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Epilog―エピローグ―
64 「ウィル!」(完)
しおりを挟むEpilog―エピローグ―
「行ってきまーすっ!」
「では行って来ます」
あれから春になって、海の氷も大分溶けた頃。
ロヴィーサや女中に見送られて、アストリッド・グローヴェンとウィルは蒸気船でベルリンに向かっていた。
最初は将来の娘婿をじとりと値踏みしていたロヴィーサも、レオンや動植物に優しい姿、近隣の住民に英語を教えている姿、何よりも酒を嗜まない姿に、信頼をすぐに寄せていた。
「本当に好きな人と一緒になりたいなら、それが魔法使いでも別に良いわよ。……また崖から飛び降りられたくないしね」
そう言って冗談っぽく目を細めたロヴィーサに以前の熾烈さは感じなかった。リーナへの償い、とすっかり慈善活動に目覚めたのも大きいのだろう。
ベルリンはトロムソよりもずっと暖かい。
初めてノルウェーを出た自分にはその事がとても新鮮で楽しくて、ウィルにドイツ語を教わっている時もずっと頬が緩んでいた。
ウィルも最初こそすぐに魔法を使っていたが都度指摘していく内に回数が減り、今では歪な杖を塗り直して――勿論代わりにやった――ステッキにしていた。
ピアノの師事を受けられて、大好きな人が隣に居て。
充実した日々はあっという間に過ぎ4年の月日が経過していた。
クリスチャニアの楽団でピアノを弾ける事になり、ウィルも翻訳の仕事が軌道に乗ってきたのを機に再びクリスチャニアへ戻った。ウィルが通訳ではなく翻訳の仕事を選んだのは自分の隣に居たかったからだ、と言った時は照れた。
銀色の地面を踏み1番に結婚式を挙げ、ウィルのにやつきが収まらない中自分達を両親だと思っている5つになったレオンを引き取った。
レオンを養子に――トロムソを発つ前から考えていた事だった。
トロムソで育てるよりも、サーミ人への偏見がさほど無いクリスチャニアで育ててあげたかった。
それに、これには血を残したくないというウィルの強い賛同もあったのだ。
「魔法使いは俺で最後にした方が良いよ」
そう言ったウィルが、どこか肩の荷が下りたように笑っていたのが印象的だった。
レオンを育てる日々は厳しい師事を受けた日よりも大変だったが、リーナが望んでいた事だと思うと頑張れた。
ルーベンは上手に母から支援を受けているらしく、あの家で画家としてやっていると聞く。クリスチャニアの画廊に置かれていたルーベンが描いた幼い男児の絵画は、数日も並んでいなかった。
街中に雪を見なくなって久しい今日は、6月23日。
1年で1番太陽が長い日、夏至を祝う日だ。
冬を忘れきった新緑をつけたノルウェー楓が並ぶ通りを抜けると、夏至祭が催されている広場が見えてくる。
クリスチャニアの中でも小規模の広場――流石首都だけあってそれでもトロムソのように大きい――であるそこで家族と落ち合う事にしたのは、五重奏を終えた劇場から最も近い夏至祭会場だったからだ。
「んー……っ」
拍手喝采で公演を終えた高揚感と、夜でも空が明るい開放感。それらに浸りながら、会場を見渡す。
黒色のジャンパースカートを着て白い花冠を被った笑顔の少女達が、あちこちで踊っている。明日も平日だからか、同行している両親グループはどこか面倒臭そうだった。
離れたところにはノルウェーの民族楽器である、愛らしい装飾が施されバイオリンに良く似たハーディングフェーレという楽器を演奏している男性も居た。ハーディングフェーレが世界一可愛い楽器だと思っているので、その姿に胸が弾む。
反対側のステージにはピアノも置かれていた。ここはどうやらスタッフの目の下好きに弾いて良いらしい。
「あ」
焚き火から一段と離れた森の中に、素焼きのカップに口を付けている夫の姿を見付けたのはその時だった。
「ウィル!」
名前を呼んで、薄手の黒いジャケットを着て木の幹に凭れ掛かっている青年の元に駆け寄る。白夜の木漏れ日が当たる金色の髪がイエローサファイアのように輝いている。
名を呼ばれて振り返った青年は、自分の姿を認めるなりぱっと顔を輝かせる。
「アストリッド。お疲れ様、仕事はどうだった?」
「満員御礼よ、有り難いわ。レオンは?」
つられて自分も笑顔になりながら隣に並び、夫を見上げながら愛しい存在について尋ねる。ウィルとレオンは自分より先に会場に来ている筈。レオンの姿が無いのはおかしい。
ウィルは何も言わずに目線を一点に向ける。
「わっ」
