兵法者ハンベエの物語

市橋千九郎

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百三十二 アダチガハラの戦い

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 ニーバルが軍編成を終えてハナハナ山に進軍を開始したのは、その三日後であった。四天王のゲンブとビャッコの軍が後衛部隊として組み込まれていた。
 ゲンブとビャッコの立場は微妙である。
 軍の司令官はニーバルであり、ゲンブとビャッコはその指揮下に入るはずなのだが、四天王はステルポイジャン直属であり、かつ高名な勇士であるため、ニーバルに遠慮が有った。
 どちらかと言えば、ニーバルの活動を後方で見守る見物人のような立場になっていた。武人であるゲンブやビャッコにとって、あまり嬉しくない扱いであったが、ハナハナ山占領を終え、しばらく敵の動静を見た後は軍の大部分を返す予定であったので、気にするどころか、気楽で良いと考えたようだ。
 ステルポイジャン側の武将はニーバルを始めとして、誰一人タゴロローム側が迎撃に出て来るとはと考えていなかった。

 タゴロロームの兵数は多くて三万人、味方の軍勢は五万人、ハナハナ山占領の報を聞いてノコノコ出かけて来れば、返ってニーバル達の格好の餌食である。しっかりと陣を整えて待ち受ければいいだけである。
 そんな敵の待ち構えている所へ、寡兵をもって攻めて来るほどには馬鹿じゃないだろうとニーバル達は考えたのである。
 だが、ハナハナ山に後一日という所まで進軍したところで、斥候から報が入った。
 敵と思われる軍が、ハナハナ山の後方にあるアダチガハラの野に陣を敷いていると云うのである。
「どんな軍だ。」
 とニーバルが尋ねた。
 この場合、ハンベエ達タゴロロームの兵士達以外に陣を敷くような軍勢は考えられないにも拘わらず、思わずニーバルはそう質問してしまった。それ程、意外であったようである。
 斥候の言うには、甲冑を纏った美しい女人の描かれた旗が林立しているという。
「甲冑を纏った女人・・・・・・王女エレナか。・・・・・・」
 奇抜な旗であった。
 ニーバルはしかし、旗にはさほどの興味を示さなかった。
「人数は?」
 二万、多くても三万、と斥候は答えた。
「・・・・・・、何故敵がそんな所に陣を敷いているのか分からないが、我が方は五万だ。ハンベエめ、運が尽きたな。」
 ニーバルは薄笑いを浮かべた。
 ニーバルの率いる軍勢は、ゆっくりと進軍して二日後の夜明けとともに、アダチガハラ平野に入って陣を敷いた。
 しきりに斥候を出して探らせたが、タゴロロームの陣地は静まり返って、動く気配がない。
 ニーバルの軍勢が近付いて来たのに気付いていないはずはない。進軍中も敵方の斥候らしい者が行き来していた。

 敵が隙を突いて攻撃して来るなら、進軍の途上か陣を整えている今この時のはずであった。しかし、敵方は静まり返って何の動きも見せない。
 不気味である・・・・・・とは、ニーバルは考えなかった。所詮は烏合の衆に素人司令官、いすくんで動けないのだろうと思った。
 個人的武勇なら群を抜いているのだろうが、兵を動かすには全く別の資質が要る。士官達に見放されるような男に軍を統べる事など出来ようはずもない。ニーバルは努めてそう考えていた。
 いやはや、何故ハンベエの敵に回る人間はこんな風に物事を考えようとするのだろう。一見強気そうに見えるその姿勢は、翻って見れば逆に、ハンベエという敵の恐ろしさに震え上がり、猫に追い詰められた鼠が思考停止した揚げ句、無用の勇を振るおうとしているかのようであった。
 いやいや、それでは鼠に失礼であった。猫に追い詰められた鼠は生きる事に必死であり、その行動に何の邪念もないはずであるが、ニーバルのハンベエを見下そうとする心には真実から目を逸らそうとする怯懦が透けて見えるのであった。人間の持つ虚栄心がそうさせるのであろうか。
 タゴロローム軍が手を出して来ないまま、ニーバルの軍勢は布陣を終えた。
 両者は僅か三百メートルほどの距離を置いて対峙する事となった。
 ニーバル側の軍勢が陣を敷き終えると、待っていたように、タゴロローム側が動きはじめた。

