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鈴蘭の彼女
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メアリーが結婚するために村を出ていくというので、仲間と一緒に鈴蘭の花束を贈った。幸せになるようにと祈りを込めて。次に彼女が戻ってきたのは五年後だった。その間に彼女は娘を一人産み、夫の暴力を受けて死んでいた。
「おじちゃんは、お母さんのこと知ってる?」
遺された四歳の娘は、その父親の家から追い出されるようにして村へやってきた。母親が入っている小さな箱を抱きしめて。その痩せ細った体からは、十分に飯も与えられていなかったことは明らかだった。なのに、白い花がよく似合う母親とそっくりの笑顔でこちらを見上げてくるのだ。世の中には、悪なんてものが存在しないかのように。
「もちろん知ってるよ」
「おじちゃんは、お母さんのこと好き?」
好きだったし、今も好きだ。むしろ、愛してさえいた。ただ、それを口にしたことはない。メアリーはその美しさを買われて、遠くの街にある由緒正しい家柄の軍人に嫁ぎ、畑仕事や夏の暑さ、冬の厳しさ、好色な村長の視線から解放され、穏やかな人生を歩むはずだった。メアリーのことを思うからこそ、最後の最後まで伝えずにいたというのに。
メアリーを殺したのは、自分なのではなかろうか。
メアリーと同じ顔をした娘と目が合うと、息が止まりそうになる。いや、僕は悪くない。仕方がなかったのだ。こんな言い訳をするのは、もう何度目になることか。
「お母さんは、とっても綺麗な人だったのよ」
「そうだね」
お喋りな四歳の少女は、僕に向かって両手を伸ばす。まるで、実の父親にするかのように。羽のように軽い彼女を持ち上げて、膝に乗せる。
「お母さんはね、すずらんっていうお花が好きなのよ。寂しい時にすずらんのお花に耳を近づけたら、遠くの人とお話ができるのよ」
「遠くの人かい?」
「そうだよ。ずっとずっと遠くにいる人。お電話っていうものとよく似た形をしているから、聞こえるのよ。だからあたしね、明日はすずらんを摘みに行くんだ! お母さんとお話をするの」
この少女だって、村の神殿に預けた白い箱の中身が骨だということは知っているはずだ。その一方で大人は皆、「お母さんは遠くへ行ったんだよ」と言って誤魔化す。少女は何も知らぬフリをして、聞き分けよく頷いて、期待通りに子どもらしくすることに勤しんでいる。どこにでもある日常の風景だ。
「おじちゃんも聞いてみたいな。咲いている場所は分かるかい?」
「知らない」
「それなら、ちょうど良い。おじちゃんが連れていってあげよう」
◇
翌日、山へ入った。間もなく五月。ちょうどこの季節を選んでメアリーは帰ってきたのだろうか。少女は鈴蘭を見つけると、この年頃特有の甲高い声を上げて、白い花の群生に飛び込んでいった。背中に妖精の羽をつけているかのような軽やかさで。深呼吸すると、やや青臭くもクリーンな香りが胸を満たす。
「見て! イヤリングみたいでしょ」
千切られた白い釣り鐘形の花が、彼女の耳元で揺れていた。
「あぁ、よく似合っている」
ひとまずレディ扱いして褒めてやると、少女はすまし顔でカテーシーを返してくる。おませなことだ。
「おじちゃん、大好き! でも、お母さんの方が好き!」
「そりゃぁ、そうだろうよ」
「お母さんのこと、一番好きなのはあたしなんだよ!」
鈍器で後頭部を殴られたような気がした。
それによる自らの変化に気づくこともなく、ゆっくりと少女へと近づいていく。
「おじちゃん、怖い顔してどうしたの?」
「おじちゃんも、君のお母さんの声が聞きたくなってね」
「いいよ」
少女は、また一輪毟ると、こちらへ寄越してきた。潰れかけた白い花の形を慎重に指で整えると、耳元へ運び目を閉じる。
