兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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八十九 狐と狸と魑魅魍魎(前編)

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 ヨーロッパにおけるルネッサンス前夜の思想家にニッコロ・マキアベリという人物がいる。中世末期のイタリアの小国フィレンツェ共和国の中堅外交官であった彼自身が後世思想家と呼ばれると思っていたかどうかは知らない。
 後にマキアベリズムと呼ばれる、目的のためには手段を選ばぬ悪逆無道の思想の主としてキリスト教社会から糾弾の雨霰を食らった人物である。
 彼としては、『世に非道な人物と言われている人物であろうと、国家を安定させ他国の侵略を退け得た君主達にはそれなりの理由がある』、とただ現実的な政治の方法論を説いただけなのであるが、何時の時代にも狂信的でヒステリックな机上の理想ばかりを説く輩は多いと見えて、今にいたるまで悪の思想の代名詞のように呼ばれている。
 そのマキアベリの代表的著作『君主論』の中に次のような事が書かれている。

 王たるものは獅子であると同時に狐であらねばならない。獅子でなければ狼に立ち向かえないし、狐でなければ罠を見破る事はできない・・・・・・と。

 ハンベエはステルポイジャンの部屋に入りながら、狐になろうとしていた。勿論、ハンベエが『君主論』を読んだ事など有ろうはずはない。ただヒョウホウ者であるハンベエに全く無縁の話でもない。兵ハ詭道ナリと云う。利ヲ以テ誘イ詐ヲ以テ待ツと云う。
 剣術の戦いの中ですら、隙を作って誘うような騙しの手があるのである。
 ハンベエは一介のヒョウホウ者でありながら、否むしろ一介のヒョウホウ者であればこそ、己の習い覚えた技術のみを頼りに道を切り開こうとしていた。
 長い長い前振りであったが、要はいよいよこれからハンベエとステルポイジャン達の直接的な狐と狸の化かし合いが始まるという話である。

「まあ、座れ。」
 ステルポイジャンは円卓を囲む椅子の一つに腰掛け、ハンベエに向かいの席を勧めた。ステルポイジャンの隣には主を守るのかの如くニーバルが座る。
 ハンベエは円卓から少し距離を取って椅子に浅目に腰掛けた。隠し部屋でもあるのか、部屋の周囲に十数人もの気配が潜んでいるように感じた。ラシャレーと対面した時もそうであったが、こういう大物連中は中々用心がいい。ハンベエもまた、いつ相手方が襲って来ても素早く対応できるよう警戒を怠らないでいる。
「いやに警戒しているな。まさか、我等が貴様に襲い掛かるとでも思っているのかな?」
 薄っすらと敵意の笑みを浮かべ、口元を歪めるようにしてニーバルが言った。
 ハンベエはちらりとニーバルに目をやったが、黙殺して視線をステルポイジャンに戻した。
「ニーバル、余計な事は言わずとも良い。それよりハンベエ、コーデリアスの仇を報じてくれた事、先ずは礼を申す。」
「コーデリアス?」
 ハンベエはボーンからの情報により、コーデリアスがかつてステルポイジャンの下にいた将校であった事を知っていたが、はて何の事だ? というようにトボけて見せた。
「あやつは元々わしの下で働いていた奴なのだ。生真面目で融通の利かぬ奴じゃったが、兵士思いの中々の将器であった。まさか、あのような非業の死を遂げるとはの。」
「ふーん。・・・・・・まさか、そういう理由で俺に肩入れしてくれたわけでもあるまい。」
「肩入れ?」
「タゴロローム守備軍司令官任命の件さ。ラシャレーの話だと随分俺の後押しをしてくれたらしいじゃないか。」
「貴様、それが分かっていながら、閣下に対し少しも感謝の念が見られぬようだな。」
 横からニーバルが口を挟んで来た。
 ハンベエは再びニーバルをちらりと見たが、やはり黙殺してステルポイジャンに視線を戻した。
「ニーバル、少し控えておれ。別にわしも感謝してもらおうとも思っておらぬ。ハンベエ、その方を軍司令官に押したのは、コーデリアスの件が関係していないわけではない。だが、一番の理由は兵士達が貴様を選んだからだ。卑しくもバンケルクは軍司令官であった。如何な理由があろうとも、それを打ち捨てて兵達が一介の兵士の下に奔るなどという事は普通有り得ない事だ。にも拘らず、その方の下に兵士達が奔ったという事は、その方には兵士達を惹き付ける何かがあるという事だ。そういう人物を外して、他の者を頭に持っていっても兵士達が収まらんだろう。兵士達の望む人物を頭に持って行く方が得策というだけの事だ。」
 ステルポイジャンは別にハンベエにお愛想を言ってるでもなく、淡々と言った。
 ほうっ、とハンベエの中で俄かにステルポイジャンの人物像が大きくなりつつあった。
「ふーん、偉く物分かりのいい言い分だな。」
 ハンベエは、信じられぬなあという具合に首を捻りながら言った。
「信じられぬという顔をしておるな。しかし、わしに他の思惑があるわけではないぞ。ともあれ、コーデリアスの仇を報じてくれた事は改めて礼を申す。」
(事前に思っていたのとは随分違う人物のような気がして来たな。いや待て、この俺を誑かそうとしているのかも知れない。俺も人の腹の内が簡単に分かるほど甲羅を経ちゃいねえ。油断するまい。)
 ハンベエは胸の内でこう唱えて、反って警戒心を強めた。