 『甲冑を纏った美しき女人の旗』、その旗が粛々と動き出したのである。
 タゴロローム側は旗をたなびかせ、自軍の陣地から百メートルほど前衛兵士を前に進めた。手に手に弓を携えている。弓部隊が前衛のようだ。彼等兵士に囲まれるようにして高さ五メートル程の塔が進んで来た。
 ニーバル側から見ても、その塔は目立つ物であったが、ニーバル軍の兵士は何も感じなかった。何だありゃ、上に人が乗ってるみたいだが、何をするつもりやら、くらいに思っただけであった。
 これこそ、ロキの発案によって作られた『測射の塔』であった。
 タゴロローム側から弓兵士が進んで来たのを見て、ニーバルは自軍からも弓兵士を前に出すように命じた。
 敵は存外芸がない。正面から戦うつもりのようだ。とニーバルは笑った。正面から戦うなら、人数が多いこちらが有利だ。伏兵でも置かれて居れば、大いに警戒しなければならないだろうが、今眼前にある陣容から考えて、あれが敵の全部だろう。三万・・・・・・むしろ良く集めた方だ。
 両者の距離が百メートル程になった時、ニーバルの軍勢が矢を放ち始めた。矢を放って、更に前進する、そして、敵に肉薄するやそのまま剣を抜いて突撃する。前衛が突撃を始めれば、矢継ぎ早やに後続部隊を送り込んで圧力を強め、一気に押し込んで行く。
 その予定だった。
 だが、最前列の兵士が敵前線六十メートル辺りに進んだ所で、タゴロローム側から一斉に矢が放たれ始めた。
 心得たりと、ニーバル軍の兵士も立ち止まって応射した。
 こうして、両軍の戦いは矢の応酬から始まった。
 しかし、撃ち合いが数回繰り返された時、奇妙な事が起こっていた。
 明らかに、ニーバル軍側の兵士が数多く倒れているのだ。
 タゴロローム側の兵士は数歩進んでは息を揃えて矢を放って来る。それがまるで天から投網を投げ掛けられたかのように広範囲にニーバル軍の兵士を捉えるのに対し、ニーバル軍の矢は敵の最前列に集中しがちであった。
 十数合撃ち合った時には、ニーバル軍の前線には数百の、いや千人近い死傷者が発生していた。
 それに対して、タゴロローム側の死傷は百にも満たない様子であった。
(何が起こっているのだ。)
 後方から、これを見ていたニーバルは驚き、焦ったが、納得がいかない様子でもあった。
(対等に撃ち合っているはずなのに、どう見ても、こちらの方が被害が大きい。)
 敵は魔術でも使っているのか、それとも目に見えない神かなんぞが向こうに付いてでもいるのか、などと有り得ない事まで頭を掠めた。
「撃ち負けているぞっ、射よ! 遮二無二射よ。」
 思わず、ニーバルは叫んだ。
 ニーバルの叫びに、弓部隊の士官達も、
「射よ! 撃ち負けるな。存分に射よ。」
 と兵士達を叱咤した。
 だが、そんな叫びを嘲笑うかのように、撃ち合う毎に激しくニーバル軍の兵士は消耗して行く。
「突撃せよ。総掛かりで突撃だ。」
 たまり兼ねて、ニーバルは叫んだ。
 このまま、わけも分からず消耗して行くよりは、多少被害が出ても肉薄して敵の弓攻撃を封じた方が良いと考えを変えたのだった。肉弾戦ともなれば、戦い慣れた味方の勇士、敵を圧倒するだろう、ニーバルは信じて疑わない。何より、戦争とは進むか退くかしかなく、退けば多くの場合、軍は崩れ立つのである。進むしかなかった。

 四天王の二人、ゲンブとビャッコは更にニーバルの更に後方からニーバルの戦振りを見ていたが、
「ヤバいぜ、ゲンブの兄貴。下手すりゃ、この戦負けるっしょ。」
「まだ戦は始まったばかりではないか。こっちの方が人数に勝っているし、戦慣れしているのだ。負けるはずは無いだろう。」
「そんな事言ったって、俺はあれっぱかりの矢の撃ち合いで、あれ程兵士が倒れるのを見た事がねえ。」
「確かに、弓の応酬では偶々、向こうに利があったようだ。どうした事かな。」
「偶々なわけなわけなんか有るわけないっしょ。あの広範囲な矢の撃ち分け方は訓練の賜物に違いないっしょ。」
「まさか、何処を狙って矢を放つかは一人一人の射手が矢を放つ時に決めるものだ。あれだけの数の矢の向きを一々命じる事など不可能だ。」
「確かにそうだけど・・・・・・。」
 兄貴と呼ぶゲンブに決め付けられてビャッコは言葉を濁した。