メアリーとは、つい数ヶ月前まで連絡を取り合っていた。彼女の手紙には楽しかったこと、嬉しかったこと、そして娘の話しか書かれていない。しかし、決まって最後には「村へ帰りたい」とあった。つまり、図らずも彼女の望みは叶ってしまったことになる。それでは、もう一つの君の望みも叶えてあげようではないか。君をもう一度幸せにできるのは僕しかいない。
「君のお母さんはね、ずっと君と一緒にいたかったんだ」
「あたしもお母さんと一緒にいるよ」
少女は鈴蘭を花束にして胸に抱えていた。母親が入った箱を抱えていた時と同じように、その手指は青白く、何かに怯えているように見えた。
「でもお母さんいなくなっちゃったよ」
「そうだね。遠くに行っちゃったんだよね」
「大きくなったら会いに行けるのかな?」
「そうだね。うーんっと大きくなって、少し小さくなったら会えるんじゃないかな」
「どうやったら早く大きくなれるの?」
「そうだなぁ」
「嫌だ! お母さんに会いたいの!」
僕には子どもがいない。癇癪を起こした少女の扱い方なんて知らなかった。
そもそも結婚もしていない。メアリーがいなくなった時点で、僕の人生はその歩みを止めたのだから。
「じゃぁ、とっておきの方法を教えてあげようか」
苛立ちを押さえて、仕事用の笑顔を作ってみる。少女の目から瞬時に涙が引っ込んだ。
「鈴蘭はね、遠くの人に会いに行くこともできるんだよ」
頬を紅く染める少女に向けたささやかな羨望は、隠した。
◇
可憐な花に似合わぬ毒が美しい少女を蝕んだ。少女が何と叫んでいたのかは覚えていない。ただ目の前で苦しんで、そして消えた。少女の亡骸は残らなかった。知識以上に、命とは儚いものだった。
僕は、メアリーのもう一つの望みを叶えてやることができて、実に満足だった。この手でメアリーの本当の最期を見送ることもできた。これで、この世でメアリーを最も愛しているのは僕だけになる。
メアリーは喜んでいるだろうか。今や亡き君にしてやれることは、本当に少ない。僕はこれからも毎年この時期になると、鈴蘭を眺めては君のことを思い出し、君を独り占めし続けるのだろう。
その夜は、夢を見た。小さなメアリーが僕の寝台に忍び込んできた瞬間、その姿があの日村を出ていった大人のメアリーに変化する。彼女の頬に手を伸ばせば、しっとりと吸い付くような白い柔肌が擦り寄ってきて、ひとしきりその感触を楽しんだ。
そうだ。メアリーは喜んでいる。
僕にそれを伝えに現れたのだ。
やけに深い眠りから覚めた時、まだ夢の中にいるかのようだった。僕は自分の家の寝台の中にいるはずだった。なのにどうしたことだろう。見渡す限りの鈴蘭。壁という壁、家具、床、天井。ありとあらゆるところから白い花をつけた鈴蘭が顔を出し、視界一面が白の斑点がついた緑になっていた。異様でスピリチュアル。噎せ返るような青臭さが鼻をつく。
中でも目の前にある一輪は、僕に話しかけるように枝垂れかかっていた。見ると、つけている花は十三。そうか、幸せの鈴蘭。きっとメアリーからの贈り物だ。
僕は、今度こそ物理的に手を伸ばそうとした。だが、動かない。いつの間にか身体が鈴蘭の群生に絡み取られて、囚われていた。ここで初めて、ひっと息を飲む。
次の瞬間、目の前の鈴蘭の小さな花が僕を嘲笑うかのように花弁を広げる。その中には人の顔があった。雄蕊と雌蕊の配置がそう見えるだけ、ということはない。人面鈴蘭が、そこにいた。
「メアリー」
メアリーを宿した花は見る間に急成長し、お化けのように大きくなる。最後にこちらを見下ろして、カッとその目と口を開いた。そこからは唾液のように粘着質な白い滝が垂れ流され、頭の天元からそれを受ける。足元には見る間に沼が現れた。これはミルクか禁断の薬か、洗礼か。はたまた二度と戻れぬ別の何かへと続く出口なのか。水面には、いつも通り醜い僕の顔と凛と澄ました鈴蘭が映り込んでいる。
