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橘 金春

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「――以上で現場検証を終わります。十束刑事、お疲れさまでした。腕、お大事に……」

「ありがとう。お疲れ様」

 梅蕙殺しの事件の翌々日、現場検証のため十束は現場となった廃病院を再び訪れていた。

 ――明るいせいか、大分様子が違って見えるな……。

 室内は埃っぽく荒れ果てているものの、昼間に訪れたせいか事件現場を見ても一昨日のような不気味さは感じなかった。

 ただ、黒服が三階から逃亡した、その部屋の天井についた血の手形を見た時には――あれが紛れもなく現実にあった出来事だと念押しされているようで、さすがに背筋が寒くなった。

 悪夢のようなあの夜のことは、十束自身あれから何度も思い返している。

 黒服の異常な行動とその直後の逃走……。

 ようやく手がかりを掴んだというのに、みすみす目の前で犯人を逃がしてしまったことがなにより悔やまれる。

 ――何か……もっとやりようがあったんじゃないのか。

 黒服にやられた左腕は病院で検査したところ脱臼しており、いまはギプスで固定し、三角巾で吊っている。

 本来であれば休養のために捜査には参加しないのだが、犯人の逃亡の直前、間近で対峙したのは十束のみであり、負傷の程度も軽いことから特別に現場で証言することになったのだった。