 ニーバル軍は弓部隊を下げて、盾と剣で武装した剣士部隊を前に押し出して、進ませた。一旦後方に下がった弓兵士達は負傷者を除き盾と剣に武装を替えて、次の攻撃に備えた。
 ニーバル軍の剣士部隊はタゴロローム陣営から放たれる矢の雨を盾で防ぎ、多少の犠牲を出しながら、敵の前衛と肉薄した。
 ニーバル軍の先峰がタゴロローム側の前線まで後三十メートルと迫った時、タゴロローム側の弓兵士達は中央から割れるように左右に散開して行った。
 そしてその中央の裂け目から騎乗したドルバスが雄魁な巨躯を揺らすようにして、背後に長槍で槍襖を作った部隊を引き連れて現れた。
 更にその後方百メートル、長槍部隊の中心と思われる位置には、金色の甲冑を身に纏ったエレナが旗に描かれたよりも尚美しく、凛として白馬に打ち跨がって、兵士達に護られていた。
 再びドルバスに目を戻せば、黒光りする分厚い鎧を身に付けたこの巨将、例の薙刀を肩に担ぐようにして、間近に迫った敵勢の中に突進して行った。
「続けー。」
 先頭を駆けたドルバスに遅れるなとばかり、長槍部隊の兵士は槍の穂先を真っ向正面向けて突進して行った。
 ドルバスはいきなり薙刀を振るって敵兵を屠った。盾も鎧も知った事では無かった。強力無双、力任せの力技!、馬前を遮るニーバル軍兵士は木っ端のように弾き飛ばされた。
 さて、剣士部隊対長槍部隊の激突──白熱の闘いを期待する向きには残念ながら、最初からタゴロローム軍優勢となってしまった。やはり長槍の利には盾では抗し得なかったのだ。タゴロローム側兵士の強烈な吶喊(とっかん)にニーバル軍の兵士はズルズルと後退させられたのである。
 その上、左右に散開したタゴロローム軍の弓兵士達は射角を上げて、後方のニーバル軍の兵士目掛けて矢を浴びせ掛けた。前方からは槍襖、頭上からは矢の雨、どれ程強悍な兵士であってもたまったものではない。
 ドルバスに率いられたタゴロローム軍は中隊単位で部隊を繰替えしながら前に前に押して行く。
 何故、歴戦の兵士達と自負するステルポイジャン配下の兵がこうも易々と押されて行くのか。
 理由は今更述べる迄もない。タゴロロームの新戦術になす術が無いのである。
 そうは言っても、ニーバルの側は経験豊富な兵士達ではないか。如何に目新しい敵の戦術に遭遇したとしても、なす術も無く一方的に押されて行くのはおかしいではないか、という疑問も浮かぶであろう。そして又、不利を悟った時点で速やかに戦術転換をすればいいのにと思う向きも有るに違いない。
 だが、どうであろう。彼の織田信長が鉄砲の三段構え釣瓶撃ちという前代未聞の新戦術を取った長篠の戦いにおいて、勇猛と言われ、老巧と言われた武田騎馬隊は、鉄砲の前に懲りもせず突撃を繰り返して一方的に壊滅してしまったではないか。
 あの戦いをもって武田勝頼が暗愚であったかのように言う者が有り、かつ又老臣の諌めを振り切って突撃が敢行されたような記録が多いが、筆者はそれを信じない。勝頼は水準以上の武将であった。

 にも拘わらず、何故敗れたのか。

 突き詰めれば、それが戦術転換の効果であり、新戦術というものなのだと思うのみである。敗れた者は後になって初めて敗れた理由を知るのであって、戦いの最中には気付かないし、気付いてもなす術が無いものなのだと思うのである。
 ニーバル側はタゴロローム軍の新戦術になす術が無かった。むしろ、一時にどっと崩れない事が、流石に歴戦の戦士達と思われた。
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