僕は引きずり込まれるようにして、底なしのどこかへ沈んでいった。声はあげなかった。絡みつくのは過去の記憶から恨みと罪を優しく包み込む彼女の手。心身が漂白されていく過程に恍惚として浸る。彼女と一心同体になっていくかのような幸せと許し。
この御業が表す真の意味は、鈴蘭のみぞ知るのだろう。
「おじちゃんは、お母さんのこと知ってる?」
遺された四歳の娘は、その父親の家から追い出されるようにして村へやってきた。母親が入っている小さな箱を抱きしめて。その痩せ細った体からは、十分に飯も与えられていなかったことは明らかだった。なのに、白い花がよく似合う母親とそっくりの笑顔でこちらを見上げてくるのだ。世の中には、悪なんてものが存在しないかのように。
「もちろん知ってるよ」
「おじちゃんは、お母さんのこと好き?」
好きだったし、今も好きだ。むしろ、愛してさえいた。ただ、それを口にしたことはない。メアリーはその美しさを買われて、遠くの街にある由緒正しい家柄の軍人に嫁ぎ、畑仕事や夏の暑さ、冬の厳しさ、好色な村長の視線から解放され、穏やかな人生を歩むはずだった。メアリーのことを思うからこそ、最後の最後まで伝えずにいたというのに。
メアリーを殺したのは、自分なのではなかろうか。
メアリーと同じ顔をした娘と目が合うと、息が止まりそうになる。いや、僕は悪くない。仕方がなかったのだ。こんな言い訳をするのは、もう何度目になることか。
「お母さんは、とっても綺麗な人だったのよ」
「そうだね」
お喋りな四歳の少女は、僕に向かって両手を伸ばす。まるで、実の父親にするかのように。羽のように軽い彼女を持ち上げて、膝に乗せる。
「お母さんはね、すずらんっていうお花が好きなのよ。寂しい時にすずらんのお花に耳を近づけたら、遠くの人とお話ができるのよ」
「遠くの人かい?」
「そうだよ。ずっとずっと遠くにいる人。お電話っていうものとよく似た形をしているから、聞こえるのよ。だからあたしね、明日はすずらんを摘みに行くんだ! お母さんとお話をするの」
この少女だって、村の神殿に預けた白い箱の中身が骨だということは知っているはずだ。その一方で大人は皆、「お母さんは遠くへ行ったんだよ」と言って誤魔化す。少女は何も知らぬフリをして、聞き分けよく頷いて、期待通りに子どもらしくすることに勤しんでいる。どこにでもある日常の風景だ。
「おじちゃんも聞いてみたいな。咲いている場所は分かるかい?」
「知らない」
「それなら、ちょうど良い。おじちゃんが連れていってあげよう」
◇
翌日、山へ入った。間もなく五月。ちょうどこの季節を選んでメアリーは帰ってきたのだろうか。少女は鈴蘭を見つけると、この年頃特有の甲高い声を上げて、白い花の群生に飛び込んでいった。背中に妖精の羽をつけているかのような軽やかさで。深呼吸すると、やや青臭くもクリーンな香りが胸を満たす。
「見て! イヤリングみたいでしょ」
千切られた白い釣り鐘形の花が、彼女の耳元で揺れていた。
「あぁ、よく似合っている」
ひとまずレディ扱いして褒めてやると、少女はすまし顔でカテーシーを返してくる。おませなことだ。
「おじちゃん、大好き! でも、お母さんの方が好き!」
「そりゃぁ、そうだろうよ」
「お母さんのこと、一番好きなのはあたしなんだよ!」
鈍器で後頭部を殴られたような気がした。
それによる自らの変化に気づくこともなく、ゆっくりと少女へと近づいていく。
「おじちゃん、怖い顔してどうしたの?」
「おじちゃんも、君のお母さんの声が聞きたくなってね」
「いいよ」
少女は、また一輪毟ると、こちらへ寄越してきた。潰れかけた白い花の形を慎重に指で整えると、耳元へ運び目を閉じる。
メアリーとは、つい数ヶ月前まで連絡を取り合っていた。彼女の手紙には楽しかったこと、嬉しかったこと、そして娘の話しか書かれていない。しかし、決まって最後には「村へ帰りたい」とあった。つまり、図らずも彼女の望みは叶ってしまったことになる。それでは、もう一つの君の望みも叶えてあげようではないか。君をもう一度幸せにできるのは僕しかいない。
