兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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百二十五 悪鬼と悪鬼

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 異変はハンベエVSテッフネール第一ラウンドから五日後の夜半に起こった。
 この時、ハンベエは自分用の寝室でロキと寝台を並べて寝て居たのだが、突然跳ね起きるとロキを揺り起こして、
「王女の部屋に行って、部屋から一歩も出ないように言え。」
 と言った。
 寝ぼけマナコのロキは何が何やらと言った顔をしていたが、ハンベエに更に、
「テッフネールが来た。凄まじい殺気を放っている。王女がそれに反応して部屋を出でもしたらマズい。お前が行って留めて置け。」
 と言われ、顔を寝間着の袖で擦りながら、フラフラと覚束ない足取りで部屋を出た。
 続いてハンベエも『ヨシミツ』を抜き放って廊下に出た。廊下には当直の護衛兵が二人立っていたが、ハンベエはこれにも王女の寝室の警護に行くように命じた。
 廊下の壁には燭台が有り、蝋燭が立てられてある。薄明かりの炎が頼りなげに揺らめいていた。
 かねてから、この事有りと予想していたハンベエは、司令部の警護兵の任務を解除していた。
 普通なら、警備を強化するところであるが、テッフネールを前にしては、半端な警備兵など何の役にも立たぬ、ただ無意味な被害者を出すだけだと、逆の措置を取っていたのである。
 人の意表を点く事の多いこの男にとっては面目躍如な命令でもあった。テッフネールは真っしぐらに俺の首を狙って来る、ハンベエは確信していた。
 果たして、何の足音もさせずにテッフネールが現れた。
「ふふ、わざわざみどもを待ってくれていてござるか。ご苦労な事でござる。もっともみどもの方でも、少しばかり殺気を放って到来を知らせてやったのでござるがの。」
 相も変わらずからかうような口調のテッフネールである。
 ハンベエは無言である。無視黙殺といった態度で『ヨシミツ』を斜め下段に構えた。
「今回は鎖帷子、手甲腕貫の類いは身に纏ってござらぬのか、準備が間に合わなかったようでござるな。怖うはござらぬか。」
 テッフネールの指摘の通り、ハンベエは寝間着であった。いくら用意のいいハンベエとは言え、戦場でもあればこそ、夜寝る時に武装はしない。
 しかし、ハンベエは無言であり、無表情であった。
 ちっ、とテッフネールは舌打ちしたい思いであった。ハンベエに揺さ振りを掛けているつもりなのだが、相手には動揺の兆しすら感じられぬ。まるで、命無き石像と対峙しているかのようである。
 ハンベエは微動だにせず、落ち着き払ってテッフネールを見詰めた。薄暗い廊下、九歩の距離を隔ててゆらりと立つテッフネールは、右手の白刃を地摺り下段に構え、何故か左手を背中の後ろに隠していた。
 ハンベエの眼はごく自然にそれに吸い寄せられる。
「ふふ、この左手に持っている物が気になるでござるか。」
 テッフネールはにたりと薄気味の悪い笑みを浮かべて見せる。
 左手に隠しているのもやはり刀であった。長さも右手に構えている物とさほど変わらない。つまり、テッフネールは二刀を持ってハンベエと対峙しているのであった。
 テッフネールが背中側に隠している太刀は刃の中程から切っ先にかけて、黒く塗られていた。
 薄暗い場所では、白刃の煌めきに眼を奪われがちである。相手の注意を白刃に引き付けて、死角から目立たない黒塗りの刃を放てば相手の錯覚を誘ってた易く一撃を加える事ができる。

