間ずっと、何があろうと燃えていたのだ。この気持ちに嘘は吐きたくなかった。
なんだかんだ言いつつ母は自分を大切に扱ってくれている。なのにどうして自分の話は少しも聞いてくれないのだろうか。
はあ、とまた深い溜め息が漏れた。次自室で眠れるのは何時になるだろう。
――その時。
不意に地面が揺れた。前触れなんて無く。
「へっ!?」
地面が揺れるなんて初めてだ。
なんだろう、これは。どこかで未曾有の雪崩でも起きたのか。それともアイスランドの火山でも噴火したか。
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