「君のお母さんはね、ずっと君と一緒にいたかったんだ」
「あたしもお母さんと一緒にいるよ」
少女は鈴蘭を花束にして胸に抱えていた。母親が入った箱を抱えていた時と同じように、その手指は青白く、何かに怯えているように見えた。
「でもお母さんいなくなっちゃったよ」
「そうだね。遠くに行っちゃったんだよね」
「大きくなったら会いに行けるのかな?」
「そうだね。うーんっと大きくなって、少し小さくなったら会えるんじゃないかな」
「どうやったら早く大きくなれるの?」
「そうだなぁ」
「嫌だ! お母さんに会いたいの!」
僕には子どもがいない。癇癪を起こした少女の扱い方なんて知らなかった。
そもそも結婚もしていない。メアリーがいなくなった時点で、僕の人生はその歩みを止めたのだから。
「じゃぁ、とっておきの方法を教えてあげようか」
苛立ちを押さえて、仕事用の笑顔を作ってみる。少女の目から瞬時に涙が引っ込んだ。
「鈴蘭はね、遠くの人に会いに行くこともできるんだよ」
頬を紅く染める少女に向けたささやかな羨望は、隠した。
◇
可憐な花に似合わぬ毒が美しい少女を蝕んだ。少女が何と叫んでいたのかは覚えていない。ただ目の前で苦しんで、そして消えた。少女の亡骸は残らなかった。知識以上に、命とは儚いものだった。
僕は、メアリーのもう一つの望みを叶えてやることができて、実に満足だった。この手でメアリーの本当の最期を見送ることもできた。これで、この世でメアリーを最も愛しているのは僕だけになる。
メアリーは喜んでいるだろうか。今や亡き君にしてやれることは、本当に少ない。僕はこれからも毎年この時期になると、鈴蘭を眺めては君のことを思い出し、君を独り占めし続けるのだろう。
その夜は、夢を見た。小さなメアリーが僕の寝台に忍び込んできた瞬間、その姿があの日村を出ていった大人のメアリーに変化する。彼女の頬に手を伸ばせば、しっとりと吸い付くような白い柔肌が擦り寄ってきて、ひとしきりその感触を楽しんだ。
そうだ。メアリーは喜んでいる。
僕にそれを伝えに現れたのだ。
やけに深い眠りから覚めた時、まだ夢の中にいるかのようだった。僕は自分の家の寝台の中にいるはずだった。なのにどうしたことだろう。見渡す限りの鈴蘭。壁という壁、家具、床、天井。ありとあらゆるところから白い花をつけた鈴蘭が顔を出し、視界一面が白の斑点がついた緑になっていた。異様でスピリチュアル。噎せ返るような青臭さが鼻をつく。
中でも目の前にある一輪は、僕に話しかけるように枝垂れかかっていた。見ると、つけている花は十三。そうか、幸せの鈴蘭。きっとメアリーからの贈り物だ。
僕は、今度こそ物理的に手を伸ばそうとした。だが、動かない。いつの間にか身体が鈴蘭の群生に絡み取られて、囚われていた。ここで初めて、ひっと息を飲む。
次の瞬間、目の前の鈴蘭の小さな花が僕を嘲笑うかのように花弁を広げる。その中には人の顔があった。雄蕊と雌蕊の配置がそう見えるだけ、ということはない。人面鈴蘭が、そこにいた。
「メアリー」
メアリーを宿した花は見る間に急成長し、お化けのように大きくなる。最後にこちらを見下ろして、カッとその目と口を開いた。そこからは唾液のように粘着質な白い滝が垂れ流され、頭の天元からそれを受ける。足元には見る間に沼が現れた。これはミルクか禁断の薬か、洗礼か。はたまた二度と戻れぬ別の何かへと続く出口なのか。水面には、いつも通り醜い僕の顔と凛と澄ました鈴蘭が映り込んでいる。
僕は引きずり込まれるようにして、底なしのどこかへ沈んでいった。声はあげなかった。絡みつくのは過去の記憶から恨みと罪を優しく包み込む彼女の手。心身が漂白されていく過程に恍惚として浸る。彼女と一心同体になっていくかのような幸せと許し。
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