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13・オジサンの奇跡

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 うわー。この人、本当にまた来ちゃったよ。

 夜道をタクシーで走るとたったの十五分で我が家に到着。私は、車内の心地良い揺れでウトウトし始めた竹村係長をなんとか引きずり下ろし、アパートの二階にある私の部屋まで連れてきたのだった。

「竹村係長、着きましたよ。小百合に会ったら、すぐに帰ってくださいね」

 私は部屋の電気を点けると、ローテーブルの前にあった座椅子に竹村係長を座らせた。目は半分以上閉じている。

「じゃ、エアコンをつけますよ。よく見ていてくださいね!」

 竹村係長が小さく頷いたのを確認すると、私はリモコンを握る手に力を入れた。

『ピッ』

 すぐにエアコンの下から黒いモヤが流れ出てきて、あっという間に人の形が現れた。

「結恵(ゆえ)、お帰り。ついに連れてきてくれたんだね。うん、よく見るとやっぱりいい男じゃないか」

 今日も美人な小百合は、艶(なまめ)かしい所作で足を折ると竹村係長の隣へ侍るようにして座った。

「ねぇ、起きておくれよ、係長さん。いつも、うちの結恵がお世話になってるんだってね」

 小百合が竹村係長の肩に触れる。竹村係長は一瞬身体をピクリと動かしたが、それだけだ。それどころか、半分以上夢の世界へ旅立っているように見受けられた。

「竹村係長! 起きてください! 今、隣に小百合が居るの分かりますか?」

 その直後、ずしりと重いものが身体に覆い被さる。竹村係長が急に抱きついてきたのだ。加齢臭はしないけれど、酒臭くてたまらない。

「ちょっと! 何してるんですか?!」
「あー、結恵だー」
「私が何か?! ほんとに重いし、これは不味いですって!」

 もしかして、このまま酒の勢いでこんなオジサンに犯されるんじゃなかろうか。ふとそんなことが頭を掠めて必死にもがく。そのかいあってか、すぐに私の身体は自由になった。ところが、事態はさらに悪化する。

「嘘?! やめてください!!あー……」

 なんと竹村係長はその場で背広とズボンを脱ぐと、隣の部屋にあった私のベッドへ直行したのだ。いろんなことが未経験な女性の前でなんて破廉恥な! 顔を赤くしてしばらく硬直していると、涼やかな声が飛んできた。

「寝床を陣取るとは、なかなかに大胆だ」
「小百合! そんな悠長なこと言ってる場合じゃないよ! 今夜、私寝る場所無いじゃん!」
「ん? あそこで一緒に寝ればいいじゃないか。あれはきっと結恵を誘っているのさ。あの男、さっきは念力を込めて肩を叩いてやったのに、全く靡かなかったね。つまりは、そういうことなのだろうよ。だからもう、私は諦める」

 寂しそうに俯く小百合。長い髪が耳から落ちて、その陰りは哀愁を漂わせるばかりか大人の色気で溢れている。いや、それより念力って駄目でしょう?!

「え……?! そんなわけないじゃない!」
「結恵もその気だと思っていたんだけどねぇ。わざわざここへ連れてきたぐらいだ。かなり気を許している証拠だろう?」
「ないない! だって、オジサンだよ?」

 小百合はクスクス笑うと、身を翻して元の黒いモヤに戻り、エアコンの下にすっ込んでしまった。残されたのは、脱ぎ捨てられた竹村係長の抜け殻。私はそれを汚いものを触るかのようにして摘み上げると、皺になるといけないと思ってハンガーにかけておいた。






 翌朝、私が目を覚まして微睡んでいたのはローテーブルの真横だ。絨毯の上に座椅子の背もたれを倒してその上に横になり、コートを掛け布団代わりにして寝た昨夜。へくしょんっ!しまった、風邪ひいてしまったか。電気代をケチろうとして、寝る前にエアコンの電源は落としてしまったのだ。
 
 私はパジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、首にマフラーを巻いている。部屋の中なのにここまでの重装備をせねばならないのも、全部アイツのせいだ。私はそっと引き戸をスライドして隣の部屋の様子を覗き見た。

「おぉ、早いな。おはよう」

 なんと、竹村係長は既に起きていた。それならそうと声をかけてくれればいいのものを。昨夜と変わらず私のベッドに潜り込み、我が物顔で何やら本を読んでいる。あ、それは!