「別に礼を言われる筋でもないさ。バンケルクについちゃあ、この俺が気に入らないから、ぶっ潰しただけの事。」
「ほう、何かあったのか?」
「何かも何も、最初からいけ好かねえ野郎だった。王女の推薦状を持って行ったこの俺を、あろう事かヒラの兵士にしやがった。随分な扱いだ。その後は、例のアルハインドとの戦いで捨て石にされて殺される処だった。まあ、最初から奴と俺とは殺し合う運命にあったんだろうよ。」
「ふむ。士は己を知る者のために死し、女は己を喜ぶ者のためにカタチづくると聞く。その方を見誤ったのはバンケルクが将器で無かったという事だな。ところで、その方わしに何か話があるという事だったな。」
 相変わらずステルポイジャンは淡々と言った。そのずっしりと重そうな太鼓腹に似て酷く重厚な人柄を匂わせていた。
「そうだったな。先ず第一に、あんたんとこの兵士達の無礼に文句を言いに来たのさ。いきなり人の部屋にやって来て『王女は何処だ。』って部屋ん中を荒ら探ししようとしやがった。それも二度もだ。どういう教育してやがるんだ。」
 とハンベエは言った。半ばゴロツキの因縁じみていると自分自身感じながら。
「それは生憎だったな。しかし、当方も国王を毒殺した王女を捕えんがための重大な任務、事の軽重を弁えて、質の悪い言いがかりを付けないでもらいたいものだ。」
 またもや、ニーバルが横から言った。
 ハンベエは今度は体全体をニーバルに向け直して、ジロリと睨み付けた。その様子は部屋の空気を凍らせるのに十分なほどの曰く言い難い迫力を伴ったものであった。ニーバルはハンベエに殺気を感じたものか、半ば腰の剣に手を懸けそうになって、危うく止めた。
「部下の非礼で気分を害したようで済まぬ。わしが詫びる。」
 ニーバルを無視して、ステルポイジャンが軽く頭を下げた。嫌にハンベエに対して、好意的である。ハンベエ少々気持ちが悪くなっている。
「そうあっさりと詫びを入れられてはこっちが恐縮ものだな。いいぜ、忘れる事としよう。」
 ハンベエは勿体をつけて言った。
「ふむ。腹の虫を収めてもらったところで、改めて尋ねる。ハンベエその方、本当にエレナ姫の行方を知らぬのか?」
 ずいっと身を乗り出し、ハンベエのマナコの奥底まで覗き込むようにしてステルポイジャンが聞いて来た。
「残念だが知らん。お前さん方が俺と王女の間をどう思っているのか知らないが、最近じゃあ仲良しってわけじゃなかったからなあ。」
 ハンベエは自嘲気味に言った。
「どういう事だ?」
「バンケルクは元々王女の剣の師、それに最近じゃあ、バンケルクが王女に求婚していたらしい。」
「・・・・・・ほう。」
「王女はバンケルクの奴をイイナズケと呼んだ。それどころか、俺が奴を討とうと出撃する時には剣を抜いて挑んで来やがった。」
「・・・・・・」
「まあ、何せ相手は王女だ。斬り殺すわけにもいかないから、適当にあしらって気絶させたがな。」
「王女はかなりの使い手と聞いたが、それを適当にあしらったとは本当か? 俄かには信じられぬ話だ。」