 煎ずるところ、兵法は詭道であって、詐略を以って敵の意表を点くという騙し合いの技術である。このテッフネールの用意等も『不意打ち』の一形態に過ぎないものであろう。
 ただ、テッフネールの狡猾さは、それをただの『不意打ち』のみに終わらせないところである。
 この初老の剣鬼は一方で不意打ち用の刀を背中に隠し、殊更にそれを見せびらかす事によってハンベエの注意を分散させようとしていた。
 左手に注意を向ければ、右の白刃に対する注意が疎かになる。右手の刀に注意を向ければ、それこそ、訳ありの左の太刀の不意打ちを喰らう。そうして、そういう威嚇によってハンベエの神経を参らせようという二段構え三段構えの戦法であった。
 とは言え、兵法に生きようと志すハンベエも又、多少の狡猾さは身に付けている。おっと、多少どころでは無かった。見方によれば、千人斬りの修行に旅立って以来、無鉄砲なように見せながら、この若者は区切り区切りで身を変じ、驚くほどずる賢く立ち回って、危難を躱して来たようにも見えるのである。ハンベエの狡猾さは天性のものかも知れない。
 ハンベエはテッフネールの手の内が透けるように見えていた。
 その手には乗らないぜ、嘯くように無表情のまま、ハンベエは微動だにせず、テッフネールの動きを待っていた。
「ふん、ハンベエ、又黙んまりでござるか。ま、虚勢を張るには黙んまりの一手が一番効果がござるがの。」
 テッフネールは軽侮したように言った。だが、心中は別の考えを巡らせていた。
(若造め、この気の配り方・・・・・・相撃ちを狙ってござるか。相撃ちで構わぬと言うのか。)
 テッフネールは不審に感じている。剣の究極は相撃ちに到る事はテッフネールも知っていた。しかし、相撃ちとは言っても額面通りの相撃ちではない。皮を斬らせて肉を斬り、肉を斬らせて骨を絶つ、紙一重で己の命を保つと言うのが兵法であった。
 然るに、自分の前に立っている若者の気組みは、一身の如何なる防御も捨ててしまっているかのようであった。テッフネールが仕掛ければ、ただ一撃、我が身はどうなろうと相手に致命の打撃を与えんと、ただそれだけを念じて待っているかにしか感じられない。
 ハンベエはタゴロローム守備軍の軍司令官である。ハンベエが死ねば、守備軍は崩壊の危機に曝される。当然、ハンベエもその事は考えていよう、考えるはずだ。テッフネールの頭からはその思いが抜けない。
(それで良いのか。それでも構わないと、この若造は考えてござるのか。)
 ハンベエの必死必殺の気に手を出しかねながら、テッフネールは不審に思い続けた。
 一方、ハンベエである。テッフネールが見破った通り、ハンベエは相撃ちと心を定めていた。
 テッフネールとの一回目の闘いの後、ハンベエは新たな極意に目覚め、レベルアップしたと筆者も書き、ハンベエ自身もそれを確信していた。
 が、それでも、漸く互角、とハンベエは考えていた。
 『奴の手の内は見切った』とロキには強がって見せたハンベエであるが、テッフネールの底まで見切ってのけたと思い上がれたわけでは無かった。どんなものを隠しているやら、知れたもんじゃねえ、ハンベエはそう思っていた。
 それ故の相撃ち狙い、捨て身の構えであった。
 とは言ったものの、したたか者とテッフネールに言わしめたハンベエである。ただの相撃ち狙いとばかりは言えなかった。ハンベエにはハンベエの計算がある。
 今闘っている場所はハンベエの陣地のど真ん中である。
 仮に、ハンベエとテッフネールが相撃ちとなって、共に戦闘力を失った場合、テッフネールの死は確定であるが、ハンベエは間を置かず、救命の治療を受ける事ができるのであり、死ぬとは限らないのである。そして、両者の技量が互角である場合、必殺の一撃で共に即死となる可能性は低いとも考えられる。
 むしろ、両者が共に深手と呼ばれる程度の傷を負い、出血多量の為に倒れるというシナリオが一番想像できるものであろう。
 出血による死であるならば、破傷風等の危険は有るものの直ぐに血止めの処置をすれば生き延びる可能性は低くはないであろう。
 更に、両者の年齢である。ハンベエは二十歳、テッフネールは五十過ぎである。その生命力の旺盛さから言ってもハンベエが明らかに有利である。
 ハンベエの相撃ち狙いにはそこまでの計算が有った。
 テッフネールは苛立ちを覚えたように、右手の刀に半円を描かせて切っ先を頭上に上げた。そして、十八番おはこの気を放った。