「紀川もこういうの読むんだな」

 ニタニタ笑う竹村係長が手にしていたのは、私が枕元に置きっぱなしにしていた読みさしの小説。それも先日映画化されたばかりの純愛ラブストーリーだ。かっと顔が熱くなる。

「勝手に他人の部屋を物色しないでください!!」

 そう言いつつも、以前興味本位で買ってしまったR18小説じゃなかったことにホッとする。あれはベッドの下に隠しているから、そう簡単には見つかるまい。もし竹村係長に見つかったならば、退職願を書いてしまうかもしれない。

「それにしても、寒いな」

 竹村係長は、ちゃんと私の羽毛布団で寝ていたはずなのにクシャミをする。私は渋々エアコンをつけた。それは私にとって何気ない動作であり、まさかこれが奇跡の始まりになるとはいざ知らず。いつも通り小百合が現れて、私にだけその存在を見ることができると思い込んでいた。

「え?! 何だよ、その美人な姉ちゃんは!」
「竹村係長、どうしたんですか?」
「どうしたって……あ! 透けてる! おい、お前、このアパート何か憑いてるぞ!」

 私は首を傾げた。

「だから言ったじゃないですか。うちのエアコンには小百合っていう美女お化けが棲んでるんですって」
「おや、係長さん。もしかして私のことが見えるのかい?」

 小百合は長い黒髪を背中側へとかきあげて、さっと竹村係長のいるベッド近くへ歩み寄った。

「で……出たー!!!」
「あれ、もしかして竹村係長、本当に小百合が見えるようになったんですか?」

 もしかして、竹村係長はこういうホラーでファンタジックな現象が苦手なのだろうか。そういう私も、初回は近所迷惑なレベルの叫び声を上げてしまい、竹村係長を呼び寄せることになってしまったんだっけ。
 竹村係長は、壊れた人形のようにコクコク頷いている。

「あら、そうかい。それは嬉しいねぇ。係長さんよ、うちの結恵はどうだい? マッチ棒みたいに細っこい身体だったから、最近はたくさん食わせて太らせているんだよ。これだけ色艶も良くなりゃ、子どもだって授かれるはずだよ?」
「小百合、何言ってんの?! あーもう、竹村係長は小百合のことなんか気にしないでください!」
「いや、待て。小百合……さん? ちょっと話が」

 急に冷静で真面目な顔つきになった竹村係長。ここが私の部屋の私のベッドの上じゃなかったら様になったのに。こんな女の子らしさ満載の場所でシリアスな雰囲気醸し出しても、笑いがこみ上げてくるだけだ。

 小百合は妖艶に微笑むと、楚々と竹村係長に近づいて耳を寄せていた。瞳だけはこちらを捉えて離さないあたり、私のことを話しているのは間違いないだろう。でも、二人の声は小さすぎて聞こえない。あー、気になる!

 密談は二、三分で終了した。

「小百合も、竹村係長と会えてもう満足でしょ? 竹村係長もこれ以上居座らないでください! さっさと出てけ!」
「え、いいの?」

 竹村係長が布団から這い出ようとした時、肝心なことを思い出した。この人、ズボン履いてない! 私はハンガーごと背広とズボンを投げつけてやった。

「竹村係長なんて、大っ嫌い!」

 私にこんなことを言われたにも関わらず、竹村係長は嬉しそうに笑っている。何故だ。オジサンの生態は未知なる現象が多すぎて、とても理解が追いつかない。

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