 さて、今回も横からニーバルが口を挟んだ。ハンベエはもうそちらを見ようともせず、ステルポイジャンを真っ直ぐに見つめたまま話を続けた。
「そこまでして守ろうとしていたバンケルクをだ。この俺がぶっ殺したんだ。王女と俺が上手く行ってるわけがねえじゃねえか。間違っても俺の所になんか逃げ込んで来やしねえよ。」
 と言って、ハンベエは苦々しげに口を歪めた。実際は王女の逃亡を助けようとしているものの、それ以外はほとんど真実であった。
 ステルポイジャンはハンベエを穴のあくほど見つめていたが、腕組みをして深く考えこんだ。ハンベエの一言、一言を注意深く吟味するかのように。
「では、本当に王女の行方を知らぬのだな。」
 しばらく考え込んだ後にステルポイジャンが吐息を突くように言った。
「知らねえよ。それより、逆に俺が聞くが王女が国王を毒殺したってのは本当の話かい?」
「どういう意味だ?」
 ニーバルがハンベエを睨み付けて鋭い口調で口を挟んだ。
「さっきから、横からうるせえな。俺は大将軍と話をしているんだ。だが、あんまりうるせえから、おめえにも聞いてやるよ。王女が国王を毒殺する理由が何処にあるんだ?」
「さあ、そんな事は分からん。王女に聞いてみたいものだ。気でも触れたのかも知れんな。しかし、王女が国王陛下を毒殺したのは紛れもない事実。ちゃんと生き証人もいる。」
 ニーバルは皮肉っぽくハンベエに返した。
 ステルポイジャンは腕組みをしたまましきりに何か考え事をしているようだった。
「それとも、宰相のラシャレーに唆されたのかも知れんぞ。そもそも、国王陛下との面会を王女に勧めたのもラシャレーだしな。おまけにラシャレーめは王宮から雲を霞と逃げ去ったからな。」
 沈黙を続けるステルポイジャンをよそにニーバルは続けた。そして、更にハンベエに詰問口調で別の話を切り出した。
「それより、貴様さっき気になる事を言ったな。逃げる近衛師団に別の者が混じっていたと。あれは一体どういう意味だ?」
「別に見たままを言っただけだ。まあ、見間違いだったんだろう。他の人間が混じるはずもないしな。」
「王女が近衛師団に混じって逃げ出したと言いたかったんじゃないのか?」
「王女が・・・・・・なるほど、そういう可能性もあるな。だとしたら、今更どうしようもないぜ。とっくにどっか行っちまってるだろうしな。俺としては王宮内をもう一度隅々まで調べ直す事を勧めるね。どうにせよ、俺には大して興味のない話だが。」
 ハンベエは他人事のように言ってのけた。
 このハンベエの態度にニーバルは俄かに戸惑った様子である。先ほど、王宮の城門ではハンベエのセリフを陽動のブラフと決め付け、その手には乗らぬとハンベエの手の内を透かし見たように感じたのであるが、今となってはそれも疑わしいように思えて来たらしい。
 まるでこのハンベエという男の本当の狙いは何なのだと、疑心暗鬼に陥ったかのようであった。
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