その視線を追い気が付いた。焚き火のすぐ近くで、黒色のベストを着用した茶髪の男児が、花冠を被った女児と見様見真似のダンスを踊っていたのだ。2人共笑顔で、笑い声がこちらにまで届きそうだった。
レオンと踊っている子の両親はレオンを見ても何も思っていないようで、クリスチャニアで暮らして本当に良かったと感じる。
「早速ガールフレンドが出来たようだよ。……お父さんはあっち行ってて、って笑顔で言われた……」
そう告げる時の表情がどこかどんよりとしていて、ふふっと笑う。
「貴方もすっかり父親ね」
「まさか自分にこんな日が来るとは思ってなかったよ」
ウィルは視線を落としたままぼそぼそと言った後、カップに口をつける。冷やかした自分も、可愛い息子が少女と笑い合っている光景を見るのは内心複雑だった。
ふう、と気持ちを落ち着かせるように一度息をつき気持ちを吐露する。
「レオンにいつかリーナの事話さないとね。お母様も私達も、リーナですら嫌われそうで怖いけど……」
自分達とレオンの顔は骨格からして違う。近い将来確実に来るだろう日を思うと笑みもどこかへ消え眉が下がった。自分の言葉にウィルの手の動きも止まる。
リーナはレオンの為に死んだ。それをどこまで、どんな風に伝えれば良いだろう。
「うん、暫くそうなるだろうね。でも俺らがちゃんとレオンの気持ちに向き合っていれば、きっといつかは分かってくれる日が来る……んじゃないかな」
一拍後に告げられた言葉はどこか弱々しかったが、嘘のない青い瞳を見ていたら大丈夫ではないかと思えてくるから不思議だ。
目を合わせてゆっくり首を縦に振った後頷き、ゆるやかに笑みを深めていく。
「有り難う。ね、何飲んでるの?」
問いかけるとふっと視線を逸らされた。
怪しい。
答えが返ってくるまでじっと睨み付けていたら、数十秒後ポツリとした呟きが風に乗ってきた。
「…………君が作ったビルベリーシロップで割った炭酸」
「炭酸?」
ウィルの言葉に片眉が上がる。この夏至祭会場に炭酸飲料を配布している業者は居ない。
となると、この炭酸飲料の出所は1つ。
「駄目でしょ! 最近魔法使ってなかったのに!」
すぐ近くに置かれている鞄の上にウィルの杖がある事を横目で確認し、きっと眉を吊り上げて怒ると夫は慌てて釈明を始める。
「ごめん! 分かってるんだけどさ。ほら、夏至祭の日は魔法使いで居たいんだ。特別な日だから……夏至祭の魔法使い、って少し格好良くない?」
後半になるにつれ声が小さくなっていく姿を見て小さく息をついた。確かに夫が言っている事は分かるし、そういうところが好きなのだ。何か言い返せるわけがない。
「もー……。夏至祭でだけよ?」
結局何も言えずふんっと顔を背けると、ほっと胸を撫で下ろしたウィルが「有り難う」と囁いて身を屈める。視界を覆う影の面積が増えたな、と思った次の瞬間、ちゅっと一瞬だけ唇が重なった。
「……こら」
夏至祭は焚き火を囲む祭り。
自分達を見ている人物は居ないだろうにどうも気恥ずかしい。夫はどこか満足そうに目を細め、早々に話題を変える。
「君も飲む? レオンには内緒だよ」
「そうね、でも後にさせて貰うわ。それよりピアノが弾きたい」
確かに自分もあの時の思い出の味を楽しみたい。
しかしその前にピアノを演奏したかった。会場が広いのでハーディングフェーレとピアノの音が不協和音を奏でる事はない。
「さっきも弾いていたのに凄いね」
「好きだから」
「さすがアストリッド。じゃ、行ってらっしゃい」
ウィルは嬉しそうに笑いステージを指差した。荷物を置きステージに向かい、今は誰も座っていない木製ピアノの前に立っている女性スタッフに声をかける。
「ピアノ、良いですか?」
「はい、どうぞ……あっ」
こちらを向いた眠そうな女性は、自分の姿を見るなり目を見開き背筋を正した。
「貴女はアストリッドさん!? お会い出来て光栄です。ファンなんですよ、私。女性なのに凄いな、私も頑張ろう、って」
「わ、有り難う御座います。それを言って貰えるのが1番嬉しいです!」
どこか緊張している女性の言葉に目を細める。
ノルウェーの夏は太陽が沈まない。自分はこの季節が、この祭りが大好きだ。夏至祭は何時だって元気をくれる。
早速椅子を引かれ、礼を言いながら着席した。すっと一度深く息を吸い、鍵盤に指を這わせる。
ピアノを弾く時はいつからか想いを乗せるようになっていた。今回もこう願っている。
――この大地に響かせた音色が誰かの心に残りますように、と。
白夜の季節はまだ始まったばかりだ。
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