「!」

 テッフネールは目を見張った。
 金縛りも糞も無かった。テッフネールの気はハンベエの身を縛るどころか、そのまま弾き返されたのである。ハンベエ何時の間に、そんなバリアのような技を仕入れたのだろうか。最早、筆者のような常人には理解の及ばない闘いとなってしまっているようだ。
「むう、金縛りを撃ち破るどころか、弾き返すとは。」
 テッフネールはますます手が出せなくなり、両者は睨み合ったまま動かなくなった。

 ハンベエに言われてエレナの寝室を訪れたロキは、『夜分、姫君の寝所を訪なうとは、無礼にもほどがある。』と鶏の威嚇かと思わせるような、ソルティアのキーキー声による叱責を浴びてしまった。災難な役柄であった。
 時ならぬ真夜中の訪問者が外ならぬロキと知ったエレナが直ぐにソルティアをたしなめて、寝室に招き入れてくれたのがせめてもの救いであった。
「ロキさん、何が有ったのですか。」
「うーんとね、ハンベエがテッフネールが凄い殺気を放ってやって来ている。その気に釣られて王女様が部屋から出ないよおにって。」
「気に釣られる。何を馬鹿な事を。」
 ソルティアは、エレナの眠りを妨げたロキが許せないものと見えて、刺々しい口調で言った。
 エレナは、そんなソルティアを首を振って制止し、静かに目を閉じた。
「気付きませんでしたわ。何て恐ろしい殺気なんでしょう。」
 直ぐに目を開いたエレナがロキに向かって言った。
「えー、オイラ何にも分からないんだけど、王女様は、殺気とかそんなもの感じられるのお?」
 ロキが目を丸くしてエレナを見た。
「剣の修行をしたせいでしょうね。幸か不幸か、感じられますわ。とても凶々しい殺気が一つ、そして、激しい闘志を纏った気が一つ。言われるまで気が付きませんでしたが、とても、大きな気が二つ相争っています。」
 エレナは穏やかな口調でロキに言った。
 本当のところは二つとも凶々しい殺戮の気であったのだが、ハンベエ大好きなロキの前でそう言うのは憚られる気がして、言葉を選んだエレナであった。
「本当、王女様凄いやあ。で、二つの気はどうなってるのお?」
 この少年の心はどうなっているのだろう、明るい口調で聞いて来るロキを見て、ふとエレナは首を捻りたくなった。
 だが、ロキとの会話は、血も凍りそうなほど、恐ろしく凶々しい気同士の争いから受けるエレナの恐怖を和らげていた。
 不思議な少年・・・・・・それともロキは全て承知の上で、私の心を安んじてくれているのかしら・・・・・・ちらりとエレナはそう思い、
「そうですね。一つの気は龍のようであり、もう一つの気は虎のようであり、互いに睨み合って相手の隙を窺っているようです。」
 と言った。

 ロキへのサービスであった。エレナの感じたものはそんな生易しいものでは無かった。言ってみれば、血塗れの二匹の悪鬼であり、おどろおどろしい死に神であった。
 その邪悪で凶猛なまでの心映えを感じた時、エレナは発作的に二人とも滅んでしまえばいいのに、とまで思ったほどだった。
「じゃあ、虎の方の気がハンベエだね。」
 ロキが暢気な声で言った。ロキはとことんハンベエ応援団だ。ハンベエにとって景気の良い話なら御満悦である。エレナのナイーブな屈折など知る由も無い。一方では、エレナ親衛隊でもあるのだが。
「・・・・・・? 何故、虎の気がハンベエさんなのかしら?」
 我に帰ったようにエレナが尋ねた。
「何故って・・・・・・とにかくハンベエは虎だよお。理屈抜きに虎だよお。」
 ロキは言った。少し困ったようだ。