 二時間ほどで聞き取りと現場検証が終了し、病院を出ようとしたところで榊と行き会った。

「十束先輩、こんにちは」

「……おう、今から捜査か?」

「自分は今から署に戻るんです。送りますよ」

「いやいや、遠回りになっちゃうだろ、いいよ」

「先輩、怪我人だし。……ちょっと耳に入れたいこともあって」

 歯切れの悪そうな榊の態度に、耳に入れておきたい情報とは捜査に関連することだろうと、すぐピンときた。

「……わかった。じゃあ、ありがたく乗せてもらうよ」

 自分から話したいと言っておきながら、車を発進させてしばらくの間、榊は無言だった。

 いつもは冗舌な後輩がこれほど長い間黙りこくっているのは初めてじゃないかと十束は思う。

「……腕、大丈夫ですか」

 ようやくぽつりと漏らされたその一言に、十束は少しホッとしたような気分だった。

「ああ、大げさに見えるけど、大丈夫だよ。脱臼だってさ。複雑骨折とかじゃなくてラッキーだったよな……」

「……そうすっね」

「もーおっさんだからな、俺。若い頃と違って骨がくっつくまでに時間かかりそうだし……」

 ハハハ……と自分で自虐ネタを笑ったものの、榊の表情はこわばったままだ。

「……どーした、榊。何か思いつめてるだろ、お前」

「先輩、俺……。マジでよくわからなくなってきたっす」

 信号待ちの間、榊は車のハンドルをぎゅっと握りしめ、俯き加減のまま消え入るような声で言った。

「あいつ……一体、何者なんすかね?」

 十束の家までの道すがら、榊はとつとつと今朝の捜査会議の顛末について話した。

 鑑識官による、被害者――梅蕙の検死結果が報告されたのだが、それは常識では考えられないようなものだった。

 その場にいた者たち全て、熱血漢の副部長でさえ押し黙ってしまうほど、その内容は異様なものだった。

 捜査員たち向かって投げつけられた首については、多少の損傷はあるものの、特に異常は見当たらなかった。

 問題は、首を切り取られ診察室に残された体の方だった。

 黒服と遭遇した際は夜で暗かったこと、梅蕙の服装が長袖長ズボンであったため捜査員の中でそれに気づく者はいなかった。

 しかし、確認された梅蕙の死体は枯れ木のようにやせ細り、変色していた。俗にいうミイラのような状態だったという。

 別人の遺体ではないかとの憶測も飛んだが、DNA鑑定では間違いなく梅蕙本人であることが確認されている。

 直接の死因は、首の骨折。首の一部が粉々になるほどの力で殴打されたらしい。

 頭側の生活反応の有無から見て、首と胴体が切断されたのは死亡後と断定された。

 報告された異常はそれだけではない。

 死体の肩には歯形が残されていた。

 体側の劣化が激しいため、生活反応は調べられなかったが、傷口から唾液が採取できた。

 唾液の状態から、梅蕙が殺害される直前または直後に歯形がつけられたものと予想されている。

 こうなると、状況証拠だが、殺害犯である黒服が噛みついた可能性が非常に高い。

 採取された唾液のDNA鑑定を行った結果、歯形との大きさから考えられる黒服の正体が、浮かび上がってきた。

「――性別は女性、年齢はおそらくだが十代から二十代にかけて、だと?」

「はい。もう、みんな狐につままれたような顔してましたよ」

 ハハ、と乾いた笑い声を立てながら、榊は再び表情を曇らせた。

「もうね、何を信じたらいいのか。マジで何かに化かされてるんじゃないかって思うっす」

「榊……」

「すいません、愚痴なんか言って……もうすぐ着きますね」

 十束の住むマンションの駐車場で車を停めると、榊は無理に笑顔を作ってみせた。

「お疲れ様です。 ……腕、お大事に」

「うん、ありがとう」

 明日以降、榊は別の捜査員と組むことになっている。

 いくら社交的な性格だと言っても、こうして心の内を明かすことができるようになるには、やはりそれなりに時間がかかるだろう。

 車の扉を開け、降りかけた十束が、榊に向き直った。

「なあ、榊。なんかあったら連絡しろ。絶対に一人で抱え込むな」

「先輩?」

 驚いたように目を見開く榊に構わず十束は続けた。

「この事件の異常さを理解しているのは俺も同じだ。時間なんか気にせず、いつでも相談してこい。どうせ俺はこれから三週間は暇なんだからな」

「……何すか、もう。急に頼もしくなって……いつもは覇気のない、だら~っとした態度が多い癖に」

「何だとコラ、俺はいつだって頼もしいだろうが。お前の先輩なんだぞ」

「ハイハイ、分かりましたよ。先輩」

 くしゃりと泣き笑いような顔をして榊が笑った。

「俺、十束先輩の分まで頑張りますから。安心して回復に専念してください」

「……おう、まかせたぜ」

 榊に向かって二ッと笑うと、右手で肩をポンと叩いた。

 ――さて、俺はどうするかなあ……。

 車で走り去る榊を見送りながら、十束はホ――ッとため息を吐いた。

 脱臼の治療には三週間はかかる。その間ずっと腕を吊っていなければならないため、捜査に参加することはできない。

 明日からは事務方に回ることになるが、第一線から外れるのはやはり気が重かった。

「片腕が使えないんじゃな……。チクショウ、あの時避けてれば……」

 今更だとは思いながらも、あの時の判断ミスが悔やまれる。

 定期的に病院通いもしなければならないし、片腕が使えなくては日常生活にも何かと支障をきたしてしまうだろう。

 ――とりあえずは、今日の夕飯、どうするかな。弁当でも買いに行くか?

 トボトボとマンションの入り口に向かうと、ドアの前に女の子が立っているのが目についた。

 十束に気づいてこちらを振り返った少女の、長い赤茶のツインテールが肩で大きく揺れる。

 ――この娘は……。

「……ヒラサカ、ヨミ?」

 思わず名前を呼ぶと、その少女――ヨミは、瞳を潤ませて十束に駆け寄ってきた。


「――十束さんッ!」

 離れ離れになっていた恋人に再会したかのように十束に縋りつき、胸に顔を埋めた。

「は? ちょっとまっ……待て! なんだこれ!?」

 あまりに予想外なヨミの行動に慌てた十束は、右腕でヨミを引きはがそうとした。

 対するヨミは十束の制止も聞かず、両腕を十束の腰回りに回すと、ぎゅっと力を込めた。

 いくら少女の力と言っても、片手だけで押さえきれるはずもない。

「……ごめんなさい」

 聞こえるか聞こえないかというくらい小さな声でヨミが呟いた。

「はぁ……? 一体、何言って……」

 困惑した十束が問い返すと、ヨミが顔を上げた。

 大きな丸い瞳には大粒の涙が光っている。

 その泣き顔を見た瞬間、十束はぎゅっと心臓を掴まれたような思いがした。

「全部、ぜんぶ……私が、悪いんです」

 ヨミの瞳に浮かんだ涙がついに一粒、頬を滑り落ちた。
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