アストリッドと夏至祭の魔法使い

上津英

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Ⅴ Love―約束―

53 「逃げて下さい! 俺もまだ逃げられる機会はあります!」

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 少しして半開きだったウィルの口が閉じた。
 現実を噛みしめるように瞬いた後、目を細めて微かに口角を上げて頷く。安堵と喜びを滲ませた静かなその表情は、春の陽光みたいに穏やかで暖かい。

「それは……勿論。俺の方こそ貴女に気持ちを押し付けすぎてしまい申し訳ありませんでした。だから泣かないでください……貴女は笑っている顔の方が似合います」

 そう言われ、自分が泣いている事に初めて気が付いた。悲しい訳ではない。胸をいっぱいにする安らぎと愛しさが溢れて止まないからだ。

「やだっ、ごめん! 何か拭く物……あーもう何で持ってないの」

 慌てて背筋を正しポケットの中をまさぐるが、鞄と一緒にハンカチは屋敷に置いて来てしまった。
 と、こちらへ伸ばされた黒いローブが涙を吸い取るように目元にそっと触れる。いきなりの事に驚いてびくりと肩を強張らせると、ウィルが申し訳無さそうに目を伏せた。

「あっごめんなさい、ハンカチじゃないですけど……吸水性はあるかと思って」
「……ふふっ、それ毛皮だしね」

 目元に感じた柔らかな質感が直ぐに遠退いていく。
 名残惜しそうに大きな手を見送っていると、ふと青色の瞳に映る自分と目が合った。それだけの事に胸が満たされて笑みを深める。

「それにしても、良く俺がここに居るって分かりましたね」
「タルヴィクで貴方が買ってくれたサーミのネックレスのおかげよ! あれで精霊魔法を使って、貴方の居場所に気が付いたの。作っておいてくれて有り難うね」
「あれが……? 貴女の役に立ったようで何よりです」

 ローブを目元に伸ばしたままウィルは声を弾ませる。その表情はもう何時もの物だった。

「さ、早く逃げましょう。そうだ、貴方の杖どこかしらね……やっぱり無いと困るよね?」
「そうですね、あれが無いと俺はただの人です。頑丈ですし、壊れずに何処かにあるとは思いますが……でもまあ、最悪数年以内にはあれは不思議と手元に帰って来ますから良いですよ」

 ウィルが頷いた直後――がちゃりとドアノブが回る音がした。
 老夫婦が引っ越した今、ここは既にルーベンの家。そんな家に用事がある人は限られている。この家を買った人や、現在の住人だ。

「!!」

 ハッとして顔を上げると、思った通りそこには自分と良く似た婦人が、炎のような赤い髪が乱れているのも気にせず立っていた。

「やっぱりここに居たのね! 親に毒を盛るなんて駄目じゃない!!」

 自分達を確認したロヴィーサの目が釣り上がり、大股で部屋に入ってくる。革靴の重みにギっと床板が悲鳴を上げた。

「お母様!? ウィル、逃げよう!」

 どうやらコーヒー豆の効き目はもう終わってしまったようだ。
 すぐに他の人も来るだろうから、ウィルの杖が無い以上捕まえるより逃げた方が良い。そう思いぱっと立ち上がる。
 膨らんだ漆黒のドレスが廊下を圧迫しているのも手伝い、魔法使いの手をぐいっと引いて窓に逃げる。

「っいた!」

 しかし。
 窓際に逃げようとした自分の耳に飛び込んできたのは、足に力が入らず崩れ落ちる、苦悶の表情を浮かべる青年の声だった。

「っごめっ……!」

 そうだった、ウィルは足を怪我しているのだ。
 血が止まっているからと言って、傷まで完治しているわけではない。いきなり手を引けばこうなるのは、雪が降れば積もるように当然の事。

「すみませっ――!!」
「逃げるな!!」

 壁を支えに立とうとしていたウィルの足をロヴィーサの靴が踏みつけ、青年の体勢が再び崩れる。

「っ俺は良い、です……! 逃げて下さいっ!」

 険しくなった表情で言われ一瞬躊躇したが、活火山と化している女性の気を逸らすには自分が行動した方が良さそうだ。ぐいぐいと傷口を踏まれているウィルから視線を引き剥がし、無我夢中でレースのカーテンが風に靡いている窓際へと駆け寄った。
 ――が、レースのカーテンを振り払い窓を開けようとして気が付いた。窓のレールに棒が置かれていて、これ以上窓が開かなくなっているのだ。

「く……っ!」

 ガタガタッと無理に開けようとしかけてハッとする。これは換気で窓を開ける際の防犯対策だ。換気が行えるだけしか窓が開けられぬように、と。

「ふんっ!」

 この数秒の事故が不味かった。
 鼻を鳴らしたロヴィーサが立ち上がった時には、床には後手を白樺の鞭で縛られたウィルが倒れていた。どうやら何時の間にかあんな物まで取り出していたようだ。

「どうしてさっきの話を聞いても音楽をやろうと思うのよ! 危険でしょうが!!」

 ロヴィーサはそれから、自分の逃げ道を塞ぐように扉の前に立ち、眉を釣り上げて叫ぶ。

「逃げて下さい! 俺もまだ逃げられる機会はあります!」

 鼓膜を震わす青年の声に背中を押して貰った。そうだ、何もこれが最後の機会になるわけではない。

「ごめんっ絶対助けに行くから……!!」

 この魔法使いの救出に愛娘が駆け付けて来るのだから、幾ら母でも確実にウィルを餌にする筈。機会は必ず訪れる。
 レールに置かれている棒を外し、窓を全開にして逃げようとする。いつの間にかぱらぱらと雪が振り始めていた。

「そんなにこの魔法使いが大事なの? じゃあ今助けてあげなさいっ!!」
「ぅ!」

 逃げようとした時に聞こえたロヴィーサの叫び声とウィルの微かな声に、背筋に寒い物を感じ振り返り――扉の前で母がウィルに馬乗りになっているのを見てしまった。白くて細い指が青年の首に食い込んでいる。

「だったら殺してやるわ! それであなたは大人しくなるのでしょう!」」
「っ止めて!」

 苦痛に歪んだウィルの表情を見て逃げられる程、利己的にはなり切れない。窓枠に掛けようとした足を慌てて外し、ロヴィーサに体当たりをしようと思った。
 ――その時。
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