 エレナは思った。ロキはハンベエの事が好きなように、虎が好きなようだ。虎がどんな生き物かきっと知らないのだ。虎という猛獣はそれほど立派な生き物ではない。その性極めて獰猛残忍であり、他の猛獣の多くが食の為にのみ殺戮を行うのに対し、面白半分に大量の牛馬を屠ったりするという。しかも、歳老いて力弱まると人間のような弱い生き物を狙う卑怯未練な一面を持つ猛獣である。
(ロキさんが、虎の正体を知ったらどんな顔をするかしら。・・・・・・それにしてもハンベエさん、あなたはどうして悪鬼の姿となって闘うの?)
 ハンベエが聞いたら、『幾ら何でもそら理不尽な言い掛かりだろう』と困惑してしまいそうな迷妄を抱きながら、エレナは二つの気の行方を追った。
「王女様あ、どうなってるのか分かるのお?」
「そうですね。二つの気は睨み合ったまま、動かないでいるみたいです。ただただ、紅蓮の炎のように激しく燃え盛るだけで、どちらからも動こうとしません。」
「それって、膠着状態になってる事お?」
「そのようですね。」
「ま、ハンベエは相手の手の内は見切ったって言い切ったし、絶対負けたりしないよお。何が有っても王女様を守ってくれるよお。」
「・・・・・・。」
(そうだった、ハンベエさんは私を守る為に闘っていてくれたんだった。・・・・・・では、悪鬼の姿になるのは私のせい?・・・・・・嫌、邪悪な物にならないで。)
 ロキの言葉にエレナははっと胸突かれる思いだった。

 そして悲しくなった。自分の為に闘ってくれているはずのハンベエの姿が悪鬼以外の何者でもない事が。ハンベエに悪鬼以外の何者も見いだせない自分が。
「人は・・・・・・何故殺し合うのでしょうね。魔物にでも憑つかれたように。」
 誰に言うと無く、エレナは呟いた。
 ぼーっとした様子で、ロキはエレナを見詰めていたが、
「魔物? オイラ、ハンベエほどじゃないけど、人が相争うのは魔物なんかのせいじゃなくて、人間の本性だと思うよ。世の中、人間ほど怖いものはないよ。」
 ぽつりと言った。その口調はロキの口から出たものとはとても信じられないほど冷やかさを極めていた。少し悲しげな表情だった。
 エレナは驚いたようにロキを見詰めた。
「オイラ、こんなだけど、人間の厭なところも少しは見て来ちゃったからあ。」
 自分の発言に驚くエレナに、弁解するようにロキが続けた。
 この少年は一体どんな地獄を見て来たのだろう、エレナを戦慄させるような寒々としたロキの口振りであった。

「ともかく、今はただハンベエさんの勝利を祈りましょう。」
 エレナはロキの肩に手をやり、優しく抱き寄せて言った。
「そうだね。王女様。」
 ロキは驚く事も無く、逆らいもせず、エレナに身を寄せた。
 ただ、控えているソルティアのみが『そのような下賎の者に身を寄せる事を許されるとは』と言いたげにコメカミに青筋を立てている姿はちょっと笑えるものだった。
 どれほど、二人はそうしていただろう。
「終わったようです。」
 エレナが静かな口調で言った。
「ハンベエが勝ったんだねえ。」
「決着はつかなかったようですわ。二つの気は睨み合ったまま動く事なく、一方の気がゆっくりと離れ、去って行ったようです。」
「何だあ、又引き分けかあ。」
「引き分けで良いではないですか。あんまりハンベエさんを焚き付けちゃ駄目ですよ。」
「うん、分かってるよお、王女様。」
 エレナの言ったように、ハンベエとテッフネールは睨み合ったまま、どちらも動けずに終わった。と言うより、相撃ちを狙うハンベエにテッフネールが手を出しかねたまま、ただ時間のみが過ぎて行ったのだった。
 やがて、廊下の燭台に燈されている蝋燭が燃え尽きて消えてしまった。
 一方が仕掛けるとすれば、この瞬間であったと思われたが、両者は共に動かず、テッフネールは潮時と判断したのか、ハンベエに正面を向けたまま、後ろに下がり、ある程度の距離を取るや身を翻して駆け去って行った。
 対ハンベエ用に準備した二本目の刀も、ハンベエの捨て身の構えの前に全く無用の長物と化してしまったのであった。
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